胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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二章

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「団体戦、三位入賞おめでとう」
 ガラリと玄関を開けるなり、取次ぎに設計図を何枚も散らばした中に座り込んでいる飛鳥が、満面の笑顔で試合から帰ってきた吉野を出迎えていた。
 吉野は驚いて「来てたの? 無理だと思ってたのに」、と少し照れくさそうに笑った。
「絶対に応援に行くって約束しただろ?」
 そう言いながらも、飛鳥は申し訳なさそうに苦笑いしている。


 昨日の晩から工場に泊まり込み、朝方取った仮眠のつもりが、気がついた時には昼近かった。すぐに会場へ向かえばいいものを、寝ながら考えていたアイデアを忘れないうちに……、と描き留めている間に、すっかり出遅れてしまっていた。会場に着いた時には、すでに吉野の中学は射場に入っていて競技が始まっていた。


「皆中、すごかったね」
「当てるだけならな」
 吉野は瞳に苛立ちを宿して靴を脱ぐと、「先に風呂入っていい?」と二階の自分の部屋へ向かう。


「入賞したのに、あんまり嬉しそうじゃないじゃん。なんで? ヨシノが一番活躍していたのに優勝できなかったから? 個人戦に出ればよかったんだよ」
 台所から顔を覗かせて、デヴィッドが階段を上るその背中に声を掛ける。
「無理。一年だから。団体戦に出して貰えただけでもすごいのに」
 吉野は振り返って渋面を見せ、タン、タンと階段を上がって行った。


「ネンコージョレツってやつ?」
 しゃがみこんで床に座っている飛鳥に目線を合わせ、首を傾げて質問する。
「そうだね。多分。僕もよくは判らないんだけれどね。僕はスポーツはからっきし駄目だから」
「そうだね~。ヘンリー、苦労していたよねぇ、きみにクリケット教えるの」
 デヴィッドは思い出したようにクスクスと笑った。

「エリオットで、ヨシノはスポーツどうするのかな? さすがに、弓道はないしねぇ。アーチェリーならあるけれど、どうだろうねぇ」
 飛鳥は周囲に散らばった図面を集め、立ち上がった。心、ここに在らずで、あまりデヴィッドの声も耳に入っていないように見える。だが、飛鳥は深く頷くと、改めてデヴィッドに真剣な眼差しを向けた。

「その辺の事、吉野に教えてやって。選択科目も慎重に選ばないと。まずは、GCSEだろ?」




「飛鳥、設計の変更進んでる? ごめんな、俺の為に中断させて。工場に戻らなくてもいいの?」
「ん? 大丈夫だよ。今日はもう、ゆっくりするよ」
 吉野と並んで縁側に腰かけ、飛鳥はいつもの“大丈夫”を繰り返した。


 飛鳥が日本に戻ってきてからずっと、やろう、やろうと思いながら手をつけられずにいた荒れ放題だった小さな庭を、ビル・ベネットが率先して雑草を抜き、整備して、見違えるほど綺麗にしてくれた。そのわずか三坪ほどの庭で、デヴィッドとアルバートは楽しそうに花火をしている。

 
「ビルのお陰でずいぶん綺麗になったね。お礼をしなきゃ」
「別にいいんじゃないか。自分の為だし。朝、ゴザを敷いてウィリアムと合気道の稽古をしているんだ。知らなかったのか?」
 嬉しそうに赤や緑に色を変える花火の輝きを見つめている飛鳥に、吉野は冷めた口調で説明する。

「あいつらって、要するにボディーガードみたいなもんなの?」
「ビルはそうだけれど、ウィルは違うよ」


 風向きが変わり、手持ち花火のもうもうとした煙が流れてきた。
 独特の火薬の臭いを浴びて飛鳥は顔をしかめて立ち上がり、庭に下りて場所を移動する。吉野はまさに煙に巻かれた気分だ。

「吉野、一緒にやろう」
 飛鳥は手に数本の花火を持って戻って来ると、その内の一本を差し出した。吉野は黙って受け取り、「デヴィ、火を分けて」と、デヴィッドの花火から火を貰い、飛鳥の傍に立って飛び散る火花を軽く振る。
 飛鳥も、吉野の花火から火を移した。
 二人並んで、シュワシュワと音を立てて火花を噴き出し、短くなっていく花火を見つめた。

 ジジッと消え終わった燃えカスを、ジュッとバケツに入った水に浸けた後、「今日の大会、何が気に入らなかったの?」、と飛鳥は日常の何気ないことでも訊ねるように切り出した。

「弓道がわからなくなった」
 吉野も訊かれることは初めからわかっていたように、表情を変えることなく応える。
「ウィリアムが道場に来て弓を引いたことがあって。あんな闘争的な弓は弓道じゃない、て思ったんだ。でもあの時初めて、弓は、命を奪う道具だと実感した。そしたら、弓を持つことが怖くなった。それなのに気持ちが高ぶってそれまで以上に嬉しくなったんだ。でもそんなのは、弓道じゃない。大会で、真摯な先輩たちの中で、そんな自分が恥ずかしかった」

 暫くの間、互いに言葉もなく佇んでいた。飛鳥は、自分たちとは対照的に笑いながら花火を続けるデヴィッドたちに見るともなく目を向けて、静かに口を開いた。吉野も何ともなしに、そんな飛鳥の視線を追う。

「僕には弓道のことは判らないけれど、吉野の弓がどんな気持ちで引かれていようと、僕は、いつだってお前を誇りに思っているよ」

 飛鳥の瞼裏には、デヴィッドを助けるために銃を構えた幼いヘンリーと、自分のために弓を引き絞った幼い吉野が重なって視えていた。

「だって、武器がないと闘えないじゃないか」
 兄の口から出たとは思えない言葉に、吉野はぎょっとして兄の顔を凝視する。

「吉野の弓は、きっと自分の中の弱い吉野を守る為の道具なんだ」
 飛鳥はちょっと小首を傾げて小さく笑った。

「お祖父ちゃんのお墓の前でヘンリーに会った時、僕だって、闘っているんだって、やっと分かったよ。僕たちは、より良い未来を創造つくる為に、出来る訳がないって思い込みを、不可能を、過去のことにするために闘っているんだ。初めて僕と彼は対等なんだって、思えたよ」

「飛鳥、変わったな」

 吉野がぽつりと呟くと、「そりゃ、変わるよ。この世に変わらないものなんてないだろ? お前がこの一年で僕の身長を抜いたみたいにね」と飛鳥は穏やかに微笑んで、吉野の頭をくしゃくしゃと撫でた。





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