胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

坂道1

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 英国の桜の季節は長い。二月末から五月頃までいろんな種類の桜が順繰りに咲いては散っていく。
 厩舎のある小高い丘から川沿いの坂道を、吉野は黒いローブを翻しながら自転車で駆け下りる。頭上の遅咲きの八重桜にちらりと目をやる。薄紅色の花びらが満開で、いかにも春めいて艶っぽい。
 ちょうどこの木の下を通り過ぎた頃に出会う川向うにいるアンに、やっとギプスの外れた右手を振った。今日も時間通りだ。アンはこれから店に入り、吉野はパブの裏口に自転車を置いて寮に帰る。それが新学期が始まってからの習慣になっていた。

「今日も寄って行かないの?」
 素っ気なく立ち去ろうとする吉野に、アンはさりげなく声をかけた。
「これから補習。国際中等教育資格試験IGCSE‬が終わるまで無理」
 吉野はちょっとだけ、すまなさそうに笑う。

「あんた、今、いくつよ?」
 アンは呆れた顔で笑いながら、吉野を見つめる。
「もうじき十四だよ。だって来年から法律が変わるだろ? 早期受験できなくなる。今年取らなきゃ十六まで待たなきゃならなくなるじゃないか。試験が終わったらまた来るよ。じゃ、頑張れよ」

 吉野はいつものように、にっと笑って足早に行ってしまう。決して振り返らないことを解っているから、アンは取り繕うこともなく、残念そうにその背中を見送った。


「坊主はもう帰ったのか? この頃は顔も見せねぇで、自転車だけ置いていきやがる」
「試験勉強だって」
 憤慨するジャックを宥めるように、アンは無理に笑顔を作る。

「イースター休暇中、こってりと絞られたそうですからねぇ。当分はここへは顔を出せませんよ。そのために僕がいるんですし」
 吉野の代わりを補うためにコズモス社から派遣されてきたエリアスが、にこにこと微笑みながら口を挟んだ。

「あんたもいい迷惑ね。エリートがこんな所へ飛ばされて、ボーイなんかやらされながら子どもの御守りだなんて」
 皮肉めいたアンの口調にも、エリアスは笑みを絶やさない。
「とんでもない! 一番の出世コースに乗せて貰ったようなものですよ!」
 この男の、腹の読めない一見穏やかな紳士面を見る度に、アンはもやもやと胸が痞えたようにイラついていた。


 こんなのに監視されていたんじゃ、逃げたくもなるわよ!

 裏通りのパブにそぐわない綺麗に撫でつけられた金髪に、いかにもいいところの坊ちゃんのような、すらりとした姿勢。上品すぎるケンブリッジ・アクセント。この男のせいで、この店に前から来ていた常連客はぐっと減って、女性客ばかりになってきた。それに加えて、暇な時間にはアンに帳簿のつけ方を教え、経理まで教えてくれる。抜かりのない有能さばかりを見せつけられ、アンはますます息苦しい。

 ヨシノとだったら、同じことをしていてもずっと楽しかったのに――。

 いまだに吉野が坊ちゃん学校エリオットの生徒で、あのヘンリー・ソールスベリーと肩を並べる会社の御曹司さまだなんて、アンには信じられなかった。

 皆して私をからかっているんじゃないかと、どこかで思っていたのだ。この男、エリアスが来るまでは……。



 アンは、カウンター内に入り、溜まっていたグラスを洗う。洗い終わると、薔薇の香りのハンドクリームを塗るのが、最近の習慣だ。

 新学期が始まった日にふらりと顔をみせた吉野が、ロンドン土産、と投げてよこした物だ。
 むきだしのままの、高級デパート、ハロッズのロゴと花模様のエレガントなパッケージにまず驚き、こんな可愛いもの自分には似合わないと、アンは気恥ずかしさを覚えたのだった。

『贅沢よ、こんなもの』と、すぐに口をついてしまった。
『たかがハンドクリームだろ?』
 吉野は無邪気に笑って、瞬く間に店を出てしまった。お礼を言う間さえくれなかった。

「手荒れ、随分と良くなりましたね」
 エリアスがカウンター越しに覗き込んで、自分の手を見ている。
「あんたも要るんじゃないの?」
 アンはまたも、皮肉な口調でエリアスに目を向ける。
「僕は平気ですよ。男ですからね」
 相変わらずにこにこと笑顔を絶やさず、エリアスは自分の手の甲を向ける。すらりとした長い指に女のようにきちんと手入れされた爪。その指の一本一本が階級の違いを見せつけ、彼女をイラつかせて仕方がなかった。


『ヨシノの見かけに騙されるなよ。あいつは俺たちとは住んでいる世界が違うんだ』

 ジャックに言われた言葉が脳裏を過ぎる。アンは奥歯をぎゅっと噛み締める。当たり前だったことが、当たり前じゃなくなっている――。今まで、自分のガサガサの節くれだった手を恥ずかしいと思ったことなんて、なかった。会社勤めをしていた母は綺麗な手をしていたけれど、べつだん何も感じたことはなかった。それなのに今になって――。


 アンには、エリアスの上品な指先が、自分と吉野の間にすっと一本の線を引いているように思えて、堪らなく悔しかったのだ。







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