胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
149 / 758
三章

10

しおりを挟む
 その日、礼拝堂と学舎で囲む石畳の校庭を見下ろす窓という窓に、生徒たちは鈴なりになって、好奇心と憧憬の眼差しで貼りついていた。

「出てきた!」
 校長室に続く渡り廊下のアーチの陰から、ヘンリー・ソールスベリーがアレン・フェイラーを伴って現れた。

 一斉に窓が開かれ、歓声が沸き起こった。
 怪訝そうに見上げ、困惑して首を傾げているヘンリーの肩に、校長の大きな手がポンと置かれる。

「きみがここの言葉アクセントを忘れずにいてくれて嬉しいよ。きみは、今でもエリオット校生エリオティアンなのだな」

 ヘンリーは少し照れくさそうに笑い、校長と固く握手して幾つか言葉を交わした後、アレンを伴って歩き出す。



「フェローガーデンにはもう行った?」

 ゆっくりと進みながら、正面を向いたままでかけられた言葉は、傍には自分しかいないにもかかわらず、アレンには、自分に向けられたものだと判らなかった。もう一度同じ言葉が繰り返されて、やっと慌てて、大きく首を横に振る。

「桜が見ごろだよ。このガーデンは音楽棟に行く近道なんだ」

 アレンは英国に来てから初めて言葉をかけてくれた兄を、不思議そうに見上げ、遅れないようにと速度を上げる。

 ウイスタンにストラディバリウスを届けに伺った時も、こんなふうには話しかけては下さらなかったのに――。

 こうして傍を歩いていても、どこかふわふわと現実感がない。緊張で脚がからまり、転んでしまいそうだった。



 フェローガーデンに抜ける芝生に沿った遊歩道の脇に、真っ白な花を枝一杯に咲かせた桜の木が一本植えられている。ヘンリーは、その下に置かれた、雨ざらしにされ古ぼけて塗料の剥げ落ちたベンチに腰を下ろした。

「お前のことを教えて。僕はお前のこと、あまり知らないから」
 少し離れて俯いたまま立ち尽くすアレンに声をかける。アレンは、目を伏せたまま、絞るように声を発した。

「ごめんなさい。ご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」

 ヘンリーは立ち上がり、すっとアレンに向かって手を伸ばした。彼の弟はびくりと身を震わせて、ぎゅっと目を瞑って歯を食い縛った。

 そのまま、ふわりとその頭を撫でてやる。
 訝し気に眉を寄せ、アレンは怖々とヘンリーを見上げた。兄は、寂し気に微笑んでいた。


「やっと、アスカの言っていた意味が解った。僕はお前に、自分自身を重ねていたんだね。お前は僕じゃないのに――。お前は何が好き? 僕は、お前がパガニーニが好きじゃない、ってことしか知らない」

 ヘンリーはアレンの腕を取ってベンチに腰かけさせ、自分もその横に座って足を組み、彼に優しい笑みを向けた。

「僕は、ショパンが好き、です」
「そう。それなら、自分の好きなものを、好きなように弾くといい。その方が楽しいよ。周りに何て言われようと、僕になろうとする必要はないんだ。お前は、お前なんだから」
「あ――」

 アレンは、一瞬、泣きそうな顔をして笑い、大きな絆創膏の貼られた頬に、その細い指先で触れた。

「同じ言葉をくれた人がいます」
「友達?」
 アレンはぶんぶんと首を振る。
「僕はすごく愚かだから、そんな過ぎた事は望めません」
「もったいない。愚かな真似をしてしまったのなら、謝ればいいんだ。許して貰えるまで諦めずに。いい友人は一生の宝だよ。自分以上に自分を解ってくれ、その身が傍にない時でさえ、魂により添ってくれる。そんなふうに信じられる相手が一人いれば、こんな世界でも生きていける」
「僕には――」
 アレンは言葉を途切らせ、顔を伏せた。

「僕は――」
 ぐっ、と自分の顔全体を、アレンはしなやかな掌で覆い隠す。

「僕は、自分の立場を、わきまえているつもりです。ただ、あなたを兄と思うことを、許して下さい。決して、あなたの邪魔はしませんから」

「僕に依存するな」
 ヘンリーは顔を覆うその手を引き剥がし、強引に顎を掴んで、その顔を自分の方へ向かせる。

「ヘンリー・ソールスベリーの弟ではなく、自分自身になれ。そうしないと誰もお前を見てはくれないよ。僕に認めて欲しいのなら、他の誰でもない、アレン・フェイラーという人間を僕に見せろ」

 きつい口調でいい放つと、微かな苛立ちをみせ立ち上がった。

「お前は愚かだから、僕の言う意味が判らないんだろうね……。僕の弟という理由ではなく、お前自身を認めて愛してくれる友人が出来たなら、お前を弟として認めてやる」

 アレンはその大きな目を見開いて、声を掠らせ囁くように訊ねた。

「僕が、父の子どもでなくても?」
「だから、お前は愚かだと言っているんだ。そんな事はどうでもいい。僕は、僕のコピーを愛することはできないし、僕の言いなりになる奴隷が欲しいわけでもない。まして、僕の身内であることを利用しようとする輩は願い下げなだけだ」

 くるりと背を向け、ヘンリーは元来た道を引き返す。アレンは力なく立ち上がり、とぼとぼと遅れてその後を追った。



 遊歩道の終わり、校庭へ続く黒く塗装されたロートアイアンのゲートに、所在なさげにそわそわと佇んでいる影が見え隠れしている。セドリック・ブラッドリーだ。
 遠目にその姿に気づいたアレンは、全身を強張らせてローブのポケットにある帽子を握りしめる。

 ヘンリーはそのまま真っ直ぐに進んでゲートをくぐり抜けると、「やぁ、セディ、僕の愚弟をよろしく頼むよ。まだ何も判らない子どもなんだ」と声をかけ、その肩をポンと叩いた。

 セドリックは顔を伏せ、口をへの字に曲げて歯を食い縛っていた。後悔と、焦燥、そして何よりも恥ずかしさで、自分のものではないかのように身体がブルブルと震えていた。

「す、みませんでし……」
 声を振り絞って小さく呟く。
「選抜大会、きみの活躍を楽しみにしているよ」

 ヘンリーは、もう一度セドリックの肩を叩くと、すいっとその場から立ち去った。

 アレンは逃げるように小走りに寮の方向に行きかけ、急に立ち止まると、駆け出してヘンリーを追った。



「すみません!」
 振り返るヘンリーに、アレンは息を弾ませ、まっすぐにその瞳を見つめて言った。
「来て下さって、ありがとうございました」

 ヘンリーは柔らかく笑みを浮かべ、「その言葉が言えるなら、すぐに友人もできる」とだけ告げ、踵を返してエリオット校の正面ゲートをくぐり、外の世界へと戻って行った。



 その日の内に、吉野にかけられていた嫌疑は解かれ、元の部屋に戻された。

 そして翌日、生徒会メンバーの幾人かが辞任し、新たな役員の選出に、学校はまたもざわざわと動き出したのだった。




しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

伊藤とサトウ

海野 次朗
歴史・時代
 幕末に来日したイギリス人外交官アーネスト・サトウと、後に初代総理大臣となる伊藤博文こと伊藤俊輔の活動を描いた物語です。終盤には坂本龍馬も登場します。概ね史実をもとに描いておりますが、小説ですからもちろんフィクションも含まれます。モットーは「目指せ、司馬遼太郎」です(笑)。   基本参考文献は萩原延壽先生の『遠い崖』(朝日新聞社)です。  もちろんサトウが書いた『A Diplomat in Japan』を坂田精一氏が日本語訳した『一外交官の見た明治維新』(岩波書店)も参考にしてますが、こちらは戦前に翻訳された『維新日本外交秘録』も同時に参考にしてます。さらに『図説アーネスト・サトウ』(有隣堂、横浜開港資料館編)も参考にしています。  他にもいくつかの史料をもとにしておりますが、明記するのは難しいので必要に応じて明記するようにします。そのまま引用する場合はもちろん本文の中に出典を書いておきます。最終回の巻末にまとめて百冊ほど参考資料を載せておきました。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

処理中です...