胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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「吉野、コーヒーのおかわりをくれる? うんと濃いので」
 飛鳥は話し終えたヘンリーが出掛けてかなり経ってから、吉野のいるキッチンに顔を出した。大理石のカウンターテーブル上のテキストを脇へ押しやり、吉野はさっそく用意にかかる。

「話、聞いてた?」
 カウンターを挟んでハイチェアーに腰かけ、だらしなく突っ伏した飛鳥は、キッチン側にいる吉野にぼそぼそと喋りかけた。
「うん。……何がそんなに問題なんだ?」

 飛鳥は暫くの間ぼんやりと黙りこくったまま、コンロの熱で音を立てる小鍋と、そこから立ち上る水蒸気をじっと眺めていた。だが、吉野が熱源を切ってコーヒーを淹れ終えると、深くため息をついて話し始めた。

「『杜月』のガラスは、原価が一枚五十万かかるんだ、日本円で。一枚で投影ボックス三台分作れる。だから、一台分のガラス原価が十六~七万円。コズモス製のパーツを入れたら、軽く二十万超えだ。コストが掛かり過ぎているんだよ……。それに時間も。一カ月で製造できるのは、せいぜい二十枚だもの」

 ぼんやりとすぐ傍に置かれたコーヒーの湯気を見つめ、「ヘンリーは、これをスマートフォンと変わらない値段で売り出したいんだよ。その為には、コストダウンと機械生産化は、必須なんだ……」くぐもった声で、顔を隠すように下を向いて呟き続ける。

「それなのに、未だに目途すらついていない……」
「発売できる見込みすら立っていないのに、見本市で発表するっていうこと?」
 弟の冷静な問い掛けに、飛鳥は俯いたまま、さらりとした髪の毛を揺らして頷いた。

「見切り発車もいいところだな……」
 吉野もさすがに驚いて、唇の端で嗤った。
「急ぎ過ぎだよ、ヘンリーは。ただ、ガン・エデン社を叩き潰したいだけに思えるよ……」
「そうかな?」
 吉野もハイチェアーに腰かけ直すと、つっぷしたままの飛鳥の頭をわさわさと撫でて慰めてやりながら、自分も反対の手でカップを持つと、ごくりとコーヒーを飲み下した。

「あいつの親父さん、かなり危ないんだろ?」
「え?」

 予期せぬ言葉に驚いて、飛鳥はぴくりと肩を震わせて半身を起こし、今初めて知ったとばかりに、吉野に問い質すような視線を送る。

「ネットで見たんだけれどな。あいつの親父さん、病気療養中もCEOであり続けて、病室から戦略決定を行ってきたのが、いよいよCEOを降りて療養に専念するって。それで、後継者は息子のヘンリーになるか、現COOの実弟のジョージになるかで役員内で揉めているらしいよ。金融危機プラスその内輪のごたごたで、今、親父さんの会社の株が暴落してるんだ」

 飛鳥は唖然としたまま目を見開いて、「じゃ、ヘンリーがあんなに焦っているのって、」と、またもや全身から力が抜けたように、カウンターに頬杖をついた。
「僕は何も知らなかったよ……」
「ネット上の噂だからな、どこまで本当かは判らないよ」
 吉野はコーヒーカップを寄せて、「冷めるよ」と飛鳥の目の前に置く。



 吉野自身の耳で聞いたヘンリーとロレンツォの会話は、もっと複雑で入り組んだ話だった。だが、飛鳥にはそんな事は関係ない。あえて吉野が口にする事でもない。それよりも、自分の事ばかりにかまけて、ヘンリーがプライベートに抱える問題に感心を示すことさえしなかった自分を責め、落ち込む飛鳥をどうやって浮上させようかと、吉野は思考を巡らせていた。飛鳥にしろ、全く知らなかった訳ではないのだ。「父親の会社」が大変らしい、という飛鳥自身の情報から、吉野はその内情を知ったのだから。知らなかった事が、落ち度というはずがないのに、この兄はそれを自分の至らなさだ、とすぐに自分の問題にしてしまう――。


「でも俺、飛鳥とあいつが話しているのを見て、安心したよ」
 ふと思い出した風を装って、吉野は屈託のない笑みを浮かべた。
「ちゃんと友達なんだな」
「どういう意味?」
 飛鳥はどんよりとした視線を上げて、吉野の目を見つめ返した。

「あいつ、前に飛鳥のこと、フレンドじゃなくて、大切な親友ソウルメイトって、言ってたんだ。その時は何とも思わなかったけど、飛鳥と話しているあいつを見ていたら、ああ、そうなんだな、て。ずっと、なんで飛鳥とあいつが友達なのか納得出来なかったのに、すとーんと腑に落ちたよ」

 飛鳥は黙ったまま目を見開いて、じっと吉野の言葉に聞き入っている。

「ソウルメイトって、互いの魂に触れ合うほどの仲って意味なんだろ? やっぱりそんな風に見えたよ。飛鳥が落ち込むのは、あいつが無理をしているのが解っているからだろ? あいつは、あんなに爽やかそうに笑っているのに、飛鳥にはちゃんとあいつの魂が視えているんだ、って思えたんだよ。あいつの方も、飛鳥が必死に頑張っているのが解っているから、あんなに優しく笑えるんだな、って。あの男、見かけよりずっとロマンチストなんだな」

 飛鳥はぎゅっと眉間に皺を寄せて目を伏せ、消え入りそうな声で訊いた。

「僕は、少しは彼の役に立てているのかな?」
「あいつは、飛鳥には嘘をつかないよ」

 吉野はもう一度、この頼りない兄の頭をわしわしと撫でてやった。


 感受性が強すぎるんだ、飛鳥は。だからあんな奴に引っかかる……。あいつは、飛鳥には誠実だよ、きっと。飛鳥の才能があいつの役に立っている間は――。でも、あいつは飛鳥のことを知らない、まだまだ、まるで知らないんだ――。


 ぐっと、そんな想いを押し殺しながら――。






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