胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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「こんな会社なんて、潰れてしまえ」
 グラスフィールド社の産業スパイにコズモスの雛型が盗まれ、サラの祖父が殺されたことを知った時、ヘンリーは怒りをたぎらせてそう言った。

 グラスフィールドも、ガン・エデンも無くなればいい、と。



 だからサラは、種を蒔いた。
 何年も前から、この会社の決算書は不可解だった。数字が合わない。法律の盲点を突いた、手品のような会計処理が行われているに違いなかった。恐らく相当な額の損失が出ているはずに違いないと、彼女は確信していた。

 サラは、グラスフィールド社の会計士が参加しているSNSのコミュニティに、企業の損失を帳簿外に隠蔽する完璧な方法についての噂を流した。一見、完璧に見えるだけで、決してそうではない方法を。案の定、その会計士は、すぐに食らいついた。彼女の予想通り、通常の方法では誤魔化し切れない程、損失が膨らんでいたのだ。

 種は芽吹き、帳簿の上で人目から隠されただけで帳消しになった訳ではないその損失を、それまで以上の速さで膨らませていった。やっと、その毒々しい花を白日の下に咲かせたのに。あとはもう、枯れるのを待つだけなのに。


 これに続くガン・エデンを消滅させるためのプロジェクト――。
 ヘンリーは、本当に望んでいるの?

 ヘンリーが判らない。
 ちっとも、嬉しそうじゃない。
 ヘンリーが喜んでくれないと、どうしていいのか判らなくなる。
 ヘンリーの望みを叶えることだけが、ここにいることを許される理由なのに……。


 そんな言い様のない不安に駆られながら、サラはパソコンの前に座り、文字を打ち込んでいる。

『サラスバッティ、サラはどうすればいいの? どうすれば、ヘンリーは喜んでくれるの?』


 静寂に支配される室内に、キーボードを叩く、軽く、リズミカルな音だけが響いている。





「ヨシノ・トヅキが国際スカラーに合格されたそうです」
「すごいな。アスカの弟、六名の中に残れたのか。留学費用くらい、うちで持つのに……。全く、借りを作ることを嫌うな、一家そろって」

 ヘンリーは軽く眉を上げ、口調とは裏腹に嬉しそうに頷いた。


 ウイスタン校と対をなす名門パブリックスクールであるエリオット校で国際スカラー制度が今年度から取り入れられる。学費・寮費共に全額免除の奨学生が本国以外から募集され、若干名のみが選ばれる狭き門だ。今回初の試みとして六名のスカラーが決定した。オックスブリッジへの進学率の低下、Aレベル試験成績ランキングの低下等、スポーツ、芸術面では強いが、学力面では見劣りのするエリオットの名誉挽回のための試験的な新制度でもあった。


 飛鳥の六つ下の弟の杜月吉野は、兄の大学進学を見越して、去年の内にこの新設のスカラーシップに即、応募していた。

「トヅキ家の子弟は優秀ですね」
 ウィリアムは穏やかに微笑んでいる。
「全くだな。お前、夏の間にラテン語の基礎を教えてやるといいよ。アスカは泣きながらやっていたからね」
 ヘンリーも懐かしそう目を細める。ウィリアムも微笑みを絶やさず、「了解しました」、と頷く。そして、控えめな口調で言い添えた。

「アレン様も、キングズ・スカラーに合格されました」
「エリオットはスカラーまで、金で融通が効くようになったのかい?」

 アレンの話になった途端、ヘンリーは鬱陶しそうに眉根をひそめ、皮肉めいた口調になっている。

「優秀な成績を収められたそうです。特に、記述問題で」
「帝王学か。相変わらず、時代錯誤な問題を出しているのだろうな、あの学校エリオットは」
「国際スカラーは、キングズ・スカラーと同じカッレジ寮になり、同等の扱いになるそうです。ヨシノ・トヅキに何かご助言なさいますか?」
「いいよ、あの子のことは放っておいて。ここではソールスベリーを名乗るなと言ってある。関係ない」


 あなたには関係なくても、エリオットでは、そうは思わない方が多いでしょうに――。

 アレンの容貌はヘンリーを知る者に彼を思い出させ、彼にそれに見合うのステータスと重圧を与えるに違いない。

 それが判らない方ではないのに。

 ウィリアムは、ヘンリーと、フェイラー一族との確執の深さを想い顔を曇らせる。


「報告はそれだけ?」
「はい」
「それじゃ、頼んだよ。気をつけて行っておいで」
「ありがとうございます。それでは行ってまいります。ヘンリー様も余り無茶はなさらないようにお願い致します」

 ウィリアムの心配そうな、そして少しいましめるような口調に、ヘンリーは、「お前、マーカスに似てきたね」と、苦笑交じりに応じた。



 ウィリアムは、日本語学校の夏期講座に短期留学するという名目で、帰国する飛鳥と一緒に日本へたつ。留学中は杜月家に滞在することも決まっている。

 虫の息のグラスフィールド社に対してもう護衛は必要ない、とは判ってはいるものの、あの飛鳥を一人で送り出すのがヘンリーは何とも心もとない。彼が英国に戻ってくるまで、そして留学を控えた彼の弟の指導も兼ねて、ウィリアムに護衛を続行させることにした。



 空気のようだと思っていたのに、傍にいない、というだけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて――。それとも、空気だからだろうか。少しでも欠くと息苦しくなるのは――。


 そんな憂いに心を浸したヘンリーは、頬杖をついたまま、深く礼をして部屋を出るウィリアムを、幾ばくかの寂寥感を持って見送った。






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