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二章
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「ヨシノ! ちょっと待ってよ!」
「デヴィ、うるさい!」
吉野がまた、喧嘩している……。
飛鳥は、ぼんやりと天井を見つめていた。
起きなきゃ……。と、身体に力を入れる。
吉野がまた、一人ぼっちで待っている……。
早く、行かなきゃ……。
それなのに、身体が鉛のように重くて動かない。
早く……。吉野を迎えに……。
足に力が入らない。
「吉野! 吉野!」
玄関に蹲ってじっと待っている小さな吉野を、必死に呼んだ。
「飛鳥?」
目の前に吉野の顔があった。
「あ……」
飛鳥は、びっしょりと汗をかいている額を手の甲で拭う。
「夢を、見ていたんだ」
「嫌な夢?」
力なく微笑んで、飛鳥は首を振る。
「お前が、小さくて可愛かった頃の夢」
「寝汗、ひどいな。着替える? クーラー切っていたの?」
動作していることはひんやりと肌に感じる温度で解っているのに、吉野はもどかしげに壁のクーラーを見遣り、確認する。兄が玉のような汗を浮かべ顔を歪めていたのは夢のせいだ、などと思いたくなかったのだ。
「おい、くっつくな! 暑苦しい!」
いつの間に部屋に来ていたのか、ふいに背中に圧し掛かかり、首に腕を回してべたーとくっついてきたデヴィッドを振るい落とそうと、吉野は身体を揺する。
デヴィッドは振り落とされまいと、しっかりしがみついたまま、飛鳥に声をかける。
「アスカちゃん、調子はどう?」
「大分マシだよ。もう、そんなにしんどくないよ」
飛鳥はそんな二人を見て、クスクスと笑う。
「しんどくない、って?」
「あ、方言だよ。関西の方の。『しんどい』っていう、辛い、とか、疲れを感じる、て意味の否定形」
不思議そうな顔をしているデヴィッドに、飛鳥はゆっくりと身体を起こして説明する。
「母が、奈良のひとだったから。奈良、判る?」
デヴィッドはこくんと頷いた。
「関西――。奈良も、京都も行きたいなぁ」
「いっしょに行く?」
「おい、飛鳥、むちゃ言うなよ! ほら、デヴィも放せよ」
吉野はいきなりデヴィッドの頬を摘まんでぐいっと引っ張った。
「痛~!」
デヴィッドはやっと離れて頬を擦っている。
「ひどいよ! 顔だけが取り柄なのに!」
「自分で言うな!」
「僕が寝ている間に、随分仲良くなったんだね」
飛鳥は、嬉しそうに目を細めて笑っている。
「ビルやアルとも仲良くなったよ」
吉野は立ち上がってクーラーのリモコンを手に取った。だが、温度設定を下げるのを止めて飛鳥を振り返ると、「起きる? 何か食べる?」と、訊いた。
「昨日のおはぎ、まだある?」
飛鳥はふと思い出したように訊ねる。
「飛鳥の分、冷凍してあるよ」
吉野が手を差し出すと、飛鳥はその手を掴んでよいしょ、と立ち上がった。一瞬、顔をしかめたがすぐ笑顔に戻って、心配そうに見ている吉野に、「結構、平気。先にシャワーを浴びて来るよ」と告げた。
「おはぎ、解凍しておくよ」
吉野はためらいがちに飛鳥を見ていたが、そのまま部屋を出て階段を降りて行く。その後をデヴィッドが続いた。
「ヨシノ~、僕のもある?」
「あるわけないだろ! 昨日幾つ食べたと思っているんだ?」
「え~。もう忘れたよ。僕のおやつは?」
「ない!」
部屋まで響いてくるそんな二人の会話はとても微笑ましい。それなのに、どこか現実とは遠く離れたどこかでのことのように、飛鳥の耳には聞こえていた。
ぼんやりと佇んでいた飛鳥はおもむろに窓を開け、古びた窓枠に身を凭せ掛けた。狭い庭を超えて、隣家の墓地に続く雑木林に視線を漂わせる。鮮やかな緑が起き抜けの瞳に眩しく、何度も目を瞬かせた。生ぬるい空気が冷気と対流するように入り込んで、また、じっとりと汗ばんでくる。蝉の声に全身を浸すように聞き入りながら、飛鳥は、両手で自分自身をぎゅっと抱きしめる。
「アスカちゃん、危ないよ」
開け放たれた襖に手を掛けて、デヴィッドがこちらを見ていた。
「デイヴ……」
飛鳥は空ろな目を雑木林からデヴィッドに移し、唇を震わせて独り言のように平坦に喋りだした。
「夢を見ていたんだ――。吉野が小さかった頃の夢。僕は本当に、ひどい奴なんだよ。母さんが危篤だって、工場に電話があったんだ。それなのにガン・エデン社の納期が迫っていて、あいつらが来ていて、父さんも、お祖父ちゃんも、仕事を抜けられなくて、その場にいた僕だけが病院に行ったんだ。僕は、完全に、吉野のことを、忘れていたんだ。すぐに迎えに行けば間に合ったのに……。僕だけが、母さんの最後に立ちあえて、母さんが亡くなって、やっと吉野のことを思い出したよ。真っ暗な玄関で、吉野はたった一人で蹲ってじっと僕の帰りを待っていた。あれから、吉野は僕のことを、兄ちゃんって呼ばなくなったよ。僕は、兄失格なんだ――」
目を伏せたままじっと黙って聞いていたデヴィッドは、「だから? それがどうしたっていうのさ? そんな話を僕にして、どうして欲しいの? どんな過去があったって、生きて行かなきゃいけないでしょ」と頭を上げ、くいっとあごを付き出した。
「Hold your head up high.(頭を高くあげろ)」
飛鳥は、大きく目を見開いて唇をわななかせた。デヴィッドは、飛鳥に歩み寄るとその頭をしっかりと掻き抱いた。
「馬鹿だね、アスカちゃんは……。そんなどうにもならないこと、金輪際考えるんじゃないよ――」
「デヴィ、うるさい!」
吉野がまた、喧嘩している……。
飛鳥は、ぼんやりと天井を見つめていた。
起きなきゃ……。と、身体に力を入れる。
吉野がまた、一人ぼっちで待っている……。
早く、行かなきゃ……。
それなのに、身体が鉛のように重くて動かない。
早く……。吉野を迎えに……。
足に力が入らない。
「吉野! 吉野!」
玄関に蹲ってじっと待っている小さな吉野を、必死に呼んだ。
「飛鳥?」
目の前に吉野の顔があった。
「あ……」
飛鳥は、びっしょりと汗をかいている額を手の甲で拭う。
「夢を、見ていたんだ」
「嫌な夢?」
力なく微笑んで、飛鳥は首を振る。
「お前が、小さくて可愛かった頃の夢」
「寝汗、ひどいな。着替える? クーラー切っていたの?」
動作していることはひんやりと肌に感じる温度で解っているのに、吉野はもどかしげに壁のクーラーを見遣り、確認する。兄が玉のような汗を浮かべ顔を歪めていたのは夢のせいだ、などと思いたくなかったのだ。
「おい、くっつくな! 暑苦しい!」
いつの間に部屋に来ていたのか、ふいに背中に圧し掛かかり、首に腕を回してべたーとくっついてきたデヴィッドを振るい落とそうと、吉野は身体を揺する。
デヴィッドは振り落とされまいと、しっかりしがみついたまま、飛鳥に声をかける。
「アスカちゃん、調子はどう?」
「大分マシだよ。もう、そんなにしんどくないよ」
飛鳥はそんな二人を見て、クスクスと笑う。
「しんどくない、って?」
「あ、方言だよ。関西の方の。『しんどい』っていう、辛い、とか、疲れを感じる、て意味の否定形」
不思議そうな顔をしているデヴィッドに、飛鳥はゆっくりと身体を起こして説明する。
「母が、奈良のひとだったから。奈良、判る?」
デヴィッドはこくんと頷いた。
「関西――。奈良も、京都も行きたいなぁ」
「いっしょに行く?」
「おい、飛鳥、むちゃ言うなよ! ほら、デヴィも放せよ」
吉野はいきなりデヴィッドの頬を摘まんでぐいっと引っ張った。
「痛~!」
デヴィッドはやっと離れて頬を擦っている。
「ひどいよ! 顔だけが取り柄なのに!」
「自分で言うな!」
「僕が寝ている間に、随分仲良くなったんだね」
飛鳥は、嬉しそうに目を細めて笑っている。
「ビルやアルとも仲良くなったよ」
吉野は立ち上がってクーラーのリモコンを手に取った。だが、温度設定を下げるのを止めて飛鳥を振り返ると、「起きる? 何か食べる?」と、訊いた。
「昨日のおはぎ、まだある?」
飛鳥はふと思い出したように訊ねる。
「飛鳥の分、冷凍してあるよ」
吉野が手を差し出すと、飛鳥はその手を掴んでよいしょ、と立ち上がった。一瞬、顔をしかめたがすぐ笑顔に戻って、心配そうに見ている吉野に、「結構、平気。先にシャワーを浴びて来るよ」と告げた。
「おはぎ、解凍しておくよ」
吉野はためらいがちに飛鳥を見ていたが、そのまま部屋を出て階段を降りて行く。その後をデヴィッドが続いた。
「ヨシノ~、僕のもある?」
「あるわけないだろ! 昨日幾つ食べたと思っているんだ?」
「え~。もう忘れたよ。僕のおやつは?」
「ない!」
部屋まで響いてくるそんな二人の会話はとても微笑ましい。それなのに、どこか現実とは遠く離れたどこかでのことのように、飛鳥の耳には聞こえていた。
ぼんやりと佇んでいた飛鳥はおもむろに窓を開け、古びた窓枠に身を凭せ掛けた。狭い庭を超えて、隣家の墓地に続く雑木林に視線を漂わせる。鮮やかな緑が起き抜けの瞳に眩しく、何度も目を瞬かせた。生ぬるい空気が冷気と対流するように入り込んで、また、じっとりと汗ばんでくる。蝉の声に全身を浸すように聞き入りながら、飛鳥は、両手で自分自身をぎゅっと抱きしめる。
「アスカちゃん、危ないよ」
開け放たれた襖に手を掛けて、デヴィッドがこちらを見ていた。
「デイヴ……」
飛鳥は空ろな目を雑木林からデヴィッドに移し、唇を震わせて独り言のように平坦に喋りだした。
「夢を見ていたんだ――。吉野が小さかった頃の夢。僕は本当に、ひどい奴なんだよ。母さんが危篤だって、工場に電話があったんだ。それなのにガン・エデン社の納期が迫っていて、あいつらが来ていて、父さんも、お祖父ちゃんも、仕事を抜けられなくて、その場にいた僕だけが病院に行ったんだ。僕は、完全に、吉野のことを、忘れていたんだ。すぐに迎えに行けば間に合ったのに……。僕だけが、母さんの最後に立ちあえて、母さんが亡くなって、やっと吉野のことを思い出したよ。真っ暗な玄関で、吉野はたった一人で蹲ってじっと僕の帰りを待っていた。あれから、吉野は僕のことを、兄ちゃんって呼ばなくなったよ。僕は、兄失格なんだ――」
目を伏せたままじっと黙って聞いていたデヴィッドは、「だから? それがどうしたっていうのさ? そんな話を僕にして、どうして欲しいの? どんな過去があったって、生きて行かなきゃいけないでしょ」と頭を上げ、くいっとあごを付き出した。
「Hold your head up high.(頭を高くあげろ)」
飛鳥は、大きく目を見開いて唇をわななかせた。デヴィッドは、飛鳥に歩み寄るとその頭をしっかりと掻き抱いた。
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