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三章
始動1
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「目が覚めた?」
飛鳥の声に目を開けると、吉野は眩しそうに目を細めた。身体を起こすと、頭がふらつく。
「まだ無理しないの。かなり高熱が出てたんだよ」
「なんで? 怪我のせい?」
吉野はおぼろげに記憶を探りながら訊ねる。
「風邪だよ。自覚なかったんだ?」
「風邪? 俺でも風邪ひくんだな」
吉野は、膝を立て、気怠げに頭をもたせかける。
「あー、でも、言われてみれば、けっこう、きつかったかな……」
「また悪さしていたんだろ?」
飛鳥は、ペットボトルの水を渡しながら、揶揄うように言う。
「練習時間がぜんぜん取れなくてさ、寮の自習用防音室の合鍵を作って忍び込んでさ、夜中に吹いてたんだよ。だからずっと寝不足で……。短期ならともかく、俺、ヘンリーみたいに毎日一晩中練習なんて、絶対に無理だわ。あいつ、よっぽどヴァイオリンが好きなんだな」
「そう? 吉野も、龍笛を吹いている時は時間を忘れているよ」
「ああ、それは別物だよ。息をしているのと同じだもの」と、吉野は思い出したように唇をきっと引き結び、自分の今は動かせない右手に視線を落とす。
「あいつ、来てたの?」
「うん。米国に発つ前にね。お前に謝ってたよ」
落書きだらけのギプスの僅かに残っていた余白に、見覚えのある特徴的な筆跡で書かれたメッセージがあったのだ。
――すまなかった。早く良くなって、また、きみの笛を聴かせてほしい
「謝るんなら、アレンに謝れよ」
吉野は皮肉に笑って、ごろりと横になる。
「でも、あいつ、ちゃんと聴いてくれてたんだ。なにか言ってた、感想は?」
どこか嬉しそうな吉野の様子に、「お前でも、評価を気にするんだ?」と飛鳥もにこにこしながら、だが少し意外そうな顔をする。
「ほかはどうでもいいけど、ヘンリーのは、知りたい」
吉野は片肘をついて身体を起こすと、ふふ、と笑ってばかりでなかなか教えてくれない飛鳥の膝を、ポンポンと催促するように叩く。
「僕のパガニーニは悪魔の旋律だとしか言われることはなかったのに、吉野のそれは、天上の調べだ、って」
「大袈裟だな、ほめ過ぎだよ」
照れたように否定しながらも、吉野は頬をにやつかせている。
「嬉しいんだ?」
「そりゃあね。賛否両論でさ、あんなのパガニーニじゃないって、散々言われた。でも、あいつがいい、って言ってくれたんなら、頑張った甲斐 があったよ」
またドサリ、と枕に頭を埋め、目を瞑る。身体を起こしていられないほど辛いのか、と飛鳥は微かに眉根を寄せ、さり気なく弟の額にかかる髪の毛をかき上げた。
「――頑張ったんだね?」
額がまだ熱い……。もうあまり喋らない方がいいのか、と迷いながら、呟いていた。
「当たり前だろ? あいつに教わった通りに演奏していたら、間違いなく馬鹿にされるもの」
怪訝そうな顔をする飛鳥に、吉野は、「あいつは、他人のコピーで満足しているような奴は、嫌うだろ?」と自嘲的な笑みを向ける。
熱そうにパジャマの胸元のボタンを外し、掌で汗を拭う吉野にタオルを渡した。「もう少し、休む?」と飛鳥は、心配そうに訊ねる。
「腹減った」
だが、思い出したように真顔で言う吉野の口調に、思わず吹き出した。
「相変わらずだなぁ! アーニーも、もう実家に戻ったし、大した物が無いんだ。レトルトのお粥でもいい?」
「レトルトかぁ……。日本製?」
「日本からアルが送ってくれた非常食だよ」
「へぇ、あいつ、やっぱりできる奴だな!」
温めるだけのお粥を器に盛ってトレーにのせ、ベッドヘッドにもたれかかって半身を起こした吉野に渡す。
まだ微熱が残っているとはいえ、昨夜よりもずっと楽そうに食事を取る吉野を、飛鳥はほっとしたように眺めている。
「吉野が眠っている間に、ヘンリーと話したんだけれどね、」
ちょっと恥ずかしそうに笑い、飛鳥は肩をすくめていた。
「ヘンリーが虐待されていた、って思ったのは誤解だったみたいだ。僕の早とちりだったよ。米国じゃ、ヘンリーも、ネグレクトに近い扱いはあったらしいけれどね、年に一度、クリスマス休暇の間のことだけだったし、虐待を意識したことはなかった、って」
吉野は食べかけていた手を止める。
「アレンも?」
「アレンのことは判らないって。本当に最近まで、ほとんど会ったことがなかったんだって」
「それなのに、あんな真似をするっていうのも、信じられない話だな。いつものあいつからは、想像できない」
吉野は首を捻りながら呟いた。
「どうしてあんなに、アレンや、米国の親族のことを嫌っているのかは、教えてもらえなかったよ。――もう、一年以上一緒にいるのに、判らないことだらけだ」
「まだ一年だよ」
吉野は再び、目線を手許に戻しもどかしそうに左手を動かして、スプーンを口に運ぶ。
「飛鳥は、あいつと一緒に米国に行かなくて良かったの?」
「父さんが行くんだよ」
「じゃ、いよいよなんだな」
飛鳥は頷くと、「楽しみで待ちきれないよ」と、誇らしげに瞳を輝かせた。
「そういや、クリスマスに試作品見せてくれるって……」
「やっぱり駄目。もったいない。発表まで待ちなよ。今見たんじゃ、ネタバレみたいで面白くないもの」
「自信あるんだ?」
「すごいよ、コズモスは」
「うん」
吉野は素直に頷いた。
「あいつが凄いのは、よく解った」
「ヴァイオリンで?」
自信家で負けん気の強い吉野が、こんなふうに他人を褒めるなんて――。
飛鳥はにこにこと顔をほころばせながら、訊ね返した。吉野は視線は食事に据えたまま、淡々と話し続けた。
「普通、自分の実力はこのくらい、って、誰だって決めてかかって、そういう自分に見合った努力をするだろ? でもあいつは、そこからもう一歩上に引き上げてくれるんだよ。まだいける、って教えてくれるんだ。ここはまだ、お前の限界じゃない、って言われている気分にしてくれるんだ」
「きっと、本当にそう言っていたんだよ。彼のヴァイオリンは彼の言葉だから――」
飛鳥は嬉しそう笑って手を伸ばし、吉野の頭をくしゃっと撫でた。
「ヘンリーも、吉野のこと凄いって言っていたよ。あんな凄い馬鹿は見たことがないって」
飛鳥の声に目を開けると、吉野は眩しそうに目を細めた。身体を起こすと、頭がふらつく。
「まだ無理しないの。かなり高熱が出てたんだよ」
「なんで? 怪我のせい?」
吉野はおぼろげに記憶を探りながら訊ねる。
「風邪だよ。自覚なかったんだ?」
「風邪? 俺でも風邪ひくんだな」
吉野は、膝を立て、気怠げに頭をもたせかける。
「あー、でも、言われてみれば、けっこう、きつかったかな……」
「また悪さしていたんだろ?」
飛鳥は、ペットボトルの水を渡しながら、揶揄うように言う。
「練習時間がぜんぜん取れなくてさ、寮の自習用防音室の合鍵を作って忍び込んでさ、夜中に吹いてたんだよ。だからずっと寝不足で……。短期ならともかく、俺、ヘンリーみたいに毎日一晩中練習なんて、絶対に無理だわ。あいつ、よっぽどヴァイオリンが好きなんだな」
「そう? 吉野も、龍笛を吹いている時は時間を忘れているよ」
「ああ、それは別物だよ。息をしているのと同じだもの」と、吉野は思い出したように唇をきっと引き結び、自分の今は動かせない右手に視線を落とす。
「あいつ、来てたの?」
「うん。米国に発つ前にね。お前に謝ってたよ」
落書きだらけのギプスの僅かに残っていた余白に、見覚えのある特徴的な筆跡で書かれたメッセージがあったのだ。
――すまなかった。早く良くなって、また、きみの笛を聴かせてほしい
「謝るんなら、アレンに謝れよ」
吉野は皮肉に笑って、ごろりと横になる。
「でも、あいつ、ちゃんと聴いてくれてたんだ。なにか言ってた、感想は?」
どこか嬉しそうな吉野の様子に、「お前でも、評価を気にするんだ?」と飛鳥もにこにこしながら、だが少し意外そうな顔をする。
「ほかはどうでもいいけど、ヘンリーのは、知りたい」
吉野は片肘をついて身体を起こすと、ふふ、と笑ってばかりでなかなか教えてくれない飛鳥の膝を、ポンポンと催促するように叩く。
「僕のパガニーニは悪魔の旋律だとしか言われることはなかったのに、吉野のそれは、天上の調べだ、って」
「大袈裟だな、ほめ過ぎだよ」
照れたように否定しながらも、吉野は頬をにやつかせている。
「嬉しいんだ?」
「そりゃあね。賛否両論でさ、あんなのパガニーニじゃないって、散々言われた。でも、あいつがいい、って言ってくれたんなら、頑張った甲斐 があったよ」
またドサリ、と枕に頭を埋め、目を瞑る。身体を起こしていられないほど辛いのか、と飛鳥は微かに眉根を寄せ、さり気なく弟の額にかかる髪の毛をかき上げた。
「――頑張ったんだね?」
額がまだ熱い……。もうあまり喋らない方がいいのか、と迷いながら、呟いていた。
「当たり前だろ? あいつに教わった通りに演奏していたら、間違いなく馬鹿にされるもの」
怪訝そうな顔をする飛鳥に、吉野は、「あいつは、他人のコピーで満足しているような奴は、嫌うだろ?」と自嘲的な笑みを向ける。
熱そうにパジャマの胸元のボタンを外し、掌で汗を拭う吉野にタオルを渡した。「もう少し、休む?」と飛鳥は、心配そうに訊ねる。
「腹減った」
だが、思い出したように真顔で言う吉野の口調に、思わず吹き出した。
「相変わらずだなぁ! アーニーも、もう実家に戻ったし、大した物が無いんだ。レトルトのお粥でもいい?」
「レトルトかぁ……。日本製?」
「日本からアルが送ってくれた非常食だよ」
「へぇ、あいつ、やっぱりできる奴だな!」
温めるだけのお粥を器に盛ってトレーにのせ、ベッドヘッドにもたれかかって半身を起こした吉野に渡す。
まだ微熱が残っているとはいえ、昨夜よりもずっと楽そうに食事を取る吉野を、飛鳥はほっとしたように眺めている。
「吉野が眠っている間に、ヘンリーと話したんだけれどね、」
ちょっと恥ずかしそうに笑い、飛鳥は肩をすくめていた。
「ヘンリーが虐待されていた、って思ったのは誤解だったみたいだ。僕の早とちりだったよ。米国じゃ、ヘンリーも、ネグレクトに近い扱いはあったらしいけれどね、年に一度、クリスマス休暇の間のことだけだったし、虐待を意識したことはなかった、って」
吉野は食べかけていた手を止める。
「アレンも?」
「アレンのことは判らないって。本当に最近まで、ほとんど会ったことがなかったんだって」
「それなのに、あんな真似をするっていうのも、信じられない話だな。いつものあいつからは、想像できない」
吉野は首を捻りながら呟いた。
「どうしてあんなに、アレンや、米国の親族のことを嫌っているのかは、教えてもらえなかったよ。――もう、一年以上一緒にいるのに、判らないことだらけだ」
「まだ一年だよ」
吉野は再び、目線を手許に戻しもどかしそうに左手を動かして、スプーンを口に運ぶ。
「飛鳥は、あいつと一緒に米国に行かなくて良かったの?」
「父さんが行くんだよ」
「じゃ、いよいよなんだな」
飛鳥は頷くと、「楽しみで待ちきれないよ」と、誇らしげに瞳を輝かせた。
「そういや、クリスマスに試作品見せてくれるって……」
「やっぱり駄目。もったいない。発表まで待ちなよ。今見たんじゃ、ネタバレみたいで面白くないもの」
「自信あるんだ?」
「すごいよ、コズモスは」
「うん」
吉野は素直に頷いた。
「あいつが凄いのは、よく解った」
「ヴァイオリンで?」
自信家で負けん気の強い吉野が、こんなふうに他人を褒めるなんて――。
飛鳥はにこにこと顔をほころばせながら、訊ね返した。吉野は視線は食事に据えたまま、淡々と話し続けた。
「普通、自分の実力はこのくらい、って、誰だって決めてかかって、そういう自分に見合った努力をするだろ? でもあいつは、そこからもう一歩上に引き上げてくれるんだよ。まだいける、って教えてくれるんだ。ここはまだ、お前の限界じゃない、って言われている気分にしてくれるんだ」
「きっと、本当にそう言っていたんだよ。彼のヴァイオリンは彼の言葉だから――」
飛鳥は嬉しそう笑って手を伸ばし、吉野の頭をくしゃっと撫でた。
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