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三章
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寮に駆け戻って、引き出しに入れっぱなしていたスマートフォンを急いで取り出し、飛鳥に電話する。それなのに、『吉野?』と、応答する声を聞いたとたん、昂っていた気持ちがすうっと鎮まっていく。
『吉野、ちょうど良かった。こっちからかけようと思ってたんだ。イースター休暇は、スイスの研究所に行くことになりそうなんだよ。佐藤さんが、日本から来てくれるんだ。お前はどうする? 一緒に来る? もし、友達と過ごしたいんだったら、それでもかまわないし――』
「そうだな、考えておく。いつまでに返事したらいい?」
電話した目的には触れず、他愛のない話でお茶を濁して、吉野は通話を終わらせた。
妹だからって、どうだっていうんだ?
だいたい、飛鳥にも、誰にも紹介しないというのも変な話だった。こうして言われてみれば、アーネストは知っていた節がある。けれど、直接の知り合い、という訳でもなさそうだった。ヘンリーの公にできない身内の噂話を、自分が真っ先に喋ろうとした事実が、吉野は急に恥ずかしくなったのだ。
ただ、もしも、この話が本当なのだとしたら――。
飛鳥やアーネストから聞いた、ヘンリーのシューニヤに対する扱いと、アレンに対する態度のあまりの温度差に、吉野は無性に腹が立っていた。同じ弟妹ではないのか、と。
「あ、ヨシノ戻っていたんだ?」
勢いよくドアを開けて入ってきたクリスが、楽しそうな声で呼びかける。スマートフォンを握りしめたまま、じっと難しい顔をしていた吉野は、はっと振り返った。
「ああ、おかえり、クリス」
「アレンの部屋でお茶にするんだけれど、ヨシノも行く?」
「俺はいいよ」
「行こうよ。『プレタマンジェ』のサンドイッチがあるよ。ヨシノの分も買ってあるんだ。どうせまだ夕飯食べてないんでしょ? これから作っていたら遅くなってしまうよ」
吉野は自分の手首に視線を落とすと、ちっと舌打ちする。
「時計を忘れてきた。今、何時?」
「もう七時過ぎているよ」
小さくため息をついて、行く、と仕方がなさそうに応えた。
自室で同室者のフレデリックと共にお茶の準備をしていたアレンは、予定外の吉野の姿に一瞬固まり、次に大慌てでぎくしゃくと動き、それでもはにかんだように笑って、「ようこそ」と淹れたての湯気の立ち昇るティーカップを差し出した。
四人分とは思えない量のサンドイッチが、瞬く間に減っていく。そのほとんどが、吉野の胃に入っていた。
「助かった。今日は特別、腹が減っていたんだ」
最後のひとつになったスモークサーモンのバゲットサンドを頬張りながら、吉野は無邪気に笑っている。
「相変わらず、見事な食べっぷりだね」
さらりとした黒髪を掻き上げながら、フレデリックは上品に微笑んだ。
「泳いできたの?」
それには答えずに、吉野は、ティーカップの紅茶をごくごくと飲み干した。
「あ、おかわりを――。お湯を沸かしてきます」
アレンは、バタバタとティーポットを抱えて給湯室へ走る。その後をクリスが、手伝うよ、と追いかけた。アレンはお茶を淹れるのが上手くないのだ。それ以前に、彼はお茶を淹れたことがないのだろう。お茶に煩い吉野が何も言わずに一気に煽っていたのは、飲めたものではないからだ、ということを、クリス一人が理解していた。
一人で喋っていたクリスがいなくなった途端に、部屋は急に静まり返っていた。
「なぁ、フレッド、池で泳いでたのさぁ、チャールズにバレちゃったよ」
沈黙を破った吉野の唐突なボヤキに、フレデリックは笑いを堪えるように口を押さえ、身を捩って肩を震わせた。
「笑うなよ。困っているんだ。どんどん俺の息の抜ける場所がなくなっていっているんだぞ――」
「やっぱり、GPSを付けられているんじゃないの?」
「そうなのかなぁ……。ヘンリーの――、アーネストに教えて貰った隠れ家的に使える場所はもう安全じゃないし、どこかこう、気楽に昼寝できるような場所、ないかな? お前の兄貴もここの卒業生だろ? 何か聞いていないか?」
吉野はうんざりしたように深いため息をついている。
フレデリックはもう隠そうともせずクスクスと笑いながら、腰かけているベッドで、両手を頭の後ろに回して伸びをし、揶揄うような視線を吉野に向けた。
「あるよ。厩舎だね、きみの希望に沿えそうなのは」
「いいんだけれどさ。遠いんだよ」
吉野は残念そうに唇を尖らせる。
「兄さんは自転車を使っていたよ。だからさ――、」フレデリックは吉野のいるアレンの机の傍らに立ち、手帳を取り出すと、さらさらと地図を描き始めた。
「ここ、この辺の倉庫に隠しておくんだ。あるいは、街の駐輪場を借りるかだね」
「へぇ、この学校でそんなことしてたのか! お前の兄貴、面白いな――。会ってみたいよ」
「残念だな、きみとなら兄も気が合っただろうに。でももう、この世にはいないんだ」
フレデリックは笑んだまま、静かな口調で吉野を見つめ返した。
「ごめん」
吉野は椅子を引き、立ち上がる。途端に、何かを踏みつけて体勢を崩した。ぶつかった拍子に机の脇に置いてあったチェストの上の本が、ドサドサっと崩れ落ちた。開かれた重厚な皮表紙で綴じられた本の中身を垣間見て、吉野は眉間に皺を寄せる。
「アレンのコレクションだよ」
フレデリックが、淋しげな笑みを口に載せて言った。
「マーシュコート伯の若い頃からヘンリー卿まで、ソールスベリー家の記事になったものならなんでもスクラップしてあるんだ。インターネットの記事まで印刷して貼りつけているらしい」
吉野は急いでそのスクラップブックを閉じ、元の場所に戻す。
「あんなお兄さんがいたら、辛いだろうね――。きみは? きみはどうなの? 偉大な兄に、押しつぶされそうになったりはしないの?」
「偉大? 飛鳥が?」
何故そんな言葉が出てくるのか全く理解できず、吉野は訝しげに問い直した。
「ヘンリー卿がエリオット校を捨ててまで欲しがった優秀な人材で、その上、彼のただ一人の親友と言わしめた人物じゃないか、きみのお兄さんは――」
冗談を言っているとは思えないフレデリックの真面目な表情に、吉野は笑いだすこともできずに、ただ頬を引き攣らせていた。
『吉野、ちょうど良かった。こっちからかけようと思ってたんだ。イースター休暇は、スイスの研究所に行くことになりそうなんだよ。佐藤さんが、日本から来てくれるんだ。お前はどうする? 一緒に来る? もし、友達と過ごしたいんだったら、それでもかまわないし――』
「そうだな、考えておく。いつまでに返事したらいい?」
電話した目的には触れず、他愛のない話でお茶を濁して、吉野は通話を終わらせた。
妹だからって、どうだっていうんだ?
だいたい、飛鳥にも、誰にも紹介しないというのも変な話だった。こうして言われてみれば、アーネストは知っていた節がある。けれど、直接の知り合い、という訳でもなさそうだった。ヘンリーの公にできない身内の噂話を、自分が真っ先に喋ろうとした事実が、吉野は急に恥ずかしくなったのだ。
ただ、もしも、この話が本当なのだとしたら――。
飛鳥やアーネストから聞いた、ヘンリーのシューニヤに対する扱いと、アレンに対する態度のあまりの温度差に、吉野は無性に腹が立っていた。同じ弟妹ではないのか、と。
「あ、ヨシノ戻っていたんだ?」
勢いよくドアを開けて入ってきたクリスが、楽しそうな声で呼びかける。スマートフォンを握りしめたまま、じっと難しい顔をしていた吉野は、はっと振り返った。
「ああ、おかえり、クリス」
「アレンの部屋でお茶にするんだけれど、ヨシノも行く?」
「俺はいいよ」
「行こうよ。『プレタマンジェ』のサンドイッチがあるよ。ヨシノの分も買ってあるんだ。どうせまだ夕飯食べてないんでしょ? これから作っていたら遅くなってしまうよ」
吉野は自分の手首に視線を落とすと、ちっと舌打ちする。
「時計を忘れてきた。今、何時?」
「もう七時過ぎているよ」
小さくため息をついて、行く、と仕方がなさそうに応えた。
自室で同室者のフレデリックと共にお茶の準備をしていたアレンは、予定外の吉野の姿に一瞬固まり、次に大慌てでぎくしゃくと動き、それでもはにかんだように笑って、「ようこそ」と淹れたての湯気の立ち昇るティーカップを差し出した。
四人分とは思えない量のサンドイッチが、瞬く間に減っていく。そのほとんどが、吉野の胃に入っていた。
「助かった。今日は特別、腹が減っていたんだ」
最後のひとつになったスモークサーモンのバゲットサンドを頬張りながら、吉野は無邪気に笑っている。
「相変わらず、見事な食べっぷりだね」
さらりとした黒髪を掻き上げながら、フレデリックは上品に微笑んだ。
「泳いできたの?」
それには答えずに、吉野は、ティーカップの紅茶をごくごくと飲み干した。
「あ、おかわりを――。お湯を沸かしてきます」
アレンは、バタバタとティーポットを抱えて給湯室へ走る。その後をクリスが、手伝うよ、と追いかけた。アレンはお茶を淹れるのが上手くないのだ。それ以前に、彼はお茶を淹れたことがないのだろう。お茶に煩い吉野が何も言わずに一気に煽っていたのは、飲めたものではないからだ、ということを、クリス一人が理解していた。
一人で喋っていたクリスがいなくなった途端に、部屋は急に静まり返っていた。
「なぁ、フレッド、池で泳いでたのさぁ、チャールズにバレちゃったよ」
沈黙を破った吉野の唐突なボヤキに、フレデリックは笑いを堪えるように口を押さえ、身を捩って肩を震わせた。
「笑うなよ。困っているんだ。どんどん俺の息の抜ける場所がなくなっていっているんだぞ――」
「やっぱり、GPSを付けられているんじゃないの?」
「そうなのかなぁ……。ヘンリーの――、アーネストに教えて貰った隠れ家的に使える場所はもう安全じゃないし、どこかこう、気楽に昼寝できるような場所、ないかな? お前の兄貴もここの卒業生だろ? 何か聞いていないか?」
吉野はうんざりしたように深いため息をついている。
フレデリックはもう隠そうともせずクスクスと笑いながら、腰かけているベッドで、両手を頭の後ろに回して伸びをし、揶揄うような視線を吉野に向けた。
「あるよ。厩舎だね、きみの希望に沿えそうなのは」
「いいんだけれどさ。遠いんだよ」
吉野は残念そうに唇を尖らせる。
「兄さんは自転車を使っていたよ。だからさ――、」フレデリックは吉野のいるアレンの机の傍らに立ち、手帳を取り出すと、さらさらと地図を描き始めた。
「ここ、この辺の倉庫に隠しておくんだ。あるいは、街の駐輪場を借りるかだね」
「へぇ、この学校でそんなことしてたのか! お前の兄貴、面白いな――。会ってみたいよ」
「残念だな、きみとなら兄も気が合っただろうに。でももう、この世にはいないんだ」
フレデリックは笑んだまま、静かな口調で吉野を見つめ返した。
「ごめん」
吉野は椅子を引き、立ち上がる。途端に、何かを踏みつけて体勢を崩した。ぶつかった拍子に机の脇に置いてあったチェストの上の本が、ドサドサっと崩れ落ちた。開かれた重厚な皮表紙で綴じられた本の中身を垣間見て、吉野は眉間に皺を寄せる。
「アレンのコレクションだよ」
フレデリックが、淋しげな笑みを口に載せて言った。
「マーシュコート伯の若い頃からヘンリー卿まで、ソールスベリー家の記事になったものならなんでもスクラップしてあるんだ。インターネットの記事まで印刷して貼りつけているらしい」
吉野は急いでそのスクラップブックを閉じ、元の場所に戻す。
「あんなお兄さんがいたら、辛いだろうね――。きみは? きみはどうなの? 偉大な兄に、押しつぶされそうになったりはしないの?」
「偉大? 飛鳥が?」
何故そんな言葉が出てくるのか全く理解できず、吉野は訝しげに問い直した。
「ヘンリー卿がエリオット校を捨ててまで欲しがった優秀な人材で、その上、彼のただ一人の親友と言わしめた人物じゃないか、きみのお兄さんは――」
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