胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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「吉野が困っている。ロンドンに行ってくるよ」
 キッチンカウンターで電話を切った飛鳥は、真っ青な顔をして震える声で食事中のヘンリーを振り返って告げた。
「今から? 今度は何?」 
 思わずニヤついた口許を飛鳥に気づかれないように隠し、訊き返す。

「弁護士を紹介してくれって」
「刑事事件?」
 ヘンリーもさすがに眉をひそめ、笑いを引っ込める。
「吉野のお世話になっているパブが、あいつのせいで買収されかかっているって」
「買収、あそこが?」

 入り組んだ路地の奥にあるジャックのパブは、飲食店としてけして条件の良い立地にはない。口コミで人気が出たとしても、買収されるほどの価値があるとは思えない。ヘンリーは訝しげに首を傾げた。

「僕も行くよ。アーニーも連れて行こう。法律は彼の専門だからね。本当に弁護士が必要なのか訊いてみなくては」
 昼食もそこそこに立ちあがった二人は、急いで車の手配をしフラットを出て、外出中だったアーネストを途中で拾い、ロンドンに向かった。




「これ、本当にきみが作ったの?」
 手にした月次売り上げデーター表や、顧客動向分析表の資料から顔をあげ、アーネストは感嘆を込めて吉野を見た。

「ジャックがする訳がないだろ」
 当たり前のことを訊くな、とばかりに吉野は口を尖らせている。
「こっちは、イングランドで好まれる日本食の傾向レポートかい?」
 ヘンリーも、興味深そうにソファーの前に山積みにされた書類の束に次々と目を通している。

「この資料、相手方に見せたの?」
「見せていない、と思う」
 訝し気に眉根を寄せ、ヘンリーはアーネストと顔を見合わせている。
「それで、提示されているのがこの金額? アーニー、あの場所の不動産価値は?」
「これくらいかな」
 アーネストは、スマートフォンの電卓を弾いて見せる。

「明らかに店ではなくメニューの権利金だな。きみの考案したメニューは、いつから何品くらい作ったの?」
「ハンバーガーが、九月で、チキンティッカマサラと、チキンティッカのクラブハウスサンドが一月から、桜が四月末だろ、あと、一銭洋食は六月から。それ、貸して」

 アーネストの手にしていたリストに手を伸ばして受け取ると、吉野はパラパラとめくって数枚をヘンリーに渡した。

「詳細なデーターだね。リピーターと初見客まで統計を取っているんだ?」
「アンはお客さんの顔を全部覚えているんだよ。そのデータは、アンが記録してくれたんだ。だから丁寧だろ? 初めの頃のはジャックがつけていたから、結構いいかげんだよ」
 吉野は自分のことを自慢するように誇らしげだ。

「結論から言うと、提示されている金額では安すぎるね」
 ヘンリーは煙草を取りだし、ふっと気がついたように、「吸ってもいいかい?」と吉野に確認してから火をつけた。

「それで、きみはどうしたいの?」
「ジャックはまとまった金が欲しいと言っている。だけど、俺、あの店を売って欲しくないんだよ」
「彼の店だ。それはきみの口出しできることじゃない」
「だって――。ジャックだって、本当は売りたくないに決まってる。アンのためだと思っているんだ。でもアンは、店を手放してまで大学に行きたくはないって――」
「意見がくい違っているわけだ。それで、このメニューの権利はきみにあるわけだろう? 店と一緒に売ってしまっていいのかい?」
「もともとジャックとアンのために考えたんだ。俺のものだなんて思ってないよ」
「欲がないね」


「当然だよ。お前が、寮の食事に文句をつけなくなったから、おかしいと思っていたんだ。二人のためとか言って、お前、厨房を自由に使いたかっただけだろ!」

 それまで黙って聞いていた飛鳥が、腹立たしげに吉野を睨み、口を挟んだ。

「まったくお前は、お金を稼ぎさえすれば、それでいいと思っているんだ!」
「だって、飛鳥――」

 ジャックとアンのため、という気持ちに嘘はない。けれど元々は、寮の食事が嫌で、自由に料理のできる厨房を借りたかったのも本当だった。そんな弟の本心を見透かした、ふくれっ面の飛鳥の彼をたしなめる言葉には、容赦がなかった。

「お前のメニューだけ投資ファンドに売ればいい。そのお金を迷惑をかけた慰謝料として、パブのオーナーに頭を下げておいで。お前の我がままでよそ様に迷惑をかけたんだ。僕もお前と一緒に謝りに行くからな」
「ごめん」

 飛鳥に怒られ、所在なさげに小さくなっている吉野を見て、ヘンリーは手に持った煙草を揉み消しクスクスと笑った。

「それなら話は早い。うちの弁護士に話を詰めさせるよ」
「僕も行くよ」

 会話に口を挟まず黙って聞いていたアーネストが、おもむろに口を開いた。
「僕の失態だ。僕が始末をつけてくる」

 怪訝そうに見つめ返す飛鳥と吉野を尻目に、ヘンリーは冷ややかな面持ちで頷いた。


「それにしても、いったいどんな育て方をしたらこんな子ができあがるんだい? 僕はそのことの方がよほど気になるよ」この話はいったん打ち切って、ヘンリーはくつろいだ様子でクスクスと笑った。

「父さんはずっと忙しかったから。吉野はずっと、父さんの代わりに町内の行事や商店街のイベントやら手伝ってきたから――」

 飛鳥は言いにくそうに言葉を濁した。吉野を今までほったらかし、他人任せにしてきたツケを、今、支払っているのだと思わずにはいられなかったからだ。

「商売に関しちゃシビアなんだよ。下町育ちだからな。当然だろ、どんぶり勘定でやってられっかよ」

 吉野はふんっと頬を膨らませた。





 それから数日後、吉野はジャックから、店は売らずに吉野の考案したチキンティッカマサラとチキンティッカのクラブハウスサンドの二つのメニューだけを投資ファンドに売り、提示された金額と同額を受け取ったことを告げられた。


 買収話もひと段落つき、ジャックのパブにも落ち着きが戻ってきた頃、『休憩中』の札が下がったドアが、カラン、カランと鳴り、古ぼけたこの店には似つかわしくない優雅な青年が足を踏み入れた。

「閉店中だ!」
 ジャックの皺がれたがなり声を無視して歩み寄ると、青年は上品に微笑んで、カウンターに腰かけ昼食中のエリアスの肩に手を添えた。
「こんにちは、御主人。彼を少しの間、お借りできますか?」
「なんだ、エリアスの知り合いかい。ああ、かまわないよ。あんたも何か食っていくかい?」
「ありがとう。でも、少し二人だけで話したいのですが」
「二階を使うといい」

 食べかけのサンドイッチをそのままにして、エリアスは緊張した面持ちで立ち上がる。



 薄汚れた壁紙に、歩くとキシキシと軋む床、ペンキの剥げかけた窓枠を見廻しながら、「この店にあの金額はないだろう?」とアーネストは冷ややかに微笑んで言った。

「幾ら、受け取ったんだい?」
 顔を強張らせたまま動かないエリアスの正面に歩み寄る。
「買収ファンドに、ヨシノのリサーチレポートを幾らで売ったんだ? と訊くべきかな?」
 小刻みに震えるエリアスをせせら笑い、「幾らにせよ、まったく過小評価も甚だしいよ。あんなはした金で、コズモス社員の地位を投げ捨てるとはね。本当に残念だ」と、彼の肩に手を置いた。

「ラザフォード卿、待ってください! これには訳が、」
「きみはコズモス社員としての誇りも持ち合わせてないみたいだね。おまけにきみに任せたあの子の価値すら読み切れていない。そんな無能は、コズモスには相応しくない」

 アーネストはエリアスの胸ポケットに、折りたたんだ解雇通知をおもむろに差し込むと、縋りつこうと手を伸ばしかけたエリアスに軽蔑するような一瞥を残し、踵を返して部屋をあとにした。

 キシキシと遠ざかる足音を聞きながら、脱力し肩を震わせたエリアスは、なすすべもなく、その場に立ち尽くしていた。






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