胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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三章

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 幾台ものパソコンとモニター、プロジェクタ―等の機材が処狭しと置かれた自室で、飛鳥は床に座り込み、ベッドを背にしてもたれ掛かったまま、じっと窓の外に広がる灰色の空を眺めていた。

 しとしとと、細やかな雨が降っている。

 窓ガラスに当たる雨粒の一粒一粒を見極めるように、目を凝らしている。脳内では、一粒、一粒の雨粒は大小様々なガラス粒子に変換されランダムに動き回っている。

 思考を断ち切るように、飛鳥は眉をしかめて目を瞑る。



 ノックの音に、押し殺したような声で返事をした。ドアが開き、しっとりと雨に濡れたヘンリーが室内に姿を現した。飛鳥は泣き出しそうな顔をして、彼を見上げる。

「ごめん」
「どうして謝るんだい?」
 ドアを閉め、ヘンリーはそのまま後ろに寄り掛かって微笑んだ。
「僕は満足しているよ」

 飛鳥はどんよりと暗い瞳を伏せ、首を横に振って、「画像の拡大に耐えられる程度には解像度は上がったけれど、その分ガラスの製法は複雑になって、前以上に機械生産化から遠ざかってしまったよ」と申し訳なさそうに唇を歪める。

「きみは充分に期待に応えてくれているよ」
 ヘンリーは濡れた髪を掻き上げ、クスクスと笑う。
「全く……、いつだってきみは自分のすることには、絶対に満足しやしないんだ」
「でも、」
 大きな鳶色の瞳を哀し気に揺らしながら言葉を探す飛鳥に、ヘンリーは続けて言った。
「下に来ないかい? ヨシノはいるかな? 僕にもコーヒーを淹れてほしいのだけど。アーニーが凄く褒めていたんだ」

 飛鳥は頷いて、のろのろと立ち上がった。



 吉野の部屋をノックしてそこにいないことを確かめると、ヘンリーと共に階下に降り、リビングからダイニングに声を掛ける。
 呼ばれて顔を出すなり、吉野は不快感も露わに眉を寄せた。そしてダイニングに引っ込むと、タオルをヘンリーに投げてよこした。

「英国人は傘を差さないっていうのは、本当なんですね。それならコートくらい、さっさと脱いでください。床が汚れる。自分で掃除しないのなら汚さないで下さい。何か温かいもの、飲みますか?」
「コーヒーをお願いできるかい?」

 まくしたてる吉野の様子に、ヘンリーは吹き出すように笑って答え、コートを脱ぎタオルで髪を拭いた。飛鳥は、また失敗した――、と顔を伏せ、唇を噛んだ。
「ごめん、ヘンリー。気が利かなくて……」
 ヘンリーは優しく微笑んで、飛鳥の髪に手を置いて柔らかく、くしゃりと撫でた。



「きみが仕上げてくれた投影ボックスのバージョン1.0を、一月に米国で開催される、家電テクノロジー国際見本市で発表するつもりなんだ」

 飛鳥は、手にしていたコーヒーカップを落としそうになり、慌ててソーサーに戻すと露骨に顔を歪めて囁くように訊いた。

「冗談だよね、ヘンリー?」
「申し込みを済ませてきたよ」
「一月までに、機械生産の目途をつけろってこと?」
「まさか! そんな無理難題を言う訳がないだろ?」

 ヘンリーは可笑しそうに笑うと、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。

「本当にきみのお陰で、着々と前に進んでいけるよ。ありがとう、アスカ」

 納得できないまま固い表情を崩さない飛鳥に、「こんな製品を開発しているって、いわば研究発表ための見本市も兼ねているからね。プロトタイプさえ出来上がっていればいいんだよ」と、ヘンリーはカップを戻し両手を組んで膝の上に置くと、いつもの上品な優しい笑顔を飛鳥に向ける。

「ここでガン・エデン社が、新製品を発表する。そっちは商品だけどね。それにぶつけるんだよ。本当のことを言うとね、僕自身、まさか、これに間に合うなんて思ってなかったんだよ。ほとんど諦めていたのに胸がすく思いだよ」

 飛鳥はぎゅっと拳を握りしめ、奥歯を噛み締め、眉をしかめたまま目を瞑る。そして目を開けると、咎めるような辛そうな視線をヘンリーに向けた。

「きみは、知っているんだね……。彼らが何を発表するのか……」
 ヘンリーはそれには答えず、微笑んだまま飛鳥に問い直した。
「きみには想像がつくかい?」
「投影ボックスがあの形になった時に」
「きみはいつも僕を驚かせてくれるよ。いい意味でね」
 またしても可笑しそうにクスクスと、ヘンリーは笑った。

「盗んだわけじゃない。これは必然だよ」
「もっと小型化することだってできる……。でもきみは、この形、このサイズでぶつけたいんだろ?」
 ヘンリーは笑うのを止めて小首を傾げた。
「きみは嫌なの?」
 飛鳥は首を横に振って、震える声で囁くように返答した。
「そうじゃないよ。……ビジネスは、戦争だもの。そして、戦場の最前線にいるのはいつだって僕じゃない、きみだもの。解っている」

 ヘンリーは、膝に肘をついて身を屈めて乗り出すと、顔を伏せたままの飛鳥の頬に、そっとその長いしなやかな指を添えた。

「千載一遇のチャンスをありがとう、アスカ」






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