胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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「ヨシノ、見ているだけなのに面白いのか?」
 ゲームを終えたばかりのベンジャミン・ハロルドが、小脇にキューを抱えたままスヌーカーテーブルに片手をつくと、明るい空色の瞳で誇らしげに吉野を振り返った。

「面白いですよ。先輩、本当に上手いですね。キューが握れるようになったら俺にも教えて下さい。先輩に教わったら寮長相手でもいい線いけるかもしれない」
 窓際の古ぼけたむき出しのテーブルに腰かけていた吉野は、窓枠に背をもたせかけた力の抜けた姿勢のまま、お愛想程度の拍手をする。一学年生の先輩に対する態度ではないが、ここにいる面々はそんな彼に甘いのか、特にたしなめる者もいない。


「おいおい、その窓、大丈夫なのか? 今にも外れそうじゃないか」
 ベンジャミンは、秀でた額にかかる金色の前髪をかき上げながら、揶揄うように笑って顎をしゃくり、吉野の背後の深緑の窓枠を指し示す。スヌーカーテーブルを囲む、派手なウエストコートを着た他の連中までがつられたように笑い出す。

「ご心配なく。直したばかりですよ」
 吉野は、にこやかに微笑んで答えている。

「僕たちのおかげで儲かっているんだろう! どうせなら、もっと派手に改装しろよ!」
 ベンジャミンは薄汚れて黒ずんだ深紅の壁紙や、歪んで今にも落ちてきそうな数々の色褪せた写真のフレームを、顔をしかめて眺め回しながら言い放つ。吉野は「ははっ、学生相手じゃ酒はだせないのに、儲かりゃしませんよ!」と肩をすくめてみせる。
「日本食まで売っているのに?」
「そんなもの微々たるものですよ」と、すかした顔で笑って流す。

「なら、酒をだせよ。もっと稼がせてやる!」
 スヌーカーテーブルから、揶揄うような大声が飛んだ。
「せめて制服で言うのはやめて下さいよ。営業停止をくらっちまう。そんなことになったら俺まで出入り禁止だ。俺はここの二階を借りているだけなんですからね」
「なんだ、意外にびびりなんだな」

 どっと起こった哄笑に、吉野は乾いた笑いで応えるだけだ。

 学校の代表が、こんな馬鹿の集まりでいいのかよ――、と内心では呆れ返りながら、笑みを形作ったまま顔を伏せているのだ。まるで言い負かされて困っているかのようにつくろって。


「なぁ、ヨシノ、ハーフタームはお兄さんのところへ行くんだろ?」
 だがベンジャミンは、そんな吉野の反応など、どうでもいいように、彼の頭をぐいと掴んで自分の方に上向かせた。
「手に入りそうかい?」
 そのまま吉野の肩を組み、顔を寄せて囁いている。
「無理ですよ。試作品だけでまだ三台しか生産されていないのに」
「でも、お前の兄さんは持っているんだろ? 借りてこいよ、実物が見たい、とでも言ってさ」
「まぁ、訊くだけは訊いてみますけれどね……。あまり期待しないで待っていてください」

 くさっ――。なんだこいつら、ここに来る前にもう飲んできているのか――。

 ツーンと鼻につくピート香に、吉野は傍からは判らない程度に眉を寄せた。その顔に笑みを貼りつかせたまま、ベンジャミンから視線を逸らしてさりげなく窓外を見やる。


「おい、スカラーの番犬様がお出迎えだぞ」
 ほどなくして同じく退屈そうに通りを見ていた一人が大きく窓を開き、身を乗りだした。

「チャールズ! じきに消灯時間だっていうのにご苦労さん!」
「きみ達の時計が壊れているのかと心配になってね。一学年生を、こんな時間まで引き留めているなんてね!」

 窓の外からよく通る声が響いてくる。


 吉野は大きくため息をついてテーブルから下りると、「じゃ、お先に失礼します」と軽く頭を下げ、二階の部屋を後にした。






「来るの、遅いよ」
 表に出るなり、吉野はぼそっと呟いた。窓からの灯りが届かない暗がりの中で待っていたチャールズは、「申し訳ない」と吉野の肩をぽんと叩き、そのまま二人は足早に歩きだす。

「有意義な話はできたかい?」
「全然」

 吉野は片耳にイヤホンを差し込みながら面倒くさそうに呟くと、下を向いて押し黙った。話す意志はない意志表示だと受け取ったチャールズも、それ以上声はかけなかった。

 しんと吸い込まれそうな静寂に沈む街並みの、外灯に照らされた狭い路地裏の石畳に、高く、靴音だけが響き渡っている。



「ヨシノ、口を開けて」
 振り向いた吉野の口に、チャールズがいきなり小さな塊を押し込んだ。草を食んでいるような生臭い味に、吉野は思わず顔をしかめる。

「何、これ?」
「米国で大ヒットしているガムだよ。アルバートの米国土産で貰ったんだ。目が覚めるだろ。爪の替わりにこれを噛むといい」
 吉野の手の中に小さな箱が押しつけられる。
「ハーブ味?」
「生姜味に、シナモン味もある」
「面白い食感だな」
「気に入った? きみは口に入れるものに、すごくこだわりがあるものね。きっと気に入ると思ったんだ」
 楽しそうに笑って、その上品な手が、今度は吉野の頭をくしゃっと撫でる。


「なんで、ここの奴らって、どいつもこいつもそんな風にベタベタ触るんだ?」
 吉野は不機嫌な顔で、払いのけるように首を傾げた。
「変かな?」

 チャールズは、もう慣れたよ、とでも言うように微笑んでいる。以前のような反射的な拒絶ではない。まだ慣れないだけ――。そこにいくばくかの照れを感じていたのだ。

 吉野はそれには答えずに、とうとつに、「アル、こっちに帰ってたんだ?」と、逆に訊ね返した。
「ああ、クリスマスも新年も返上だったからね。遅い休暇を貰ったんだ。先週までいたよ」
「会いたかったな」
「彼もきみのこと、気にしていたよ」



 学舎の門をくぐり抜け、月明りに照らされた芝生を横切りながら、チャールズは中庭の四方を取り囲んでいる煉瓦造りの学舎と、カレッジ寮の壁を見上げていた。消灯前の各部屋の窓には、いくつもの灯りが連なっていた。

「さっきの質問だけれどね……。ここの連中は、たぶん、みんな寂しいんだよ。家族みたいに触れあえる相手が欲しいんだ。寝食を共にし、同じ目標を持ち、同じ規律に従って生活する。おはようで始まって、おやすみで一日を締めくくる。こんな日常を送っている僕たちは、家族みたいなものだろ? だから辛そうな子がいたら慰めたくなる、それは人として自然で、当然の想いじゃないのかい?」

 チャールズは、また吉野の頭をくしゃっと撫でてその肩をぽんぽんと叩くと、そのまま腕を滑らせて肩を抱いた。


「勘弁してくれよ、家族ごっこなんか――」

 片耳に嵌めたイヤホンに意識を集中させたまま、吉野はぼそりと呟いた。



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