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三章
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しおりを挟む『本日閉店』のプレートの掛かったドアを開けて入ると、吉野はこの店の主人を呼んだ。
「ジャック!」
返事がない。厨房を覗いて見ても、食材だけが調理台に山積みにされているだけだ。そのままカウンターの裏手にある、一段ごとに、キシッ、キシッと小さな悲鳴のような音を立てる古ぼけた階段を上っていく。
二階の元レストランだった遊戯室をぐるりと見回す。生徒会の連中とのごたごたがあってから、この部屋は使われていないはずだ。その割に小ざっぱりとした様子に疑問を覚えながら、吉野は、椅子を運んで天井近くに飾られた額縁の陰に隠したビデオカメラと、盗聴器を外しにかかる。
「足りない――」
部屋の四か所にセットしたビデオカメラが一つ足りない。もう一度、念入りに探し始めたところで、「ちょっと、あんた、そこで何やってんの?」と、きつい口調で呼び止められた。
「ここ、俺が借りている部屋だよ。そっちこそ勝手に入るなよ」
吉野は、椅子の上に立ち上がったまま平然と答えたが、「あんた、ジャックの孫?」と声の主の、ジャックと同じ黒のウエストエプロンにちらっと目をやると、ぶっきらぼうに顔を傾げて床に下り、睨み返した。
燃えるように赤く長い髪を無造作にくくった、白いシャツにジーンズ姿のその娘は、部屋の中央に置かれたスヌーカーテーブルに歩み寄り、その上に置かれている1インチ程度のいくつもの小型カメラを、気の強そうな顔をしかめて睨みつける。
「うちの店を変なことに使わないでよね」
腹立たしげに言い放つと、彼女はエプロンの大きなポケットから、台の上に置かれているのと同じものを取り出した。コンッと音を立てて置く。
「ありがとう。これ、借りものだからなくすと困るんだ」
吉野は無邪気に微笑んでお礼を言った。
「あんたがヨシノ?」
紺のストレッチクロスのジャージ上下で、ジャケットを肩に羽織っている小生意気なアジア人に、疑わしげな視線を向けている。
ずいぶんと大人びた雰囲気なのに、笑うといきなり幼く見える眼前の男は、年齢が推定できない。
坊ちゃん学校の生徒だって聞いていたのに――。
インド訛りの英語にくだけた様子は、店に来るエリオット校生とは全く違っている。
「そうだよ。あんたは?」
先程までとは打って変わった吉野のフレンドリーな空気に気が抜けて、「アン、アン・ボトムよ。よろしく」と、彼女は仕方なく笑って手を差しだした。吉野はギプスから覗く指先で軽くアンの指に触れ、真っ直ぐな瞳で微笑み返す。
「いい名前だね」
「どこが! 大嫌い、こんな平凡な名前!」
コンプレックスと言っていいほど嫌いなこの名を褒められたことに、アンはしかめ面をして唇を尖らせる。
「俺の国のアルファベットは、『あ』の音で始まって、『ん』の音で終わる。『あ』は、宇宙の始まり、『ん』は、その終りを意味するんだ。だからアンの名前には、この世の全てが詰まっている。すごく神秘的だよ」
驚いて吉野を見つめたアンは、照れたように笑った。
十八年間生きてきて、この名前で揶揄われて嫌な気分は何度も味わった。だがこんな風に褒められたことなど一度もなかったのだ。
「――ありがとう。自分の名前に意味があるなんて考えたこともなかったわ。あんたは? あんたの名前にも意味があるの?」
「俺の名前は、地名だよ。父さんと母さんの大切な思い出の場所なんだ」
吉野は少し照れ臭そうに、そう言って笑った。
「ロマンチックなご両親なのね」
アンは羨ましそうな口調で言い、少し寂しそうに笑うと、自分自身を励ますように、ぐいっと肩を張り胸を逸らした。
「ヨシノ、カレーの仕込み、手伝ってくれる? 初めのスパイスを何回やっても焦がしてしまうの」
「いいよ。そういえばジャックは?」
吉野は、持って来たリュックに小型カメラと盗聴器を仕舞い込みながら、思い出したように訊ねる。
「ぎっくり腰で、当分安静よ」
「ジャックも、歳だな……」
吉野は苦笑して、その間、店はどうするの? と、ずっと以前からの知り合いのようにアンと喋りながら、階段を降り厨房に入っていった。
「ヨシノ!」
パブを出たところで馴染の声に、振り返る。
「ベン、久しぶりだな」
向けられた吉野の笑顔に、ベンジャミンはほっとしたように歩み寄って吉野の肩を抱く。
「すまなかったな、色々と」
「あんたが謝るようなことじゃないだろ? 運がなかったな、あんな時に居合わせて。あんたが生徒会を辞める必要なんてなかったのに」
ベンジャミンは自嘲的に嗤い、しばらくためらった後、自分の恥を晒すかのように声を殺して言った。
「…………。薄々な、感じてはいたんだよ。でも、確かめる勇気がなかったんだ。セディは友達なのに――。僕が、もっと早く止めるべきだったんだ」
「セドリックにしても、あんたにしても、自分の非に気づたら、ずいぶん潔いんだな」
吉野の言葉にベンジャミンは、「遅すぎたけれどね」と、残念そうに唇を歪める。
「見せてやるよ。TS、見たがってただろ?」
吉野は立ち止まって長身なベンジャミンを見あげると、斜向かいの公園を指さした。
「でも、見本市で出したやつとは違うよ。俺のやつの方が新しいからな。それでもいい?」
吉野の急な提案に、ベンジャミンは言葉を忘れ、こくこくと何度も頷いている。
公園の人気のない片隅の木陰で、吉野は掌に収まるほど小さな機械を取りだした。
「携帯音楽プレーヤー?」
見覚えのある形に、ベンジャミンは怪訝な顔をして吉野を見つめる。
と、その小さなディスプレイが青白く光り、七インチサイズの半透明のモニター画面が浮かび上がった。
目を見張り息を飲むベンジャミンに、「これは、ジェスチャーセンサーでしか使えないんだ」と、指先で画面を操作してみせる。
「いつ発売?」
ベンヤミンは声を振り絞るようにして、やっとそれだけ呟いた。
「未定。他のやつにしゃべるなよ。あんただから見せたんだからな」
吉野は他愛のない悪戯でもしているかのように言った。きらきらと鳶色の瞳を輝かせて――。
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