胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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 『きみがフェイラーだって知っていたら、特許の話はしなかった』

 ヘンリーは自室のベッドの上に足を伸ばして座り、唇を噛んでもう一度飛鳥の言葉を思い返していた。膝の上に置いたノートパソコンで、記憶に引っかかる言葉を次々と検索していく。
 飛鳥はこのところ図書室で勉強している。消灯前の点呼までこの部屋には戻ってこない。それでも、彼に見られては困る書類をこの場で開くのは気持ち的にはばかられた。
 

『ベンジャミン・フェイラー大量保有株式一覧』
『マーレイ銀行大量保有株式一覧』

 杜月飛鳥、保有特許。『三次元空中映像表示装置』『レーザー媒質用石英ガラス、およびその製造方法』『光導波型ガラスレーザー増幅器、およびその製造方法』

 三つの特許のうち、一つしか飛鳥は言わなかった。蛍の映像を見せ、これが彼の持つ特許だと言った。

『きみだって、特許の内容を知らずに言っているじゃないか!』

 あの時、カマを掛けられて、誘導されたのだとしたら……? 
 僕はあの時、何て言った?

 特許の使用権の許可を思いつきで口にして、飛鳥はすぐにOKした。
 その後、確か、そんな大事なことに即答するな、と詰ったはずだ。
 その特許の内容は空中映像のことだと、思い込まされたとしたら……。現に、それ以外の特許については調べようともしなかったのだ。

 本当に守りたいのは、これではなかったのだとしたら……?

 いやそれ以前に、一番初めに特許の話を聞いたのは、エドワードからだった。

 なぜ、彼がこのことを知っていたんだ? 特許なんかに興味を持つ奴じゃないのに……。


 ヘンリーは、残り二つの特許内容に目を通した。だが、医療用レーザーに使用する特殊ガラス製法は、特にガン・エデン社や、祖父、マーレイに繋がるものとは思えない。それに、エドワード……。

 レーザーガラス、ガラス、レーザー……。
 そうか! 解った!

『杜月』、フェイラー、ガン・エデン社、マーレイ銀行が一つの線で繋がった。それに、エドも。

 ヘンリーは、悲痛な面持ちで眉を寄せて、瞼を閉じた。湧き上がってくる怒りをなんとか押しとどめようと、奥歯をぎゅっと噛み締めていた。

 こんなことが許されていいはずがない。

 飛鳥、僕を信じろ。
 僕を頼ってくれ。

 祈るような想いで呟いていた。




 Aレベルの試験期間中は、何事もなく平和に過ぎて行った。
 二月も半ばに近づき、もうじきハーフタームに入る。冬期Aレベル試験を終え、校内の緊張も緩やかに溶けてきていた。


「杜月先輩、試験はいかがでしたか?」
 授業を終え、艶やかに磨かれたオーク材の階段の先を行く杜月飛鳥の背中に、ウィリアム・マーカスは終わったばかりの試験のことを訊ねかけた。
「うん。思ったより簡単だった。きみは?」
「ええ、なんとか」
 振り向いた飛鳥に、ウィリアムは上品な笑顔で応じる。飛鳥は少し驚いたように目を見開いた。

「前から思っていたんだけれど、きみ、ヘンリーに似ているね。笑い方とか、ちょっとした仕草とか。時々、錯覚するよ」
 困ったように飛鳥は首を傾げ、苦笑う。
「え……、そんなことを言われたのは初めてです」
「そう? じゃあ、僕だけなのかなぁ。もしかして、またヘンリーに怒られる! と思ってびくびくしているからかなぁ……」
「怒る? ソールスベリー先輩が?」
 飛鳥は頷いて、訝し気な後輩に、眉を上げお道化て続けた。
「ネクタイの結び方が汚いとか、髪がぐしゃぐしゃだとか、爪が汚いとか。きみもだよ。ヘンリーみたいに煩く言わないけれど、さりげなく直すだろ? 気付いていた?」
 ウィリアムは納得したようにクスクス笑い、飛鳥に優しい眼差しを返した。
「ここはやはり、ソールスベリー先輩を見習って、僕も口うるさくなるべきかな?」
「勘弁してよ。弟が何人もいるみたい、」

 最後まで言い終わらない内に、飛鳥の身体は階段から離れ、真っ逆さまに飛んでいた。咄嗟にウィリアムは段を蹴って腕を伸ばす。宙を舞い広がる漆黒のローブを掴むと巻き込むようにして引き寄せ、その長い指で飛鳥の頭を庇いしっかりと抱き締めて、階段を転がり落ちていく。その指越しに感じた衝撃と視界を覆うローブのせいか、飛鳥の意識は急速に遠ざかっていた。




 聞き慣れた声がする。柔らかい、響きの良い優しい声。
「申し訳ありません。油断しました」

 ウィリアム?

「充分だよ。アスカも、きみも無事で良かった」

 ああ、やっぱりヘンリーの声だ……。

「トヅキ先輩は?」
「軽い打撲と脳震盪で、二週間は安静だそうだ」
「申し訳ありません」

 どうしてウィリアムが謝っているの?

 飛鳥はこじ開けるように瞼を持ち上げると、声の方へ顔を向けた。なぜだか異様に瞼が重い。
「アスカ、気が付いたかい?」
 ヘンリーがほっとしたように微笑んでいる。そっと飛鳥の髪に手を添える。だが直ぐに拳を握り込み「先生を呼んで来る」と、彼は席を立った。


 飛鳥は、ぼんやりと彼のいた椅子の向こう側、隣のベッドに横たわるウィリアムに目をやった。腕には包帯が巻かれ、綺麗な顔にもガーゼが幾つも張られている。
「ごめん。ウィリアム。僕のせいで……」
 ウィリアムは、いつもの柔らかい笑顔で首を横に振った。
「僕は、ここにいるだけでみんなに迷惑をかけているみたいだ」
 飛鳥は今にも泣きだしそうな顔で声を震わせている。
「それは違います。先輩が僕に取って大切な存在だから、思わず手が伸びて捉まえていただけです。どうせなら褒めて下さい」
「あり、が、と、う」
 声が詰まって、上手く言葉にならなかった。


 ヘンリーが校医を連れて戻ってきた。飛鳥は通り一遍の質問をされ、おそらく問題ないだろうと言われた。だが頭を打っているので、六時間以内は異変が出る可能性があるから、と今夜一晩は医療棟に泊まり、翌朝寮に戻ることとなった。


 

 その夜。ロレンツォは消灯後のノックの音に、訝しみながらドアを開けた。
「ルベリーニの名も地に落ちたな。守るという意味が判らないらしい。アスカに怪我をさせて、そんな不手際を僕が許すとでも思っているのかい?」
 わざわざ部屋までやって来て、ヘンリーは冷ややかな口調でそんな嫌味を言い捨てた。そして、一言の弁解も聞かずに踵を返した。


「くそっ!」
 ドアを閉めるなり、ロレンツォは本棚にあった本を片っ端から床に投げつけていく。
 肩で息をして歯ぎしりし、大きく深呼吸する。かと思うと、大きな手を広げて顔を覆い、今度はくっくっと笑い出す。

「俺のマスターは容赦ない」

 ルベリーニが、ルベリーニである所以ゆえんを見せてやる!

 理性はそう叫んでいるのに、地に堕とされた自負心は、焼け焦げ爛れてロレンツォを苛んでいた。







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