胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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 学寮から徒歩十分ほど東にある広大な芝地は、この日の為に綺麗に調えられ、周囲に幾つもの大きなテントが張られていた。クリケット場には、すでに多くの保護者や卒業生、招待された友人たちがぞくぞくと集まっている。


「そういえば、エリオットもこの時期に似たようなイベントがあったね。動画サイトで見た覚えがある」
「六月の第一水曜日に行われる創立記念祭ですね。由来は各々ですが、学年末のこの時期、集大成の行事を行う学校は多いです」
「きみも、ヘンリーも、エリオットが懐かしくはないの?」
 急ぎ足でクリケット場に向かいながら、飛鳥はウィリアムを見上げて訊ねた。

「去年の今頃は、ボートの上に立ち上がって花の一杯飾ってある帽子を振っていただろう? 動画で見ただけでも、記憶に残るほど綺麗だった。あんな伝統行事を毎年繰り返してきたのに、最後の年にいないなんて」
「あの方の考えることは僕には解りかねます。僕は従うだけです。ですが、後悔なさる方ではありませんから」

 自分も含めて――。

 ウィリアムは暗にそう言っているのだ、と飛鳥は受け止めた。

「そうだね。彼はそんな人だね」


 ……でも、きみもヘンリーも、未だにエリオットのアクセントでしゃべっている。エドワードも、デヴィッドも。
 転入してきたばかりの頃と変わらず、未だに彼らは在校生ウイスティアンからエリオティアン、って呼ばれている。
 英国ここでは、イギリス人か、スコットランド人か、て出身地以上に、どの学校出身かが、その人を判断する基準みたいに思える。
 一体、何が違うんだろう?

 疑問には思うものの、口には出せないもどかしさから、飛鳥はそっと横を歩く後輩の、涼し気な横顔を盗み見る。自分よりも年下の彼は、この年齢でここの生徒であると同時に、ヘンリーの使用人でもあるのだ。それは彼の職業、といっていいものなのか――。飛鳥の中で、疑問はつのるばかりだ。



「着いたよ、ありがとう。早く行って。後で応援に行くよ」
「余り無理はなさらないように。こまめに水分を取って下さい」
 ウィリアムは、まだ心配そうな瞳で飛鳥を見つめている。
「もう大丈夫だよ。ありがとう」

 安心させようと微笑んで見上げた彼の背後に、ちらりとヘンリーの姿が見えた途端、飛鳥は笑みを消し、怪訝そうに眉根を寄せた。緊張に強張る飛鳥の表情に、ウィリアムも訝し気に振り返り、その視線を追う。
 

 多くの着飾った来賓や保護者の間で、中年の上品な、だが押出しの強い紳士が、身を屈めてヘンリーの手の甲に接吻している。いつかのロレンツォみたいに膝をつく訳ではないけれど、それでも、まるで君主にでもするようなその仕草は崇高で厳粛な空気に包まれていて、そこだけがぽっかりと切り取られた別世界のように、飛鳥には見えたのだった。

「ルベリー二公です」
 ウィリアムは事も無げに告げた。
「ロレンツォのお父さん?」


「アスカ!」
 と、二人を見つけたヘンリーがこちらに向かって手を上げた。

 ウィリアムはヘンリーに一礼して、飛鳥に会釈するとその場を外した。



「彼は、アスカ・トヅキ、僕たちと同じカレッジ・スカラーです」
 ヘンリーに紹介され、ルベリーニ公は興味深そうにしげしげと飛鳥を見つめ、いかにも愛想の良い笑みを湛えてその大ぶりな手を差し出した。
 ぎこちなく飛鳥はその手を握り返す。ルベリーニ公はそのまま飛鳥を親し気に抱きしめ、その背をバンバンと叩く。

「きみの話はいろいろ聞いている。息子が世話になっているそうじゃないか。ありがとう。これからも、親しくしてやってくれ」
「こちらこそ……」
 咳き込みそうになりながら飛鳥が応えると、「アスカ、まだ顔色が悪いようだね。彼は今日は体調が優れないのでこれで失礼します。お忙しいところをありがとうございました」と、ヘンリーが半ば強引に話を切り上げた。

「いつでも家に遊びに来てくれ。きみ達なら大歓迎だよ」
 ルベリーニ公は満面の笑みで、大きく腕を広げている。



「いかにもイタリアの親父さんって感じだね。あの脂ぎった顔でキスされるかと思ったら、申し訳ないけど、ちょっと怖かったよ」
 飛鳥が声を潜めて内緒話をするように囁くと、ヘンリーは長い指で口を覆い、くっくと肩で笑った。
「だから、そうなる前に助けただろう?」

 だがすぐに調子を改め真顔に戻ると、彼は飛鳥にフィールドに向いて並べられたパイプ椅子に座っておくように勧め、「調子は? 昼食は食べられそう?」と、気遣うような視線を向けた。
「大丈夫。かなり良くなったよ」

 嘘ではなさそうだ、と、部屋で別れた時よりもずっと覇気のある飛鳥の瞳に安堵してヘンリーは頷いた。次いで、ポケットからチケットを二枚取り出して飛鳥の手に握らせる。

「昼食券。きみとお父さまで使って」
「え?」
「ひどいと思わないかい? クリケットの試合を観戦しながらの昼食会なんて。お陰で僕は見世物だ。一緒の食事は不可能になった」
 ヘンリーは眉を上げてつまらなそうに肩をすくめている。
 と、ジャケットのポケット内で携帯が震えた。確かめることもせず、すぐさま背後を振り返ると、「きみのお父さまがみえられたよ」、とヘンリーは飛鳥の肩にその手をかけた。


 飛鳥が立ち上がって振り返ると、父と紺のスーツを着た男性がこちらに向かって来ていた。
 懐かしさで、胸一杯に熱いものが込み上げていた。泣きださないように、飛鳥は奥歯を噛み締める。
 父も息子に気づいたらしく、その顔をほころばせている。だがすぐさま視線をずらすと、唇を引き結んで、息子にではなく、その横にいるヘンリーの前に立ち深々と頭を下げた。

 ヘンリーは、そのまま固まってしまったように動かなくなった彼の腕を取って、「頭を上げて下さい」と、優しく呼びかける。

 杜月氏は、ゆっくりと頭を持ち上げると、押し殺したような声で、「ありがとうございます」と、また頭を下げている。

 ヘンリーは、背後に立つスーツの男、ジョン・スミスに視線を移すと、厳しい口調で言い放った。

「スミス、僕はまだ詳しい報告を受けていないよ」



 スミス氏の話は、特殊な法律用語が多すぎて、飛鳥にはよく理解できなかった。だが、ヘンリーは一通り聞くと、「ありがとう。よくやった」と、誇らしそうにスミス氏の手を握っている。

「アスカ、きみの心配は杞憂だったようだよ。お父さんに日本語で説明していただくといい」

 ヘンリーは飛鳥の父に椅子を勧めると、「ゆっくりしていらして下さい。昼食はご一緒できませんが、あなた方が楽しめるよう、活躍してきますから」と、にこやかに杜月氏と握手を交わすと、もうクリケット場に向かって走っていた。飛鳥は狐につままれた気分のまま、その背中を見送るしかない。


「元気だったか?」

 久しぶりに聞く日本語、父の声に、飛鳥の全身に安心感が広がっていく。まだ一年もたっていないのに、父は随分と老け込んだように見える。白髪が増え、額には深い皺が刻まれている。けれど杜月氏は、ここまでの厳しい表情を緩め、やっと、ほっとしたように穏やかに微笑んでいた。

「はい」
 飛鳥はぎこちなく頷いた。
「学校は楽しいか?」
「とっても」
「友達はできたか?」
「たくさん」

 久しぶりの会話になぜか緊張して、自然な言葉が出てこなかった。そんな飛鳥の様子を杜月氏は気にした様子もなく、「そのお陰で『杜月』は救われた」と、ぽつりぽつりと事と次第を話し始めた。


 グラスフィールド社との裁判は、当初から『杜月』の方が優位に進み、勝訴は確実だと思われていた。ところが、一カ月ほど前に露呈した粉飾会計から、一気に相手方は裁判どころではなくなってきた。今はまさに、倒産するかどうかの話になっている。慌てたのは『杜月』の銀行メインバンクだ。控訴相手に倒産されたのでは高額の賠償金も取れなくなるからだ。だから約束を破って融資を打ち切り、持ち株をガン・エデン社に売った。親戚連中に散らばった株を合わせて18%分握られた。ガン・エデン社に『杜月』を売り渡そうとしたのだ。

 あんなやつらにいいように使われるくらいなら、潰れた方がマシだ。そうじゃないか、飛鳥?

 杜月氏は一息つくと、飛鳥の顔をじっと見つめた。
 ほとんど利益にならないガン・エデン社との契約の実態を思い返し、「馬車馬のように働かされて、使い捨てられるだけだね。きっと」と、飛鳥は苦々しい思いで頷く。


 そこに助け船をだしてくれたのが、グラスフィールド社との裁判を請け負ってくれていた弁護士と、コズモス社のジョン・スミスで、民事再生法を申請して100%減資し、ガン・エデン社を駆逐して、『杜月』の株式をコズモス社が引き受けたい、と提案してくれたのだ。

「つまり、コズモス社に『杜月』が買収されるってこと?」

 飛鳥は、ぞろりとした不快感が全身に広がってくるのを感じていた。また吐き気が込み上げてくる。

「出資分の株式でお前の特許を買いたいそうだ。お前の『三次元空中映像表示装置』の特許をな。彼と共同開発するんだって?」

 飛鳥は、目を見開いて父の顔を凝視する。何か言わなければ、と口を開こうとしたが、わずかに震えるばかりで声にならない。


 フィールドではクリケットのOB対抗戦が始まっている。初夏の抜けるような青空に歓声と拍手が響き渡る。


「父さんは、それでいいの?」

 やっと、それだけ言えた。今度は、胸が一杯で苦しかった。

「ガン・エデン社には散々苦しめられた。会社の皆にも辛い思いをさせた……。彼はお前の友達なんだろう?」

 飛鳥は黙って頷く。

「なら、父さんもお前が信じた男を信じるよ」
「僕は、あの特許、ヘンリーに、この制服と交換で売ったんだよ」

 とつとつと絞り出された飛鳥の呟きに、杜月氏顎を引いて息子の制服を上から下までまじまじと眺め、「随分と高価な制服なんだな」と、控えめに身を揺すって、笑った。



 

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