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三章
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「アスカ、夏の予定は決まったかい?」
年度末試験を終え、すでに夏季休暇に入っているというのに、スイスの研究所に行くかケンブリッジに残るか、それとも日本に帰るのか、飛鳥は未だ決めあぐねている。そんな彼にすっかり業を煮やしているヘンリーは、毎日の日課のように今日も尋ねている。
「ごめん、まだ、」
口ごもる飛鳥に、「コズモスの研究室にくる?」とヘンリーはいきなり、まったく選択肢になかった新しい提案をしてきた。「屋敷に招待するよ」と。
コズモスの開発部はまったくの謎に包まれていて、飛鳥はもちろんのこと、コズモスの社員ですら、それがどこにあるのか知らされていない。これほどの規模でありながら、コズモスは完全ファブレス会社だ。本社はロンドンにあるが、作られる製品の雛型がどこで、誰の手によって開発されているのかは、一部の社員しか知らないトップシークレットなのだ。
「その研究室って――、もしかして、」
「サラなら、いるよ。そろそろ真面目に量産化を考えなくちゃいけないし、君たち二人でプロジェクトを進める方が効率的だろ?」
ケンブリッジのフラットのバルコニーに出て手摺にもたれ、ヘンリーは優雅に微笑んで言った。
「いい風だね」
初夏の風にキラキラと輝く金の髪を散らされるままに、ヘンリーにしては珍しく、シャツにベスト、スラックスのラフな格好で、のんびりと雲一つない空を見上げている。季節を問わず青空の続くことの少ない英国でも、この時期は時折、こんな晴れやかな日を持つことができる。
川風を受け、ふっと今までの拘りやしこりが吹き飛ばされたような、そんな爽やかな気分にかられ、ヘンリーは思いついたままを口にしていたのだ。
だが、返事がない。再び飛鳥に視線を戻した。
「どうしたの?」
真っ赤な顔をして、唖然として自分を見ている彼に、逆に驚いて尋ねた。
「だって――。僕がどれほど彼女に憧れてきたか、きみだって知っているだろ!」
飛鳥は緊張からか、泣きだしそうな顔をしている。
「ありがとう。彼女のことを、そんなふうに思っていてくれて」
ヘンリーは嬉しそうに微笑んだ。
「ヨシノはケンブリッジですごすんだろ? ハワード教授が、首に縄をつけてでも絶対に連れてこいって、おっしゃっていたよ」
「うん……」
飛鳥の動揺が収まるのを待ってから、ヘンリーは本題を切りだした。
飛鳥はガーデンチェアーにうずくまるように丸まって、浮かない顔で頷いている。
「心配で、置いていけない?」
飛鳥は黙ったまま、もう一度こくんと頷く。
「八月にはデイブが戻ってくるよ」
「じゃ、それまでここに残って、その後――。あーでも、デイブじゃ吉野と一緒になって遊び回りそうだ」
「ウィリアムを泊まり込ませるよ」
ヘンリーはクスクス笑って、さらに畳みかける様に言った。
「僕はきみに、うちに遊びにきて、って言っているんじゃないんだよ。これは仕事なんだ」
優しい調子だが、はっきりと言われ、飛鳥は情けなさそうに唇を曲げた。
「ごめん、ヘンリー」
「まぁ、きみの気持ちも解るけれどね」
コンコンッと、ガラス戸を叩く音とともに、アーネストがヘンリーを呼んだ。
「ロレンツォが来ている」
「ここに通して」
ヘンリーは面倒くさそうに言うと、ちらと飛鳥に目を向けた。
飛鳥は頷き立ち上がり、「久しぶりだな、僕も挨拶だけしてくるよ」とアーネストと共にバルコニーを後にする。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
ヘンリーは川から上がって来る強い風を避け、肩を丸めて煙草に火を点ける。袖をまくり上げた左腕の内側に、一本の赤い線のような傷痕がみえる。
ロレンツォはその傷痕を一瞥し、すぐに目を逸らすと、不機嫌丸出しの顔でヘンリーに詰め寄った。
「お前、本当に――。少しは説明しろ」
「何が気に入らないんだい? CEO、それとも筆頭株主?」
「その両方」
ロレンツォは、ヘンリーの父の会社の最新情報が発表された経済新聞を握りしめて、語気粗く、腹立たしさを隠そうともしない。
そこには、誰もがヘンリーが後を継ぐと信じて疑わなかったジョサイア貿易のCEOの地位には、ヘンリーの叔父ジョージの名が、筆頭株主にはヘンリーの父の名が記されているのだ。
「きみ、あの暴落時にジョサイアの株を買い漁ってかなりの利益を上げたんだろう? もう、いいじゃないか。身内のごたごたに首をつっこむな」
「祖父さんから株を買い戻すのは、成功したんだろう? それなのになぜ、コズモスがジョサイアの筆頭でもなけりゃ、お前がCEOでもないんだ?」
「祖父が、それを望んだから」
ヘンリーは薄く笑って、ロレンツォに視線を流した。
「あの人の言いなりにはならないよ。父の会社なんていらない。それにね、僕は叔父のことは好きだし、信頼もしているんだ。安心して会社を任せられる人だよ」
ヘンリーは可笑しそうに笑いながら、ロレンツォの持っている新聞に手を伸ばす。
「信じられるかい? アメリカには祖父の用意した僕の花嫁候補が一ダースは待ちかまえていたんだよ。僕はまだ十八歳で学生の身分だっていうのに。皆、僕の総資産額を電卓で弾いて熱い視線を送ってくるんだ。あの子たちには、僕が札束に見えるのだろうね」
おもむろに新聞を開きながら、ロレンツォが印をつけていた、ジョサイア貿易に関する記事に目を走らせる。
「彼女たちのがっかりする顔が目に浮かぶようだよ」
「お前――、」
顔を強張らせるロレンツォに宥めるような視線を送り、「心配しなくても、ジョサイアの株を持ったままでも下がることはないさ。別に、僕がトップに立たなくったってね」と、ヘンリーは屈託なく、笑う。
ロレンツォも眉根を寄せて皮肉に嗤い、「一ダースくらい大したことないさ。俺にはその三倍はいるぞ」とヘンリーの指にあった煙草を取って自分の口に運び、同じように抜けるような青空を見上げると、ふーと長く薄い紫煙を吐きだした。
年度末試験を終え、すでに夏季休暇に入っているというのに、スイスの研究所に行くかケンブリッジに残るか、それとも日本に帰るのか、飛鳥は未だ決めあぐねている。そんな彼にすっかり業を煮やしているヘンリーは、毎日の日課のように今日も尋ねている。
「ごめん、まだ、」
口ごもる飛鳥に、「コズモスの研究室にくる?」とヘンリーはいきなり、まったく選択肢になかった新しい提案をしてきた。「屋敷に招待するよ」と。
コズモスの開発部はまったくの謎に包まれていて、飛鳥はもちろんのこと、コズモスの社員ですら、それがどこにあるのか知らされていない。これほどの規模でありながら、コズモスは完全ファブレス会社だ。本社はロンドンにあるが、作られる製品の雛型がどこで、誰の手によって開発されているのかは、一部の社員しか知らないトップシークレットなのだ。
「その研究室って――、もしかして、」
「サラなら、いるよ。そろそろ真面目に量産化を考えなくちゃいけないし、君たち二人でプロジェクトを進める方が効率的だろ?」
ケンブリッジのフラットのバルコニーに出て手摺にもたれ、ヘンリーは優雅に微笑んで言った。
「いい風だね」
初夏の風にキラキラと輝く金の髪を散らされるままに、ヘンリーにしては珍しく、シャツにベスト、スラックスのラフな格好で、のんびりと雲一つない空を見上げている。季節を問わず青空の続くことの少ない英国でも、この時期は時折、こんな晴れやかな日を持つことができる。
川風を受け、ふっと今までの拘りやしこりが吹き飛ばされたような、そんな爽やかな気分にかられ、ヘンリーは思いついたままを口にしていたのだ。
だが、返事がない。再び飛鳥に視線を戻した。
「どうしたの?」
真っ赤な顔をして、唖然として自分を見ている彼に、逆に驚いて尋ねた。
「だって――。僕がどれほど彼女に憧れてきたか、きみだって知っているだろ!」
飛鳥は緊張からか、泣きだしそうな顔をしている。
「ありがとう。彼女のことを、そんなふうに思っていてくれて」
ヘンリーは嬉しそうに微笑んだ。
「ヨシノはケンブリッジですごすんだろ? ハワード教授が、首に縄をつけてでも絶対に連れてこいって、おっしゃっていたよ」
「うん……」
飛鳥の動揺が収まるのを待ってから、ヘンリーは本題を切りだした。
飛鳥はガーデンチェアーにうずくまるように丸まって、浮かない顔で頷いている。
「心配で、置いていけない?」
飛鳥は黙ったまま、もう一度こくんと頷く。
「八月にはデイブが戻ってくるよ」
「じゃ、それまでここに残って、その後――。あーでも、デイブじゃ吉野と一緒になって遊び回りそうだ」
「ウィリアムを泊まり込ませるよ」
ヘンリーはクスクス笑って、さらに畳みかける様に言った。
「僕はきみに、うちに遊びにきて、って言っているんじゃないんだよ。これは仕事なんだ」
優しい調子だが、はっきりと言われ、飛鳥は情けなさそうに唇を曲げた。
「ごめん、ヘンリー」
「まぁ、きみの気持ちも解るけれどね」
コンコンッと、ガラス戸を叩く音とともに、アーネストがヘンリーを呼んだ。
「ロレンツォが来ている」
「ここに通して」
ヘンリーは面倒くさそうに言うと、ちらと飛鳥に目を向けた。
飛鳥は頷き立ち上がり、「久しぶりだな、僕も挨拶だけしてくるよ」とアーネストと共にバルコニーを後にする。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
ヘンリーは川から上がって来る強い風を避け、肩を丸めて煙草に火を点ける。袖をまくり上げた左腕の内側に、一本の赤い線のような傷痕がみえる。
ロレンツォはその傷痕を一瞥し、すぐに目を逸らすと、不機嫌丸出しの顔でヘンリーに詰め寄った。
「お前、本当に――。少しは説明しろ」
「何が気に入らないんだい? CEO、それとも筆頭株主?」
「その両方」
ロレンツォは、ヘンリーの父の会社の最新情報が発表された経済新聞を握りしめて、語気粗く、腹立たしさを隠そうともしない。
そこには、誰もがヘンリーが後を継ぐと信じて疑わなかったジョサイア貿易のCEOの地位には、ヘンリーの叔父ジョージの名が、筆頭株主にはヘンリーの父の名が記されているのだ。
「きみ、あの暴落時にジョサイアの株を買い漁ってかなりの利益を上げたんだろう? もう、いいじゃないか。身内のごたごたに首をつっこむな」
「祖父さんから株を買い戻すのは、成功したんだろう? それなのになぜ、コズモスがジョサイアの筆頭でもなけりゃ、お前がCEOでもないんだ?」
「祖父が、それを望んだから」
ヘンリーは薄く笑って、ロレンツォに視線を流した。
「あの人の言いなりにはならないよ。父の会社なんていらない。それにね、僕は叔父のことは好きだし、信頼もしているんだ。安心して会社を任せられる人だよ」
ヘンリーは可笑しそうに笑いながら、ロレンツォの持っている新聞に手を伸ばす。
「信じられるかい? アメリカには祖父の用意した僕の花嫁候補が一ダースは待ちかまえていたんだよ。僕はまだ十八歳で学生の身分だっていうのに。皆、僕の総資産額を電卓で弾いて熱い視線を送ってくるんだ。あの子たちには、僕が札束に見えるのだろうね」
おもむろに新聞を開きながら、ロレンツォが印をつけていた、ジョサイア貿易に関する記事に目を走らせる。
「彼女たちのがっかりする顔が目に浮かぶようだよ」
「お前――、」
顔を強張らせるロレンツォに宥めるような視線を送り、「心配しなくても、ジョサイアの株を持ったままでも下がることはないさ。別に、僕がトップに立たなくったってね」と、ヘンリーは屈託なく、笑う。
ロレンツォも眉根を寄せて皮肉に嗤い、「一ダースくらい大したことないさ。俺にはその三倍はいるぞ」とヘンリーの指にあった煙草を取って自分の口に運び、同じように抜けるような青空を見上げると、ふーと長く薄い紫煙を吐きだした。
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