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三章
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雲一つないどこまでも広がる青空を見上げ、誰も、何もない緑の草地にあぐらをかいて、吉野は糸を手繰る。きらきら光る細い糸のずっと、ずっと先には、黒い蝶が繋がれ、ひらひらと羽ばたいている。
「どうして風もないのに凧が揚がるの?」
かなり離れた場所で馬をとめ、その様子を眺めていたアレンが傍らに並ぶクリスに訊ねた。
「強い風がない方がいいんだって、出かける時に言ってたけど……」
不思議そうに顔を傾げるアレンに、クリスも困ったように苦笑っている。
「昨日、作っている時に、流体力学とか、航空力学とか説明してくれていたけど、僕じゃよく解らなかった。本人に訊いてみれば?」
アレンも笑って首を振る。
「僕だって解らないと思う。こうして見ているだけでいいよ」
「声をかけないの?」
「うん、邪魔しちゃ悪いし」
「もう乗馬の時間に見にいくって、言ってあるから平気だよ!」
クリスは馬を走らせ、吉野の名を呼んだ。アレンは困惑して唇を引き結び、速歩でそれに続く。
「ヨシノ! 綺麗な凧だね、本当に蝶が飛んでいるみたいだ!」
クリスは馬から下りて柵に手綱を結びつけると、柵を乗り越え道を渡り、振り向いた吉野に手を振った。
「ああ、お前もやる?」
吉野は楽しそうに、横に腰を下ろしたばかりのクリスに、手の中のリールを見せた。
クリスは、瞳を輝かしてリールを受け取る。とたんに、ぐいっと引っ張られるような感触と、伝わってくる風の圧力に驚いて思わず力を入れた。もう一方の手も添えてぐっと握りしめ、吉野がしていたように胸元で構える。だが空に浮かぶ蝶は、吉野が操っていた時のようには、羽ばたかなかった。不安定にバタバタと揺れている。吉野は手袋を嵌めた手を伸ばし、光を弾く透明の糸を軽く手繰って調節する。
「ほら、これで大丈夫だ」
再び大空をひらひらと舞い始めた黒蝶の姿を見て安堵したのか、クリスの口許から笑みがこぼれる。
「僕の知っている凧揚げとは、全然違うよ!」
「そうか?」
「こんな形の凧も、リールを使って揚げるのも、初めてだよ」
クリスは蝶の羽ばたきを目で追いながら、うきうきと弾けるように笑っている。
「このタイプの凧は風が強いと飛ばないし、壊れやすいんだ。だから気流の安定する150フィート以上に揚げなきゃいけない。これな、釣り用の糸とリールなんだ。市販のタコ糸よりも、軽くて、強くて、高くまで飛ばせるんだよ」
吉野は嬉しそうに目を細めて説明しながら、蝶の動きが不安定になると、手を伸ばして糸を手繰ってやる。
「お前もやるか?」
クリスが凧揚げに夢中になっている間、静かに横に腰を下ろして眺めていたアレンに、吉野がふいに声をかけた。
「凧揚げって、したことがないんだ。見るのも初めてかも――」
恥ずかしそうにそう告げたアレンに、「じゃ、揚げるところからするか?」と吉野はクリスからリールを受け取り、ゆっくりと糸を巻いて凧を下ろした。
「こんなに大きかったんだ!」
空から下りた40インチはありそうな巨大な蝶を見て、アレンも、クリスも驚嘆の声を上げる。
「初めはコツがいるから、俺がやるな」
吉野は片手で凧を高く持ち上げ、反対のリールを持つ手を大きく振って糸を操る。
「なんで、それだけで凧が揚がるの?」
「自分で風を起こしてそれに乗せるんだよ」
頭上9、10フィートに凧を飛ばし、自分の手袋を外すとアレンに渡し、リールを握らせた。
「素手じゃ指を切るから、それ使って。糸をたるませないように気をつけて、親指でブレーキを掛けながらゆっくり糸を伸ばすんだ」
アレンは言われたとおりに糸を伸ばし、小刻みに引きながら、食い入るように空を見上げて蝶の動きを目で追った。やはり吉野がするようには、美しく羽ばたかない。けれど、バタバタと不安定であっても、自分の操る糸の引きのままに、確かに蝶は大空を舞っている。それが嬉しくて堪らなくて、アレンは満面の笑みを湛えて傍らのクリスに目をやった。
「この蝶、キングズスカラーのローブがなびいているみたいだね」
クリスが空を見上げて言った。
「だろ? だからこの図柄にしたんだ。この蝶、カラスアゲハっていう種なんだ。オピダンスはペンギンだけれど、俺たちはカラスだもんな。カラスを凧にして飛ばすより綺麗でいいだろ?」
オピダンスとは街にある寮にいる生徒たちのことで、制服の燕尾服を揶揄われて、他の学校からはペンギンと呼ばれている。それに対して、ローブの着用が義務づけられているスカラーたちは、カラスと呼ばれている。
「じゃ、この凧はヨシノなの?」
「ははは、チャールズに、よく、お前は糸の切れた凧だって言われるよ」
真面目な顔をして尋ねたクリスに、吉野は可笑しそうに笑って答えた。そして、「でも、凧は糸が付いている方が、ずっと高く、遠くまで飛んでいけるんだ。だから俺は自分から糸を切ったりはしないんだけれどな」と凧の後ろに拡がる無限の空間に目を細める。
それなら、その糸の端を握ってきみを地上に繋いでいるのは、誰なの?
アレンは少しずつ飛距離を上げ、地上高く舞い上がっていく凧を操りながら心の中で呟いていた。
「僕も、僕の凧が欲しいよ」
クリスが真剣な目で吉野を見上げる。その瞳に吉野は、くっくと笑い返す。
「そう言うと思った」
「自分で作るから教えて」
素直なクリスの言葉に、アレンはちらりと羨ましそうな視線を向ける。
「いいよ、年度末試験が終わったらな」
「凧揚げしている場合じゃなかったよ……!」
クリスのぼやきに吉野は声を立てて笑っている。
年度末試験が終わったらじきに夏季休暇だ。この年度が終わり、僕たちは二学年に上がる。
この蝶が、永遠にこのまま上空を渡る風に乗って、抜けるような青空を舞い続けてくれればいいのに――、と願いながら、アレンは手元の糸をそっと手繰っていた。
「どうして風もないのに凧が揚がるの?」
かなり離れた場所で馬をとめ、その様子を眺めていたアレンが傍らに並ぶクリスに訊ねた。
「強い風がない方がいいんだって、出かける時に言ってたけど……」
不思議そうに顔を傾げるアレンに、クリスも困ったように苦笑っている。
「昨日、作っている時に、流体力学とか、航空力学とか説明してくれていたけど、僕じゃよく解らなかった。本人に訊いてみれば?」
アレンも笑って首を振る。
「僕だって解らないと思う。こうして見ているだけでいいよ」
「声をかけないの?」
「うん、邪魔しちゃ悪いし」
「もう乗馬の時間に見にいくって、言ってあるから平気だよ!」
クリスは馬を走らせ、吉野の名を呼んだ。アレンは困惑して唇を引き結び、速歩でそれに続く。
「ヨシノ! 綺麗な凧だね、本当に蝶が飛んでいるみたいだ!」
クリスは馬から下りて柵に手綱を結びつけると、柵を乗り越え道を渡り、振り向いた吉野に手を振った。
「ああ、お前もやる?」
吉野は楽しそうに、横に腰を下ろしたばかりのクリスに、手の中のリールを見せた。
クリスは、瞳を輝かしてリールを受け取る。とたんに、ぐいっと引っ張られるような感触と、伝わってくる風の圧力に驚いて思わず力を入れた。もう一方の手も添えてぐっと握りしめ、吉野がしていたように胸元で構える。だが空に浮かぶ蝶は、吉野が操っていた時のようには、羽ばたかなかった。不安定にバタバタと揺れている。吉野は手袋を嵌めた手を伸ばし、光を弾く透明の糸を軽く手繰って調節する。
「ほら、これで大丈夫だ」
再び大空をひらひらと舞い始めた黒蝶の姿を見て安堵したのか、クリスの口許から笑みがこぼれる。
「僕の知っている凧揚げとは、全然違うよ!」
「そうか?」
「こんな形の凧も、リールを使って揚げるのも、初めてだよ」
クリスは蝶の羽ばたきを目で追いながら、うきうきと弾けるように笑っている。
「このタイプの凧は風が強いと飛ばないし、壊れやすいんだ。だから気流の安定する150フィート以上に揚げなきゃいけない。これな、釣り用の糸とリールなんだ。市販のタコ糸よりも、軽くて、強くて、高くまで飛ばせるんだよ」
吉野は嬉しそうに目を細めて説明しながら、蝶の動きが不安定になると、手を伸ばして糸を手繰ってやる。
「お前もやるか?」
クリスが凧揚げに夢中になっている間、静かに横に腰を下ろして眺めていたアレンに、吉野がふいに声をかけた。
「凧揚げって、したことがないんだ。見るのも初めてかも――」
恥ずかしそうにそう告げたアレンに、「じゃ、揚げるところからするか?」と吉野はクリスからリールを受け取り、ゆっくりと糸を巻いて凧を下ろした。
「こんなに大きかったんだ!」
空から下りた40インチはありそうな巨大な蝶を見て、アレンも、クリスも驚嘆の声を上げる。
「初めはコツがいるから、俺がやるな」
吉野は片手で凧を高く持ち上げ、反対のリールを持つ手を大きく振って糸を操る。
「なんで、それだけで凧が揚がるの?」
「自分で風を起こしてそれに乗せるんだよ」
頭上9、10フィートに凧を飛ばし、自分の手袋を外すとアレンに渡し、リールを握らせた。
「素手じゃ指を切るから、それ使って。糸をたるませないように気をつけて、親指でブレーキを掛けながらゆっくり糸を伸ばすんだ」
アレンは言われたとおりに糸を伸ばし、小刻みに引きながら、食い入るように空を見上げて蝶の動きを目で追った。やはり吉野がするようには、美しく羽ばたかない。けれど、バタバタと不安定であっても、自分の操る糸の引きのままに、確かに蝶は大空を舞っている。それが嬉しくて堪らなくて、アレンは満面の笑みを湛えて傍らのクリスに目をやった。
「この蝶、キングズスカラーのローブがなびいているみたいだね」
クリスが空を見上げて言った。
「だろ? だからこの図柄にしたんだ。この蝶、カラスアゲハっていう種なんだ。オピダンスはペンギンだけれど、俺たちはカラスだもんな。カラスを凧にして飛ばすより綺麗でいいだろ?」
オピダンスとは街にある寮にいる生徒たちのことで、制服の燕尾服を揶揄われて、他の学校からはペンギンと呼ばれている。それに対して、ローブの着用が義務づけられているスカラーたちは、カラスと呼ばれている。
「じゃ、この凧はヨシノなの?」
「ははは、チャールズに、よく、お前は糸の切れた凧だって言われるよ」
真面目な顔をして尋ねたクリスに、吉野は可笑しそうに笑って答えた。そして、「でも、凧は糸が付いている方が、ずっと高く、遠くまで飛んでいけるんだ。だから俺は自分から糸を切ったりはしないんだけれどな」と凧の後ろに拡がる無限の空間に目を細める。
それなら、その糸の端を握ってきみを地上に繋いでいるのは、誰なの?
アレンは少しずつ飛距離を上げ、地上高く舞い上がっていく凧を操りながら心の中で呟いていた。
「僕も、僕の凧が欲しいよ」
クリスが真剣な目で吉野を見上げる。その瞳に吉野は、くっくと笑い返す。
「そう言うと思った」
「自分で作るから教えて」
素直なクリスの言葉に、アレンはちらりと羨ましそうな視線を向ける。
「いいよ、年度末試験が終わったらな」
「凧揚げしている場合じゃなかったよ……!」
クリスのぼやきに吉野は声を立てて笑っている。
年度末試験が終わったらじきに夏季休暇だ。この年度が終わり、僕たちは二学年に上がる。
この蝶が、永遠にこのまま上空を渡る風に乗って、抜けるような青空を舞い続けてくれればいいのに――、と願いながら、アレンは手元の糸をそっと手繰っていた。
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