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一章
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「さすがに、あそこまでは想像していなかったぞ」
「僕だってそうだよ。試しに、言い伝え通りにしただけさ」
学舎から大聖堂に抜ける小道を、ヘンリーと難しい顔をしたエドワードが歩いていた。
「もし、ルベリーニが接吻(キス)を拒んだら、どうする気だった? エリオットでの笑い話の接吻とは意味が違う」
「別に。普通に握手して、それだけだ。むしろその方が気楽で良かったよ」
「よく言う。世界が見ている前でルベリーニを跪かせておいて」
「意味を知っている奴なんてわずかじゃないか」
ヘンリーは眉根をしかめて、どうでもいい、といった視線をエドワードに向けた。
そのわずかが、重要なんだろ……。
こいつは、本当に判らない……。一貫性がなさすぎる。
普段は組織に属することや、権力の中枢に入ることを極端に嫌がるくせに、今みたいに、至上の権力者の振る舞いを当前のようにする。矛盾だらけなのに、後からみるとそれがベストの選択に見えるから始末が悪い。理念よりも現実に即する英国人らしいと言えなくもないが、こいつの描く最終的なゴールが見えず、結局いつも振り回させている。
エドワードは口をへの字に結んだまま、思案気に前方を睨んでいた。ヘンリーの気まぐれにさえ見える行動が、吉と出るか凶とでるか、彼にもまだ判断がつかなかったのだ。
中世から続くルベリーニ一族には、嘘か本当か定かではない伝説があった。
ルベリーニの当主が跪くのは、その生涯で二度だけ。
一度目は、生涯の伴侶に求婚する時。
二度目は、至上の王に生涯の忠誠を誓うと決めた時。
その誓いの証として、相手の手の甲に接吻する。
いわゆる『ルベリーニの接吻』は、ルベリーニ族に仕えるに値する王と認められた証だ。
この伝説の真実を推し量るには、彼らは余りにも若く無邪気だったとも言える。
「おおげさだな、時代錯誤だよ。中世じゃあるまいし。今の時代のルベリーニは単なる金融屋だよ。単純に投資家として、投資対象に僕を選んだ。それだけだ。でもこれで、アスカの心配もなくなるよ。アスカは僕の投資先だからね」
ヘンリーは、晴れ晴れとした笑顔をエドワードに向けている。
素直じゃないな……。飛鳥が心配だから守ってくれ、そうロレンツォに一言頼めば、奴は喜んで助けてくれるだろうに。
確かにヘンリーの言う通り、ルベリーニ一族は決して自らが時の権力者になろうとはしない。その時々の権力者に金を貸し付け、影から政治を操り何百年もの間生き延びてきた。
だからこそ、ルベリーニに選ばれることには意味がある。
本当にわかっているのか?
エドワードは訝し気にヘンリーの横顔を眺めたが、その表情からは何も読み取れなかった。いつもの通りヘンリーは飄々として、先ほどまでの威圧的な空気は欠片も残っていない。
「キャルは、クリスマス休暇中ロンドンにいるそうだ」
「母親に似て、我儘で図々しい」
ヘンリーは、不愉快そうに呟いた。
「見た目だけじゃなく、そんなところもお前にそっくりだけどな」
「誰が誰に似ているって?」
ヘンリーの冷たい視線に、エドワードは苦笑を浮かべて首を横に振る。
「何でもない」
「じゃ、僕はもう行くよ。アスカを待たせているんだ」
エドワードと別れ、大聖堂の横に併設されたカフェまで来ると、ヘンリーは片手をあげ、所狭しと並べられたオープンテラスのテーブルの間をすり抜けるようにして進んで行った。
「お待たせ。寒くなかったかい?」
声のする方向に、飛鳥は少し蒼褪めた顔を向けた。寒さで唇が震え、すぐには声が出なかった。すいっと伸びてきたしなやかな指が、その額からくしゃりと髪を掻き上げた。
「出ようか」
大聖堂の裏手には、壁に沿って幾つものストールと呼ばれる木組みの小屋が立ち並んでいた。夜の帳の中、一つ一つが暖かな柔らかいライトで照らされ、土産物やクリスマスプレゼントを探す買い物客で賑わっている。
ストールを物珍しそうに眺めている飛鳥に、「乾杯しよう」とヘンリーは紙コップに入った温かな飲み物を手渡した。
「コンサートの成功おめでとう」
紙コップを軽く打ち合わせると、飛鳥はかじかんだ手を温めるようにカップを両手で持ち直してゴクリと飲む。と、とたんに顔をしかめて、怒ったようにヘンリーを睨んだ。
「これ、お酒?」
「モルドワイン。温まるよ」
「よく制服で買えたね」
英国では十六歳から飲酒が認められているが、購入できるのは十八歳からのはずだ。
「クリスマスの飲み物だからね」
モルドワインは、温めた赤ワインにオレンジなどの柑橘類を入れ、シナモン、クローブ、ナツメグのスパイスを効かせて、砂糖や蜂蜜で甘く味付けてある、身体を温める冬の定番の飲み物だ。
「駄目だよ。きみは有名人なんだから」
ストールの並びから少し離れた横道にいても、通り過ぎる人たちが時々ヘンリーを振り返って見ている。
「きみがいてくれるから、今日は声をかけてくる奴がいない。ありがとう」
飛鳥は、お礼を言われて困ったように笑った。
これを買ってきてくれたのも、僕のためなのに……。
ヘンリーが最近頻繁に頭を撫でるのは、子ども扱いしている訳ではなくて、飛鳥がまた熱を出していないか、身体を冷やしていないか確かめるためだ。
彼は飛鳥を水浸しにした後、ろくに着替えもせずに上映会に連れて行ったことをずっと後悔している。あの時は時間が無かったし、仕方がなかったのだと飛鳥も納得している。それに、彼にしても飛鳥と変わらないくらいずぶ濡れだったのに自分だけ寝込んだのは、単に飛鳥が軟弱だからだ。
気を使い過ぎなんだ、ヘンリーは。
こんなふうに気づかってくれる必要はないのだ、と口に出して言えればいいのだが、そうすることが、この彼の好意を拒否しているようにも思えて、飛鳥はもどかしい思いを抱えたまま、手の中のモルドワインの温もりに甘え、居た堪れなさをその芳醇な香りとともに飲み下す。
「さぁ、これからどうする? マーケットを見て廻る? それとも、アイススケートをするかい?」
当のヘンリーは、石壁にもたれてモルドワインを飲みながら、優雅に微笑んでいた。
「僕だってそうだよ。試しに、言い伝え通りにしただけさ」
学舎から大聖堂に抜ける小道を、ヘンリーと難しい顔をしたエドワードが歩いていた。
「もし、ルベリーニが接吻(キス)を拒んだら、どうする気だった? エリオットでの笑い話の接吻とは意味が違う」
「別に。普通に握手して、それだけだ。むしろその方が気楽で良かったよ」
「よく言う。世界が見ている前でルベリーニを跪かせておいて」
「意味を知っている奴なんてわずかじゃないか」
ヘンリーは眉根をしかめて、どうでもいい、といった視線をエドワードに向けた。
そのわずかが、重要なんだろ……。
こいつは、本当に判らない……。一貫性がなさすぎる。
普段は組織に属することや、権力の中枢に入ることを極端に嫌がるくせに、今みたいに、至上の権力者の振る舞いを当前のようにする。矛盾だらけなのに、後からみるとそれがベストの選択に見えるから始末が悪い。理念よりも現実に即する英国人らしいと言えなくもないが、こいつの描く最終的なゴールが見えず、結局いつも振り回させている。
エドワードは口をへの字に結んだまま、思案気に前方を睨んでいた。ヘンリーの気まぐれにさえ見える行動が、吉と出るか凶とでるか、彼にもまだ判断がつかなかったのだ。
中世から続くルベリーニ一族には、嘘か本当か定かではない伝説があった。
ルベリーニの当主が跪くのは、その生涯で二度だけ。
一度目は、生涯の伴侶に求婚する時。
二度目は、至上の王に生涯の忠誠を誓うと決めた時。
その誓いの証として、相手の手の甲に接吻する。
いわゆる『ルベリーニの接吻』は、ルベリーニ族に仕えるに値する王と認められた証だ。
この伝説の真実を推し量るには、彼らは余りにも若く無邪気だったとも言える。
「おおげさだな、時代錯誤だよ。中世じゃあるまいし。今の時代のルベリーニは単なる金融屋だよ。単純に投資家として、投資対象に僕を選んだ。それだけだ。でもこれで、アスカの心配もなくなるよ。アスカは僕の投資先だからね」
ヘンリーは、晴れ晴れとした笑顔をエドワードに向けている。
素直じゃないな……。飛鳥が心配だから守ってくれ、そうロレンツォに一言頼めば、奴は喜んで助けてくれるだろうに。
確かにヘンリーの言う通り、ルベリーニ一族は決して自らが時の権力者になろうとはしない。その時々の権力者に金を貸し付け、影から政治を操り何百年もの間生き延びてきた。
だからこそ、ルベリーニに選ばれることには意味がある。
本当にわかっているのか?
エドワードは訝し気にヘンリーの横顔を眺めたが、その表情からは何も読み取れなかった。いつもの通りヘンリーは飄々として、先ほどまでの威圧的な空気は欠片も残っていない。
「キャルは、クリスマス休暇中ロンドンにいるそうだ」
「母親に似て、我儘で図々しい」
ヘンリーは、不愉快そうに呟いた。
「見た目だけじゃなく、そんなところもお前にそっくりだけどな」
「誰が誰に似ているって?」
ヘンリーの冷たい視線に、エドワードは苦笑を浮かべて首を横に振る。
「何でもない」
「じゃ、僕はもう行くよ。アスカを待たせているんだ」
エドワードと別れ、大聖堂の横に併設されたカフェまで来ると、ヘンリーは片手をあげ、所狭しと並べられたオープンテラスのテーブルの間をすり抜けるようにして進んで行った。
「お待たせ。寒くなかったかい?」
声のする方向に、飛鳥は少し蒼褪めた顔を向けた。寒さで唇が震え、すぐには声が出なかった。すいっと伸びてきたしなやかな指が、その額からくしゃりと髪を掻き上げた。
「出ようか」
大聖堂の裏手には、壁に沿って幾つものストールと呼ばれる木組みの小屋が立ち並んでいた。夜の帳の中、一つ一つが暖かな柔らかいライトで照らされ、土産物やクリスマスプレゼントを探す買い物客で賑わっている。
ストールを物珍しそうに眺めている飛鳥に、「乾杯しよう」とヘンリーは紙コップに入った温かな飲み物を手渡した。
「コンサートの成功おめでとう」
紙コップを軽く打ち合わせると、飛鳥はかじかんだ手を温めるようにカップを両手で持ち直してゴクリと飲む。と、とたんに顔をしかめて、怒ったようにヘンリーを睨んだ。
「これ、お酒?」
「モルドワイン。温まるよ」
「よく制服で買えたね」
英国では十六歳から飲酒が認められているが、購入できるのは十八歳からのはずだ。
「クリスマスの飲み物だからね」
モルドワインは、温めた赤ワインにオレンジなどの柑橘類を入れ、シナモン、クローブ、ナツメグのスパイスを効かせて、砂糖や蜂蜜で甘く味付けてある、身体を温める冬の定番の飲み物だ。
「駄目だよ。きみは有名人なんだから」
ストールの並びから少し離れた横道にいても、通り過ぎる人たちが時々ヘンリーを振り返って見ている。
「きみがいてくれるから、今日は声をかけてくる奴がいない。ありがとう」
飛鳥は、お礼を言われて困ったように笑った。
これを買ってきてくれたのも、僕のためなのに……。
ヘンリーが最近頻繁に頭を撫でるのは、子ども扱いしている訳ではなくて、飛鳥がまた熱を出していないか、身体を冷やしていないか確かめるためだ。
彼は飛鳥を水浸しにした後、ろくに着替えもせずに上映会に連れて行ったことをずっと後悔している。あの時は時間が無かったし、仕方がなかったのだと飛鳥も納得している。それに、彼にしても飛鳥と変わらないくらいずぶ濡れだったのに自分だけ寝込んだのは、単に飛鳥が軟弱だからだ。
気を使い過ぎなんだ、ヘンリーは。
こんなふうに気づかってくれる必要はないのだ、と口に出して言えればいいのだが、そうすることが、この彼の好意を拒否しているようにも思えて、飛鳥はもどかしい思いを抱えたまま、手の中のモルドワインの温もりに甘え、居た堪れなさをその芳醇な香りとともに飲み下す。
「さぁ、これからどうする? マーケットを見て廻る? それとも、アイススケートをするかい?」
当のヘンリーは、石壁にもたれてモルドワインを飲みながら、優雅に微笑んでいた。
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