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三章
地図1
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楡の木々が金色に生い茂る池の辺を、黒尽くめの制服姿の少年が二人、シャク、シャクと音を立てて歩き回っている。きょろきょろと辺りを見回し、声高に友人の名を呼んで探している。
「ヨシノ! ヨシノ!」
「何か用?」
遥か頭上から声がする。ぐるりと上方を見回し、どうにかこうにか欅の大木の真っ赤に染まった葉と葉の陰に重なる枝に隠れるように腰かけているお目当ての同寮生を見つけた。
「寮長が呼んでいるよ!」
小柄な一方が、浅黒い手を振って大声で叫んだ。
ザッ、と枝葉を揺らし木の葉を散らして、吉野は鮮やかな紅が幾重にも重なった落ち葉の絨毯に飛び降りた。
「わざわざありがとう、サウード」
「プリンス・サウード」
礼を言う吉野に、背の高い方がすかさず口を挟んで訂正を入れる。
「失礼、プリンス・サウード」
「ヨシノ、気にしないで。イスハ―ク、学校内での敬称は禁止だ」
サウードはきつい口調で従者を窘めると、すぐに吉野の腕を掴んで急かすように枯葉を踏み散らしながら早足で歩き始めた。その一歩後を、彼の従者でもあるイスハ―クが影のようにつき従っている。
「きっと、あの事件のことだね!」
漆黒の瞳を好奇心で輝かせながら、サウードは真っ白い歯を覗かせて無邪気に笑って言った。
「ああ」
吉野は、またか、と気のない返事をする。
「あんなに興奮したの、僕、初めてだったよ。とっさの時にあんな風には普通できないよ。見ていて本当にドキドキした。彼がこの学校で一番の、伝説の人なんだってね!」
「ああ、そうだな」
あいつの話をこの調子で聞かされるのは、昨日からこれで何度目だ?
吉野は苛立たし気に吐息を漏らしている。
ハーフタームが終わり、エリオットに戻ってからの吉野は、アーネストに貰った地図に従って校内の探索に出ている。
校内といっても、エリオット校の敷地は街全体に広がっている。至る所に校舎とスポーツ場、多目的ホールが点在し、授業によっては移動時間が全然足りずに走り回らなければならないほど広い。とても自分ひとりでは補いきれない。寮長に相談するしかないか、と思っていた矢先のこの呼び出しだ。
まったく、どいつもこいつも……。いつまで、もうこの学校にはいない奴の幻影を追いかけているんだ? ヘンリーの幻影は、いまだにこの学校に君臨しているのか? いい加減目を覚ませよ――。
中世の街並みに敷き詰められた石畳に靴音が高く響き、風を切る歩調にすっぽりと足元まで覆う長いガウンが翻える。日本人で庶民の吉野と肩を並べて歩くのは、従者を連れた砂漠の王子――。まるで御伽噺だ。そして、このお伽の国を支配するのは、ヘンリーという幻影か。
吉野はふと、ここが現実ではないどこか、まるで現実の街をそのまま映し出した巨大な蜃気楼の中ででもあるかのような錯覚に囚われ、眉をひそめて大きく息を吐いていた。
「なぁ、お兄さんに電話して聞いてくれよ」
呼びつけられた先、寮長室ではカレッジ寮寮長、チャールズ・フレミングが、お待ちかねの杜月吉野に、猫なで声で懇願していた。
「嫌です」
内容も聞かずに、吉野はにべもなく断った。
インターネットで生中継されたコズモスの米国見本市参加発表記者会見での衝撃的な映像は、その日の夜には寮内に知れ渡っていた。食堂でも、談話室でもその話題一色だ。
カレッジ寮寮長を務め、また、監督生としての輝かしい経歴を歩んできたエリオット校卒業生が起こした銃乱射事件に、学校側も緊急会議を開き、校内の動揺を治めるための対策を練っている最中だ。
「ヨシノ、きみだって心配だろう? 頼むよ。彼に直接は無理でも、お兄さんなら様子も分かるだろうし……」
「寮長だって中継見たんでしょう? あいつはぴんぴんしていたし、犯人はすぐ捕まっていた。見たままですよ、訊くことなんて何もないです」
吉野は面倒くさそうに答え、「行っていいですか? 俺、忙しいんで」と、踵を返してドアノブに手を掛ける。
「交換条件にしようか」
チャールズがくつろいだ様子で足を組みかえ、腰かけたソファーから見上げるようにして微笑んだので、吉野はドアを背にしたまま渋い顔をして視線を逸らした。次から次へと――。彼がこんな笑い方をする時は、圧倒的に自分の方が不利な状況だということを、吉野はもう充分に知っている。
「きみの部屋の電気コンロ――」
吉野はちっと舌打ちすると、深くため息をついた。
「何が知りたいんですか?」
「彼はアデル・マーレイの耳許で何て言ったの?」
「そんなこと、兄が知っているわけがないじゃないですか」
「だから、それを彼に訊ねて欲しいんだよ。きみのお兄さんならできるだろ?」
チャールズはまたしてもねだるように微笑んでいる。
「嫌です」
吉野は吐き捨てるように呟いた。
「きみが部屋で自炊していることが寮監にばれると、餌付けしている一学年生たちも同罪で罰則だよ。そんな大ごとになると、保護者の方におこし願わねばならなくなるねぇ」
意固地な吉野に対するチャールズも引かない。微笑んだまま脅しかけてくる。
「交換条件にしませんか?」
静かに寮長を睨めつけていた吉野は、ポケットから取り出した小さく折りたたんだ紙を二本の指で挟み、高く掲げた。
「ヘンリーの描いた、エリオットの校内地図です」
チャールズの目の色が変わる。吉野はもったいぶって、その紙切れをおもむろに開いて視線を落とした。地図といってもレポート用紙に描かれた落書きのようなものだ。だがここに書かれている内容はおいそれと口外できるものではない。寮長の反応を窺いながら、吉野は慎重に言葉を選んだ。
「どの場所がどんなことに使われるのか、事細かに記してありますよ。もちろん、彼の自筆で」
勝ち誇ったようにチャールズを見下ろし、吉野はにっと笑う。チャールズは唇を引き締め、目を眇めて考え込んでいる。
「負けたよ」
しばらくしてほろりと苦笑し、チャールズは両手を頭上高く挙げた。吉野もにやりと笑みを返し隣に座り、その手に広げた地図を渡した。
チャールズは興味深げに渡された地図に目を落とした。段々とその額の中心に厳しい皺を寄せながら、その目は食い入るように細かな文字を追っている。
「これ、今でも活きているのかな?」
「そこまでは知らない。それに、これをくれたのは彼じゃなくて、アーネスト・ラザフォードなんです」
「コピーでいい。僕にも貰えるかな?」
真剣な目で訴える寮長に、吉野も今度は素直に頷いた。
「ヨシノ! ヨシノ!」
「何か用?」
遥か頭上から声がする。ぐるりと上方を見回し、どうにかこうにか欅の大木の真っ赤に染まった葉と葉の陰に重なる枝に隠れるように腰かけているお目当ての同寮生を見つけた。
「寮長が呼んでいるよ!」
小柄な一方が、浅黒い手を振って大声で叫んだ。
ザッ、と枝葉を揺らし木の葉を散らして、吉野は鮮やかな紅が幾重にも重なった落ち葉の絨毯に飛び降りた。
「わざわざありがとう、サウード」
「プリンス・サウード」
礼を言う吉野に、背の高い方がすかさず口を挟んで訂正を入れる。
「失礼、プリンス・サウード」
「ヨシノ、気にしないで。イスハ―ク、学校内での敬称は禁止だ」
サウードはきつい口調で従者を窘めると、すぐに吉野の腕を掴んで急かすように枯葉を踏み散らしながら早足で歩き始めた。その一歩後を、彼の従者でもあるイスハ―クが影のようにつき従っている。
「きっと、あの事件のことだね!」
漆黒の瞳を好奇心で輝かせながら、サウードは真っ白い歯を覗かせて無邪気に笑って言った。
「ああ」
吉野は、またか、と気のない返事をする。
「あんなに興奮したの、僕、初めてだったよ。とっさの時にあんな風には普通できないよ。見ていて本当にドキドキした。彼がこの学校で一番の、伝説の人なんだってね!」
「ああ、そうだな」
あいつの話をこの調子で聞かされるのは、昨日からこれで何度目だ?
吉野は苛立たし気に吐息を漏らしている。
ハーフタームが終わり、エリオットに戻ってからの吉野は、アーネストに貰った地図に従って校内の探索に出ている。
校内といっても、エリオット校の敷地は街全体に広がっている。至る所に校舎とスポーツ場、多目的ホールが点在し、授業によっては移動時間が全然足りずに走り回らなければならないほど広い。とても自分ひとりでは補いきれない。寮長に相談するしかないか、と思っていた矢先のこの呼び出しだ。
まったく、どいつもこいつも……。いつまで、もうこの学校にはいない奴の幻影を追いかけているんだ? ヘンリーの幻影は、いまだにこの学校に君臨しているのか? いい加減目を覚ませよ――。
中世の街並みに敷き詰められた石畳に靴音が高く響き、風を切る歩調にすっぽりと足元まで覆う長いガウンが翻える。日本人で庶民の吉野と肩を並べて歩くのは、従者を連れた砂漠の王子――。まるで御伽噺だ。そして、このお伽の国を支配するのは、ヘンリーという幻影か。
吉野はふと、ここが現実ではないどこか、まるで現実の街をそのまま映し出した巨大な蜃気楼の中ででもあるかのような錯覚に囚われ、眉をひそめて大きく息を吐いていた。
「なぁ、お兄さんに電話して聞いてくれよ」
呼びつけられた先、寮長室ではカレッジ寮寮長、チャールズ・フレミングが、お待ちかねの杜月吉野に、猫なで声で懇願していた。
「嫌です」
内容も聞かずに、吉野はにべもなく断った。
インターネットで生中継されたコズモスの米国見本市参加発表記者会見での衝撃的な映像は、その日の夜には寮内に知れ渡っていた。食堂でも、談話室でもその話題一色だ。
カレッジ寮寮長を務め、また、監督生としての輝かしい経歴を歩んできたエリオット校卒業生が起こした銃乱射事件に、学校側も緊急会議を開き、校内の動揺を治めるための対策を練っている最中だ。
「ヨシノ、きみだって心配だろう? 頼むよ。彼に直接は無理でも、お兄さんなら様子も分かるだろうし……」
「寮長だって中継見たんでしょう? あいつはぴんぴんしていたし、犯人はすぐ捕まっていた。見たままですよ、訊くことなんて何もないです」
吉野は面倒くさそうに答え、「行っていいですか? 俺、忙しいんで」と、踵を返してドアノブに手を掛ける。
「交換条件にしようか」
チャールズがくつろいだ様子で足を組みかえ、腰かけたソファーから見上げるようにして微笑んだので、吉野はドアを背にしたまま渋い顔をして視線を逸らした。次から次へと――。彼がこんな笑い方をする時は、圧倒的に自分の方が不利な状況だということを、吉野はもう充分に知っている。
「きみの部屋の電気コンロ――」
吉野はちっと舌打ちすると、深くため息をついた。
「何が知りたいんですか?」
「彼はアデル・マーレイの耳許で何て言ったの?」
「そんなこと、兄が知っているわけがないじゃないですか」
「だから、それを彼に訊ねて欲しいんだよ。きみのお兄さんならできるだろ?」
チャールズはまたしてもねだるように微笑んでいる。
「嫌です」
吉野は吐き捨てるように呟いた。
「きみが部屋で自炊していることが寮監にばれると、餌付けしている一学年生たちも同罪で罰則だよ。そんな大ごとになると、保護者の方におこし願わねばならなくなるねぇ」
意固地な吉野に対するチャールズも引かない。微笑んだまま脅しかけてくる。
「交換条件にしませんか?」
静かに寮長を睨めつけていた吉野は、ポケットから取り出した小さく折りたたんだ紙を二本の指で挟み、高く掲げた。
「ヘンリーの描いた、エリオットの校内地図です」
チャールズの目の色が変わる。吉野はもったいぶって、その紙切れをおもむろに開いて視線を落とした。地図といってもレポート用紙に描かれた落書きのようなものだ。だがここに書かれている内容はおいそれと口外できるものではない。寮長の反応を窺いながら、吉野は慎重に言葉を選んだ。
「どの場所がどんなことに使われるのか、事細かに記してありますよ。もちろん、彼の自筆で」
勝ち誇ったようにチャールズを見下ろし、吉野はにっと笑う。チャールズは唇を引き締め、目を眇めて考え込んでいる。
「負けたよ」
しばらくしてほろりと苦笑し、チャールズは両手を頭上高く挙げた。吉野もにやりと笑みを返し隣に座り、その手に広げた地図を渡した。
チャールズは興味深げに渡された地図に目を落とした。段々とその額の中心に厳しい皺を寄せながら、その目は食い入るように細かな文字を追っている。
「これ、今でも活きているのかな?」
「そこまでは知らない。それに、これをくれたのは彼じゃなくて、アーネスト・ラザフォードなんです」
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