胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
49 / 751
一章

しおりを挟む
 時計の針が午後九時を差した。
 パソコンから目を離し、ほっと息を継ぐ。

「そろそろ落ち着きそうだな」
 ロレンツォは、取引時間を終え動かなくなったパソコン上のNYダウ指数チャートにちらりと目をやり、疲れきって肩で息をした。
「マーレイは、十一月からもう20%以上下落している。まだ、やるのか?」
「序の口だ」
 ヘンリーは、煙草を銜えたままソファーにもたれ、面倒くさそうに答える。

「いつまで?」
「マーレイ銀行が破綻するまで」
「いくら俺でもそこまでは面倒みきれないぞ」
 ロレンツォは真剣な、だが戸惑いを隠せない懐疑的な表情でヘンリーをじっと見つめている。
「きみは意外に堅実だな。賭け事好きのアーネストは、マーレイ銀行のCDSを買いまくっているっていうのに」
 ヘンリーは、ロレンツォを揶揄するように口の端を上げて嗤う。
「それにきみ、誤解しているよ。別に、僕やきみがマーレイを潰す訳じゃない。マーレイがその種を自ら仕込み、僕たちは、花が咲くのを待っているだけ。自然の摂理だ」
 


 去年の夏、突然顕在化したアメリカ発の金融危機は、英国や欧州の金融機関に少なからぬダメージを与えた。半年たち、やっと落ち着きを見せてきたとはいえ、世間は漠然とした不安に包まれたままだ。
 金融に深く係るルベリーニの一族も、当然、無傷とは言えず、早々に世界中の投資先から資金を引き揚げ様子見に徹している。

 ヘンリーは、ガイ・フォークスの行事の後、マーレイ銀行株に空売りを仕掛けた。その時、株価は23%下落した。
 ロレンツォには、嫌がらせに対する私怨としか思えない執拗な売り仕掛けも、マーレイ銀行の抱える膨大な不良債権と脆弱な財務体質ゆえだと言われると返す言葉もない。
 石塀に囲まれ、世間から隔絶した寮生活を送っていると、世の中の動きを肌で感じる感覚が鈍ってくる。
 ヘンリーの行動が憎しみに起因するのか、それとも世界の流れに沿ったビジネスなのか、ロレンツォには判断がつかない。
 どちらにしても、ヘンリーのすることには容赦がないことに変わりはない。


 これ以上は、俺の一存では無理だ。

 その一言を口にすればきっと、役立たずとか、能無しとか、ありとあらゆる罵詈雑言にも勝る冷涼な瞳の一瞥を喰らうのだろう。

 ロレンツォは自分の想像に苦笑しながら、全身を満たす高揚感に身震いする。

 悪魔に魅入られた気分だった。



「きっかけが欲しい。長期戦になると古参を押さえきれなくなる」
「なら、夏だな。入るのは夏からでいい」
 ヘンリーは煙草を揉み消すと、そのまま気怠そうに深くソファーに凭れ掛かった。

「そういえば、一人部屋に空きが出たんだったな。そっちに移ろうかな。アスカと一緒じゃ自由に喫えない」
「なんでお前のところだけ二人部屋なんだ? 最終学年なのに」
「編入同士だからだよ。加えて、お目付け役」
「どっちが?」
「僕に決まっているだろう」
 馬鹿なことを言うな、とばかりにまた冷たい視線に晒される。

「ああ、そうか」
 保護者からアジア人留学生の余りの多さに苦情が出て、去年からアジア地区からの留学生の募集を制限しているのだった。要はいじめ対策か。


「なら、俺が替わってやろうか?」
 ロレンツォは、まんざらでもなさそうな顔をして言った。
 ヘンリーは露骨に嫌そうな視線を向ける。
「アスカは放っておいたら、食べない、寝ないですぐ倒れるぞ。ガイ・フォークスの時だって……」
 ロレンツォは言いかけて瞳を泳がせ、口を噤んだ。

「何だって?」
 ヘンリーに険のある瞳で睨まれ、口ごもりながら、「青い顔してふらっと、まぁ、二、三回は……。その、倒れると言うよりは、いきなり死んだように寝ていた」と、肩をひょいっとすくめる。別にそれは自分の責任の範疇という訳でもないのだが。

「ああ、あれは驚くな。睡眠不足が続くと立ったままでも寝ているよ。なかなか目を覚まさないし。初めは病気じゃないかと思ったくらいだ」
 思い出したようにクスクス笑うヘンリーに、ロレンツォもほっとしたように苦笑を漏らす。

「しばらくは煙草は我慢するよ。きみの言う通りだ。コンクールが済むまではアスカを放っておけない」
「お前、意外に世話焼きだな」
「そう見えるかい?」

 先ほどまでとは打って変わって表情を和らげたヘンリーを、ロレンツォは鼻で笑った。

「大事な投資先だものな」






しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

処理中です...