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二章
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襖の隙間から明かりが漏れている。
夜も遅く、とうに零時を回っている。どうしようかと迷いながらも、安心したい気持ちが勝って飛鳥は襖の向こうに小さく声を掛けた。
「デイヴ、起きている?」
「起きているよ~。おかえり、アスカちゃん」
待ってくれていたような、いつもの陽気な声にほっとする。
「入っていい?」
「どうぞ~」
またゲームをしているのかと思っていたのに、壁際に置かれた六十インチのテレビ画面は暗いままだ。足の踏み場もないほどに雑誌や、写真集などの大判の本類の散らかった畳の上を、踏みつけないように気を付けながら足を進める。足元ばかり気を取られていた飛鳥は、ひんやりと頬に当たる空気にふと面を上げた。
障子を開け放ち、回り廊下を囲む網戸の張られた窓から、涼しい風が入ってきていた。
「また台風がくるらしいよ。だからかな、涼しいね。昼間は猛暑だったのに」
座椅子に凭れて膝の上に大判のスケッチブックを広げ、熱心に何か描いていたデヴィッドが顔を上げた。
そのブルネットの巻き毛の下に、隠れるようにぴたりと貼られた冷却シートを見つけ、飛鳥は心配そうに眉を寄せる。
「大丈夫? 熱中症だって?」
「大したことないよ~。ちょっと熱っぽいだけ」
「メールを貰って、心配してたんだよ」
デヴィッドはもう俯いて、スケッチブックの作業に戻っている。
「お土産。京都のお客さんに頂いたんだ」
「甘春堂!」
跳ねるように顔を上げ、飛鳥の見せた紙袋を見て歓声を上げる。飛鳥は慌てて唇に人差し指を当てて顔をしかめた。すぐにデヴィッドも片手を顔の前に立てて謝った。
「前に電話で話したのを覚えていて下さってね。デイヴが言っていたのは、残念ながら夏限定でもう売っていないって。でもこれもお奨めだっておっしゃっていたよ」
「食べてもいい~?」
「明日ね」
にっこりと笑う飛鳥を恨めし気に見上げながら、デヴィッドはこくんと頷いた。
珍しい……。今すぐ食べる、って言わないんだ。
飛鳥は少し驚きながらデヴィッドの横に腰を下ろし、スケッチブックに目を落とした。
「これはヘンリー? 六月祭のアーサー王だね」
淡い水彩で描かれた、甲冑を身に着け、手に弓を携えた中世騎士の画に、飛鳥は懐かしそうに目を細める。
「そうだけど、違うよ~。僕が今作っているゲームのキャラクター」
「作っている?」
「うん。プログラムはさっぱりだから、設定とデザインだけね~。アルに紹介してもらったコズモスの社員数人と一緒に開発しているんだ」
「へぇー、すごいね。RPG? ドラゴン退治みたいな騎士物語?」
「そう思うだろ? 一部、そうなんだけれどね~。ヘンリーは王様でラスボス。主人公はヨシノだよ~」
デヴィッドは絵筆を置いて、ぱらりと前のページを繰る。
「そっくり!」
口をへの字に曲げて怒ったような顔をした、村人っぽい服装の子どもの画に、飛鳥は思わず吹き出した。
「アスカちゃんもいるよ~」
デヴィッドは更にページを繰ってみせた。
「アスカちゃんは、弓作りのマスターなんだよ~。それで、王様の為だけに弓を作るようにって、ヘンリー王様に攫われて塔に閉じ込められてしまうんだ。それで、弟のちびヨシノが救出のための旅に出るんだ。最強の王様に勝つには、最強の弓を作らなきゃならない。そのために、特殊な材料を探したり、怪物と闘ったりしながら、弓作りのレベルを上げていくんだよ~」
「攫われるのは、お姫さまじゃなくて僕なわけ? ヘンリーが悪者なんてすごい設定だね。それじゃ主人公より、ラスボスの方がかっこ良くなっちゃうんじゃないの?」
「いいんだよ~、それで。かっこいいラスボスに会いたいから、ゲーム頑張るんだもん」
デヴィッドはパラパラと遡って画を確認するように見ながら、茶目っ気たっぷりに笑った。
そっか、デイヴだって、遊んでばっかりいるわけじゃなかったんだ……。
九月から一カ月間の日本語学校のコースを取って、いよいよ十月開講のデザイン学校が始まる。
着々とその準備をしていたんだ……。
飛鳥は、何も知らなかった自分を少し恥ずかしく思い、それ以上に応援したい気持ちが一杯に溢れてきて、自然にこぼれるように微笑んでいた。
「でも、現実の吉野を知っていたら属性を決め辛くない? 吉野、多趣味だから。今日だってびっくりしなかった?」
「何が?」
「あれ? 雅楽の演奏は見なかったの? 今日が最後の練習日だから、デイヴたちにも練習を見て貰う、ってあいつ張り切って言ってたのに」
デヴィッドの目が大きく見開かれる。
「あ……。その前に、熱中症で……」
「そっか、残念だな。ヘンリーのヴァイオリンみたいな情熱的な凄さはないけれど、吉野の笛、すごくいいよ。あ、そうだ、」
飛鳥はスラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。
「これ、春に送って貰った動画だよ。これが吉野」と、画面をデヴィッドにも見えるように向け、舞台に並んだ幾人もの楽人の内の一人を指さし、白い直垂装束に烏帽子を被った吉野が演奏している短い動画を再生してみせる。
「パブリックスクールの試験には楽器の演奏があるだろ? 吉野は龍笛、僕は篳篥を演奏したんだ。母さんのお陰で助かったよ。もっとも、僕は中学の頃にはもうほとんどやっていなかったから、うろ覚えだったんだけれどね」
「お母さまが教えて下さったの?」
「母さんは、もともと笙をやっていたんだ。今日、デイヴたちが行った神社の雅楽振興会に入ってたんだよ。伝統芸能はどこも後継者不足だからね。ぼくらもほとんど強制的にやらされていたって訳」
飛鳥はちょっと言葉を切って、自嘲的に笑った。
「吉野は性に合ってるみたいでね。だけど僕はてんで駄目だったよ。笙は、『天』、篳篥は『地』、龍笛は『空』を意味していて、この三つを合奏することで宇宙を創るんだって。吉野はそういうの、肌で判っているんだ。弓を引いているときも、そんな感じだろ」
スマートフォンから流れる演奏に耳を傾け、画面の中の顔も判らないような小さな画像の楽人たちをじっと眺めながら、デヴィッドはぽつりと呟いた。
「僕のせいで、ヨシノはこの演奏仲間にお別れを言えなかったんだね」
「え? ちゃんと挨拶したって言っていたよ。デイヴが気にすることないって。あいつはいないけど、秋祭りの奉納雅楽を見に行くといいよ。きっと、気に入るよ」
無邪気に笑う飛鳥に申し訳なさそうに頷いて、デヴィッドは、力なく引きつった笑みを返していた。
夜も遅く、とうに零時を回っている。どうしようかと迷いながらも、安心したい気持ちが勝って飛鳥は襖の向こうに小さく声を掛けた。
「デイヴ、起きている?」
「起きているよ~。おかえり、アスカちゃん」
待ってくれていたような、いつもの陽気な声にほっとする。
「入っていい?」
「どうぞ~」
またゲームをしているのかと思っていたのに、壁際に置かれた六十インチのテレビ画面は暗いままだ。足の踏み場もないほどに雑誌や、写真集などの大判の本類の散らかった畳の上を、踏みつけないように気を付けながら足を進める。足元ばかり気を取られていた飛鳥は、ひんやりと頬に当たる空気にふと面を上げた。
障子を開け放ち、回り廊下を囲む網戸の張られた窓から、涼しい風が入ってきていた。
「また台風がくるらしいよ。だからかな、涼しいね。昼間は猛暑だったのに」
座椅子に凭れて膝の上に大判のスケッチブックを広げ、熱心に何か描いていたデヴィッドが顔を上げた。
そのブルネットの巻き毛の下に、隠れるようにぴたりと貼られた冷却シートを見つけ、飛鳥は心配そうに眉を寄せる。
「大丈夫? 熱中症だって?」
「大したことないよ~。ちょっと熱っぽいだけ」
「メールを貰って、心配してたんだよ」
デヴィッドはもう俯いて、スケッチブックの作業に戻っている。
「お土産。京都のお客さんに頂いたんだ」
「甘春堂!」
跳ねるように顔を上げ、飛鳥の見せた紙袋を見て歓声を上げる。飛鳥は慌てて唇に人差し指を当てて顔をしかめた。すぐにデヴィッドも片手を顔の前に立てて謝った。
「前に電話で話したのを覚えていて下さってね。デイヴが言っていたのは、残念ながら夏限定でもう売っていないって。でもこれもお奨めだっておっしゃっていたよ」
「食べてもいい~?」
「明日ね」
にっこりと笑う飛鳥を恨めし気に見上げながら、デヴィッドはこくんと頷いた。
珍しい……。今すぐ食べる、って言わないんだ。
飛鳥は少し驚きながらデヴィッドの横に腰を下ろし、スケッチブックに目を落とした。
「これはヘンリー? 六月祭のアーサー王だね」
淡い水彩で描かれた、甲冑を身に着け、手に弓を携えた中世騎士の画に、飛鳥は懐かしそうに目を細める。
「そうだけど、違うよ~。僕が今作っているゲームのキャラクター」
「作っている?」
「うん。プログラムはさっぱりだから、設定とデザインだけね~。アルに紹介してもらったコズモスの社員数人と一緒に開発しているんだ」
「へぇー、すごいね。RPG? ドラゴン退治みたいな騎士物語?」
「そう思うだろ? 一部、そうなんだけれどね~。ヘンリーは王様でラスボス。主人公はヨシノだよ~」
デヴィッドは絵筆を置いて、ぱらりと前のページを繰る。
「そっくり!」
口をへの字に曲げて怒ったような顔をした、村人っぽい服装の子どもの画に、飛鳥は思わず吹き出した。
「アスカちゃんもいるよ~」
デヴィッドは更にページを繰ってみせた。
「アスカちゃんは、弓作りのマスターなんだよ~。それで、王様の為だけに弓を作るようにって、ヘンリー王様に攫われて塔に閉じ込められてしまうんだ。それで、弟のちびヨシノが救出のための旅に出るんだ。最強の王様に勝つには、最強の弓を作らなきゃならない。そのために、特殊な材料を探したり、怪物と闘ったりしながら、弓作りのレベルを上げていくんだよ~」
「攫われるのは、お姫さまじゃなくて僕なわけ? ヘンリーが悪者なんてすごい設定だね。それじゃ主人公より、ラスボスの方がかっこ良くなっちゃうんじゃないの?」
「いいんだよ~、それで。かっこいいラスボスに会いたいから、ゲーム頑張るんだもん」
デヴィッドはパラパラと遡って画を確認するように見ながら、茶目っ気たっぷりに笑った。
そっか、デイヴだって、遊んでばっかりいるわけじゃなかったんだ……。
九月から一カ月間の日本語学校のコースを取って、いよいよ十月開講のデザイン学校が始まる。
着々とその準備をしていたんだ……。
飛鳥は、何も知らなかった自分を少し恥ずかしく思い、それ以上に応援したい気持ちが一杯に溢れてきて、自然にこぼれるように微笑んでいた。
「でも、現実の吉野を知っていたら属性を決め辛くない? 吉野、多趣味だから。今日だってびっくりしなかった?」
「何が?」
「あれ? 雅楽の演奏は見なかったの? 今日が最後の練習日だから、デイヴたちにも練習を見て貰う、ってあいつ張り切って言ってたのに」
デヴィッドの目が大きく見開かれる。
「あ……。その前に、熱中症で……」
「そっか、残念だな。ヘンリーのヴァイオリンみたいな情熱的な凄さはないけれど、吉野の笛、すごくいいよ。あ、そうだ、」
飛鳥はスラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。
「これ、春に送って貰った動画だよ。これが吉野」と、画面をデヴィッドにも見えるように向け、舞台に並んだ幾人もの楽人の内の一人を指さし、白い直垂装束に烏帽子を被った吉野が演奏している短い動画を再生してみせる。
「パブリックスクールの試験には楽器の演奏があるだろ? 吉野は龍笛、僕は篳篥を演奏したんだ。母さんのお陰で助かったよ。もっとも、僕は中学の頃にはもうほとんどやっていなかったから、うろ覚えだったんだけれどね」
「お母さまが教えて下さったの?」
「母さんは、もともと笙をやっていたんだ。今日、デイヴたちが行った神社の雅楽振興会に入ってたんだよ。伝統芸能はどこも後継者不足だからね。ぼくらもほとんど強制的にやらされていたって訳」
飛鳥はちょっと言葉を切って、自嘲的に笑った。
「吉野は性に合ってるみたいでね。だけど僕はてんで駄目だったよ。笙は、『天』、篳篥は『地』、龍笛は『空』を意味していて、この三つを合奏することで宇宙を創るんだって。吉野はそういうの、肌で判っているんだ。弓を引いているときも、そんな感じだろ」
スマートフォンから流れる演奏に耳を傾け、画面の中の顔も判らないような小さな画像の楽人たちをじっと眺めながら、デヴィッドはぽつりと呟いた。
「僕のせいで、ヨシノはこの演奏仲間にお別れを言えなかったんだね」
「え? ちゃんと挨拶したって言っていたよ。デイヴが気にすることないって。あいつはいないけど、秋祭りの奉納雅楽を見に行くといいよ。きっと、気に入るよ」
無邪気に笑う飛鳥に申し訳なさそうに頷いて、デヴィッドは、力なく引きつった笑みを返していた。
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