胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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 白く曇った窓ガラスを掌で擦り、外を眺めた。カレッジ内に居住する教授の部屋から見下ろした広々とした中庭には、薄っすらと雪が積もっていた。時計の針はもうすでに十時を廻っているのに、空は重い灰色で覆われ戸外は未だ薄暗い。

 昨夜は結局、誘われるままにハワード教授の部屋に押しかけ、明け方近くまで語り明かした。と言っても喋っていたのは、飛鳥と教授だけで、吉野とデヴィッドは、ずっとスマートフォンをいじくりながらゲームに興じていたのだが。
 ソファーに腰かけたままの姿勢で眠り込んでいる二人を起こさないように、飛鳥はそっと壁際に移動し、そこに飾られている記念写真を一枚一枚眺めていた。そしてその中の、見覚えのある色あせた古い写真の前で立ち止まった。重厚な金属のフレームの中には、若かりし頃の祖父と教授が気取ったポーズで立っていた。

 ひと夏だけの親友。けれど、生涯忘れられない友だった――。

 祖父の話してくれた、ヨーロッパ旅行中に出会ったという、“金髪ゴールデンテディ”というあだ名と、古ぼけた一枚の写真しか手がかりのない誰か。何十年も昔のケンブリッジ大学生をなんとしても探し出して、祖父の残した願いを叶えたかった。



「祖父のあなたへ宛てた手紙を取りに行ってきます」
 朝食を運んできたハワード教授に、飛鳥は振り返って告げた。
「俺が行く」
 吉野が目を開けて、大きく伸びをしながら立ち上がる。
「おはよう、先に食べてからにしなさい」

 教授の言葉に頷いて、薄切りトーストの上にベーコンエッグの載った、教授にしては、いつもよりも少しだけ手の込んだ新年の朝食を頬張り、淹れたての熱い紅茶を流しこんだ。皆、寝不足のぼんやりとした顔のまま、言葉少なで、機械的に食事を済ませた。吉野は食べ終わるとすぐに立ち上がった。飛鳥が手紙を置いてある場所を説明しながら、官舎の玄関先まで見送りに出た。

 英国に来て初めての雪景色と肌に突き刺さるような冷気に、吉野はぶるっと身を震わせて、「飛鳥、薄着でフラフラ出かけたりするなよ」と、きつい視線で釘を刺す。
「今から出かけるのはお前の方だろ? 寄り道せずに、すぐに戻っておいでよ」


「納得されましたか? 教授」
 デヴィッドが目を覚ましたのか、教授と話している声が聞こえる。飛鳥はドアの前で立ち止まり、なぜか緊張して身を強張らせた。

「学生のことは、学生たちに任せておけばいいんですよ。確率計算して勝とうとか、いかさまで怒らせてゲームに引きずり込むとか、数学科の連中は子ども相手に目くじら立て過ぎなんですよねぇ。兄も、呆れていましたよ」
「それはそうだろう。ポーカーは、確率と期待値の評価で左右される、実に数学的なゲームだからね。ヨシノは、アスカが酒を勧められる平均値を、一日五杯として、この一年の大学の授業日数分、きっちりと、うちの学生たちから勝をもぎ取っていったんだ。してやられた彼らの気持ちだって判らんでもないだろう?」


「すみません、教授。ここでは、もう、吉野にはポーカーはやらせません」
 いたたまれない思いでそっとドアを開け部屋に入ると、飛鳥は深く頭を下げる。

「いや、きみを責めている訳ではないんだよ」
 ハワード教授は優し気に笑い、「ただ、数学科の連中がそこまでいう彼の才能の片鱗を、わたしも見てみたかっただけなんだよ」と悪戯っ子のような瞳をして付け加えた。

「倖造のあの才能も、きみ達ふたりに引き継がれているのかと、つい、期待してしまってね……」
 教授は逆に申し訳なさそうに呟くと、飛鳥のティーカップにお茶を継ぎ足し、ソファーに座るようにと促した。

「こんなにも長く生きてきたのに、倖造と、もう一人、ソールスベリーだけだったよ。想像を遥かに超えた新しい世界をわたしに見せてくれたのは――」
 少し淋し気に表情を曇らせる教授に、「マスマティカル・サイエンス……」と飛鳥はハッとして思い出し、呟いていた。

「ああ、きみも読んでくれていたのかね」
 教授は嬉しそうに目を細めている。

 ヘンリーじゃない。あの論文を書いたのは――。

 飛鳥は咽喉元まで出掛かった言葉を紅茶で流し込み、慌てて呑み込む。



「そういえば、ヘンリーはもう米国だって?」
 デヴィッドが話題を変えてくれたことにホッとしながら、飛鳥は頷くと、「教授、純粋数学の世界ではないですが、祖父の思いは『杜月』と僕たちが、確かに受け継いでいます。五日の米国家電テクノロジー国際見本市の中継を、教授もぜひご覧になって下さい。祖父と僕の夢の、集大成なんです」誇らしげに前髪を掻き上げ、少し照れたように微笑んだ。

「それは、楽しみだね」
 ハワード教授が嬉しそうに何度も頷いてくれたので、飛鳥も感慨深い思いで満たされていた。

 それにしても、お祖父ちゃんと教授の約束って、なんだったんだろう――。

 胸にくすぶっていた疑問を、訊いていいものかと躊躇して、そっと、眼鏡の奥の教授の深く青い海のような瞳を、見つめていた。






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