胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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「ヘンリー、ツリーまで競争しよう」
 ライトアップされたスケートリンクで、飛鳥は快活に呼び掛けると、進行方向の最端に設置された大きなクリスマス・ツリーを目指して、あっという間に駆け出した。
 広場に特設されたスケートリンクは、横幅はそんなに広くはないが縦に細長く、かなりの距離を滑ることができる。 

 久しぶりだ、こんなの。

 すれ違う人をぶつからないようによけながら周囲に目を配る。電飾に飾られた街路樹や、立ち並ぶストール。滑っている人よりも見物客の方が多い。


「アスカ、よそ見していると置いていくよ」
 リード出来ていると思っていたのに、前方でヘンリーが笑いながら手を振っている。飛鳥は慌ててスピードを上げて追いかける。
 もう少しで追いつける、とピッチをあげた途端、後ろから思い切り誰かがぶつかってきた。

「ヘンリー、よけて!」

 押し出されるように体勢を崩した飛鳥は、ヘンリーにぶつかり支えられて、かろうじて氷上に激突せずにすんだ。

「ごめん、助かった。スケートなら勝てるかと思ったのに。やっぱり、きみには敵わないな」
 飛鳥が息を弾ませながら言うと、「いい勝負だったよ」と、ヘンリーは微笑で応える。
「お祖父ちゃんがスケートが好きで、子どもの頃よく連れられて滑りに行っていたんだ。もう一回、勝負しよう。次は負けないよ」

 飛鳥は息を調えながら、今来たばかりの方向を指さした。





 制限時間の一時間いっぱい滑った後、二人はスケートリンクに併設されたカフェに座り、温かいミルクティーを頼んだ。

「そういえば、きみを待っていた間にロレンツォに会ったよ。すごく喜んでいた。これで彼とも友達だね」
「友達? 彼と僕は友達じゃないよ」
「え?」
 飛鳥は、訝し気な瞳をヘンリーに向ける。

「きみは友達に跪いたりしないだろう? 彼は僕に花を渡し、僕は受け取った。これは契約だよ」
 ヘンリーは感情の読み取れない平坦な口調で、淡々と続けた。
「それに彼は、僕と友達になりたいとは思っていなかったようだよ。僕はどちらでもよかったのに。彼は僕に忠誠を誓った。僕はその見返りに応じなければならない。きみには解り難いかもしれないけれど、欧州は、キリスト教社会は、契約社会だからね」

「契約社会? どこが? 強者が弱者を支配する階級社会だろ?」
 飛鳥は肩をすくめ、あざ笑うかのように唇を歪めた。
「力ずくで簡単に破棄できる契約が、契約って言えるの? 契約書を交わした後から、受注を盾にした値下げ要求、特許侵害、不当なリベートの要求、なんだってやるじゃないか。日本の国家予算規模の大企業が、たかだか数千万円の正当な報酬の支払いを惜しんで、技術を盗んでいく。植民地支配そのものじゃないか」

 契約という単語に過敏に反応し怒りをぶつけてくる飛鳥に、ヘンリーは驚いて目を見張った。

「どうしたんだ? アスカ」
「きみの妹、キャロライン・フェイラー=ソールスベリー、前に雑誌で見たことあるよ。お母さんと御祖父さんと、一緒に写っていた。……きみの御祖父さん、ベンジャミン・フェイラーは、ガン・エデン社の大株主だって知っていた?」

 ヘンリーは首を横に振る。飛鳥の唐突な質問の意味を量りかねて眉をひそめる。

「知らない。そうだとしても、数ある投資先のひとつにすぎないよ」
「ガン・エデン社がうちの主要な取引先になってから、うちは三回倒産寸前まで追い込まれているんだ。2回は、特許を安くで買い叩かれて、それでも、なんとか持ちこたえた。3回目は……。3回目は、祖父が首を吊って保険金で借金を支払った。社員二十名たらずの小さな会社でも、祖父にとっても、僕にとっても家族と同じなんだ。家族を守るためなら、何だってする」

 ヘンリーは話の途中から、痛ましいものでも目にしたかのように眉根を寄せ、唇を引き結び、やがてその長い美しい睫毛を伏せていた。
 飛鳥は唇を噛み締めてじっと彼の反応を見つめていたが、やがて沈黙を破り、何もかも吐き出すように言葉を継いだ。


「それでも、あいつらの下請けを止めることができないんだ。騙されて、生産ラインを拡大した直後に受注量を半分以下に落とされた。膨大な借金だけが残ったよ。ヘンリー、僕みたいな子どもが特許を取っていることを、変に思わなかったの? これだって、あいつらに、根こそぎ奪われないようにするためだよ。今はまだ、実用化が見えないから、狙われることもないけれどね。でも最初にきみがフェイラーだって知っていたら、特許の話はしなかったよ。ヘンリー・ベンジャミン・フェイラー=ソールスベリー」

 飛鳥にフルネームで呼ばれ、ぱっと見開いたヘンリーの瞳に、誤魔化しようのない嫌悪がたぎる。

「僕は、ソールスベリーだ。フェイラーの一族とは違う。アメリカ式の、そんな汚いやり方はしない。家名にかけて誓ってもいい」
「きみはいい奴だよ。ちゃんと解っている。でも、怖いんだ、きみを見ていると」

 飛鳥は、両手で顔を覆い隠すようにしてテーブルに肘をついた。

「きみは、支配階級だもの。ロレンツォがきみの手に接吻キスした時、きみは、アーサー王そのものの顔をしていた。常に高みにいて、搾取する側の人間だ」
「僕を決めつけるな、アスカ」

 ヘンリーは両手を伸ばし、顔を覆う飛鳥の両手を引き剥がすように握りしめる。

「僕は彼らとは違う。信じてくれ。どうすればいい? どうすれば、信じてくれる?」
 飛鳥は悲しそうに頭を振った。
「僕にも、判らないよ」
「きみは僕の友人だろう? きみは僕に跪いたりしない。僕を支配しようとしない。僕に媚びることも、要求することも、何か頼むことすらしない。きみと僕は、いつだって対等だっただろう? 僕の、友人でいてくれないかい? アスカ、それとも僕がフェイラーの血縁だから、もう友人ではいられないのかい?」


 いつもそうだ。自分では何もできないから、目の前にいる彼にぶつけているんだ。

 ヘンリーの真剣な、それでいて哀しそうな瞳に見つめられ、飛鳥は自分の言葉を後悔せずにはいられなかった。

 
「ごめん、ヘンリー。本当はきみには関係ないことなのに。ただの八つ当たりだよ。きみは僕の大切な友人だよ」

 飛鳥は泣きそうな顔で笑っていた。





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