胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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二章

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 何枚もの設計図面を辺りに散らばしたまま座卓に突っ伏して眠っている飛鳥に声を掛けていいものか迷いながら、取りあえずウィリアムはその横に腰を下ろした。

「起こすなよ」
 背後から吉野の険を含んだ抑えた声が掛かる。
「おはよう」
 ウィリアムは立ち上がって台所へ入った。

「昨夜は遅くまで起きていたの?」
「静かにしろよ。さっき寝たところなんだから」
 ウィリアムを一瞥しただけで、吉野は相変わらずの仏頂面でテキパキと朝食の支度に取り掛かっている。

「これから家のことはマクレガーに教えて、彼に任せるように。彼に、きみが留学した後の切り盛りをして貰うことになるので」
 ウィリアムは入り口に佇んだまま腕組みして、静かな声で告げた。吉野は怪訝そうな顔をして振り返る。

「マクレガー? あの巻き毛の執事じゃないのか?」
「デヴィッド様だよ。今は彼のお世話も兼ねているが、マクレガーは杜月家の執事だ」
「はぁ? 誰がそんな事決めたんだ? 勝手な事するなよ!」
 吉野は怒りに任せてテーブルに拳を叩きつけた。

「きみは、きみがいなくなった後のことを考えたことがあるの?」
「親父は寝に帰って来るだけだろ!」

 吉野の怒鳴り声で目を覚ましてしまったのか、飛鳥が気怠そうに入ってきた。

「吉野、何?」
 椅子に腰かけ、ボーとしたままテーブルに頬杖をつく。
「マクレガーさんのこと?」

「コーヒー入れて」とまず頼んでから、「秘書見習いだって、父さんの。申し訳ないよね。執事の真似事からハウスキーパーまでやらされるって。これから公私共々お世話になるんだよ」と、半分夢心地のような軽い調子で飛鳥は説明を続けた。

「だから、なんでそんなのが必要なんだよ! 他人に家のことを任せる必要ないだろ?」
「僕の心配の種がひとつ減るだろ? ヘンリーはそういう奴なんだよ。不安の種は一つずつ確実に潰していく」
「どういうこと?」
 吉野は怒りを抑えながら、それでも湯を沸かし、コーヒーを淹れる。

「だからさ、僕が安心できるんだよ。お前の替わりに、誰か父さんの世話をしてくれる人がいるってことで」
「それならそれで、なんでわざわざ外国から呼ばなきゃならないんだよ? ハウスキーパーでもなんでも雇えばいいじゃないか!」
「『杜月』は、もう今までと同じじゃないんだよ。多国籍企業なんだ。それに見あった人材を育てていかなきゃいけない。僕らがイギリスに戻ったら、入れ替わりで、コズモスの社員をうちで預かって研修してもらうことになったんだ。マクレガーさんはその世話役も兼ねているんだ」

 なんだって、こいつらはひとの家にずかずか上がり込んでくるんだよ? 内側から食い荒らされていっているみたいで、気分が悪い……。なのになんで飛鳥は文句も言わずに、当然のことの様に受け入れるんだ?

 胸に渦巻くそんな想いをぶちまけたいという衝動に駆られながら、吉野は息を詰め、ぐっと堪えた。訊いても無駄なように思えたのだ。彼には何よりもまず、目前の兄が理解できなかったから。だからもうそれ以上何も言わずに、ウィリアムに向かって、「あんたも、コーヒー飲む?」とだけ訊ねた。

 そして暫くむっつりと考え込んだ後、「じゃ、もう俺は用無しでいいんだな」と、用意していた食材を片付け、鍋の火を止めた。

「吉野、朝ご飯は?」
 飛鳥はぼんやりした顔のまま手渡されたコーヒーを口に運び、弟を見上げる。
「そいつにイングリッシュ・ブレックファーストでも作ってもらえよ」
 吉野は顔をしかめて答えると、そのまま台所を後にした。飛鳥がその背中を追う様に声を掛ける。

「お前のだし巻きがいい」
「イギリスで作ってやる。俺は忙しいんだ」
「ああ、そうだった。続きをやろう」
 飛鳥はマグカップを片手に立ち上がった。ウィリアムをちらりと見やり、申し訳なさげに薄く微笑む。



「おはようございます。気にしないで好きに使って下さい」
 台所の入り口で、どうしたものか、と当惑したように佇んでいるマクレガーに笑いかけると、飛鳥は居間にいる吉野の横に座った。弟と同じく図面を選り分け始める。

「寝てろよ。その間に計算ぐらいやっとくから」
 吉野は何事も無かったように飛鳥を見ると、その手から図面を取り上げて淡々と言った。
「うん。出来たら起こして」
 飛鳥はにっこりして弟の膝に頭を載せごろりと横になる。そして目を瞑ると、当然のように寝入っていた。







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