胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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二章

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「制服は着崩さない」
 ウィリアムは吉野のネクタイを掴み、ぐいっと襟元まで引き上げる。
「飛鳥、俺が熱中症で死んだら、こいつを恨めよ」
 吉野は首を捻って、斜め後ろでコーヒーを飲んでいる兄に向かって嫌味を飛ばす。
「これくらいのことでは死にはしませんよ。ほら、シャツも入れて」
 心底嫌そうに、だが言われた通りに吉野はスラックスの内側にシャツを突っ込み直す。
「いってらっしゃい」
 飛鳥は苦笑いして、そんな弟を玄関先まで見送るために立ち上がった。



 玄関の引き戸を開けると、蝉の大合唱がうるさいばかりに耳についた。
 冷んやりと薄暗い玄関口とは対照的な、朝とはいえ夏らしい激しい日差しが目に眩しい。

「ちょっと待って」
 呼び止めると同時に、ウィリアムは吉野の背中にシューッとスプレーを吹きかけた。すっとしたミントの香りが辺りに広がる。
「おい、今、何かけたんだ?」
「これです」

 その手に握る『衣類用冷感スプレー』をウィリアムが誇らしげに見せると、吉野は訝し気に眉をしかめ、飛鳥は感心したような笑みを零した。

「こんなものがあるなんて知らなかったよ。涼しい、吉野?」
「知るか。行ってきます」
 吉野はぴしゃっと引き戸を後ろ手に閉めて家を出た。


「まったく……。毎朝、毎朝、慌ただしくてごめん。大会が終わるまでだからさ、もう少し我慢して、ウィル」
「楽しいですよ、僕は。ヨシノクンも打ち解けてきていますしね」


 仏頂面は相変わらずでも、ラテン語の勉強も、発音矯正も文句も言わずにきちんとやってくれているのだから。

 パブリックスクールの独特の空気を説明するのは難しい。こんな些細な理不尽に反発はしても、吉野は吉野なりにそれを理解し努力してくれている、と飛鳥は思うのだ。そしてウィリアムにしても、そんな吉野の幼さに納得づくで接してくれているのだ。





 台所に戻り、飲みかけのコーヒーを口に運ぶ浮かない顔の飛鳥に、ウィリアムは気遣うように優しく声をかけた。

「また何かありましたか?」

 飛鳥たちが日本に着いた時は、ガン・エデン社の納品遅延のことで揉めていた。今はその対策にコズモス社からジョン・スミス氏が訪日し、飛鳥の父も連日ホテルに泊まりこみで会議が行われている。

 いくらウィリアムがヘンリーの部下とはいえ、そんな会社の内情まで飛鳥が話すことはない。彼は会社の立て直しのためにここにいるのではない。吉野の護衛と教育のためにいてくれているのだ。目的を履き違えてはならない、とそんな想いがあったからだ。だがこの時、優しく、柔らかなヘンリーによく似た口調で問われ、飛鳥の心の扉は本人も意識できないまま緩んでいた。


「なかなか終わらないものだな、って思ってさ。自分たちは平気で、こっちの都合はお構いなしに受注量を増やしたり減らしたりするのに、こっちができないとなるとすぐ違約金を払えだもの。どう転んでも、お金をむしり取られるシステムなんだな、って思うと情けなくってさ。『杜月うち』が足元を見られた契約を結んだんだから、仕方がないんだけどね」
「差支えなければ、いきさつを教えていただけませんか?」

 ウィリアムの包み込むような優しい瞳をちらと見つめ返すと、飛鳥は目を伏せて静かに答えた。

「母さんの医療費にまとまったお金が必要だったんだ。仕事を切らす訳にはいかなかった。ガン・エデンとの契約金で、母さんに悔いのない治療を施してあげることができたんだ。……でも今になって、その名の通りのエデンの園ガン・エデンでの蛇との契約の報いを受けているんだよ。僕たちのかじった毒りんごは、知恵を得ることさえできずに楽園から丸裸で追い出される定めだった、ってことだよ」

 飛鳥は残りの冷めたコーヒーをひと息に飲み干して、淋しそうに笑った。

「それでも、時間を巻き戻せたとしても、父さんも、僕も、同じ選択をするんだろうな、って思うよ。……馬鹿だろ?」

 ウィリアムは、そっと飛鳥の髪に手を伸ばしくしゃりと撫でた。彼の主人がいつもそうしていたように。

「心配いりませんよ。じきに終わります」




 八月に入るよりも早く、経営再建中の『杜月特殊ガラス製作所』は、ガン・エデン社を秘密保持契約違反、特許権侵害、独占禁止法違反で提訴し、中国で製造された『杜月』の特許を侵害したディスプレイの販売差し止め及び損害賠償を請求した。

 グラスフィールド社の時は大して注目されなかったのに、今回のニュースは世界中を駆け巡った。

 世界のトップ企業ガン・エデン社の“秘密保持契約”は、業界でも有名だったのだ。強者の立場から圧力を掛けた一方的で悪辣な内容に、多くの部品メーカーが苦しめられてきた。その契約を逆手に取った提訴が、下請けの中小企業から起こされるなんて! 

 これは、世界中がことの成り行きを固唾を飲んで見守るに充分な衝撃だったのだ。







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