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一章
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「今日はずいぶんご機嫌だね、ロレンツォ」
飛鳥はそう言いながらも、小さなため息を漏らしている。
これでも彼は、ラテン語を教えてくれているつもりなのだろうかと。
ちっとも勉強にならないじゃないか……。
ロレンツォは、この自習室に入室した時から全身幸せオーラをまとっていた。飛鳥のその一言を待ってましたとばかりに「聞いてくれるか、その訳を!」と、浮かれた口調と大げさな身振りで顔をぐっとよせてくる。これでは飛鳥は頷くしかないではないか。
「ヘンリー・ソールスベリーが初めて話しかけてくれたんだ!」
まさか、今朝のあれ? と、飛鳥は顔を引きつらせながら訊ねる。
「ロレンツォ、きみ、ヘンリーと知り合い――、だよね?」
「やつのことなら昔から知ってるよ。一方的にな」
ロレンツォは内ポケットから写真ケースを取りだし、飛鳥の目前に自慢そうにつきつけた。
「うわ! すごく可愛い子だね。いやそれより、綺麗っていうべきなのかな」
柔らかな皮製のケースに入った写真には、古風なドレスを着て花冠を被った可憐な少女が写っていたのだ。
「初恋なんだ」
「わかるよ。こんな子に出会ったら、速攻で恋に落ちちゃいそうだね」
「そうだろう! お前なら解ってくれると思ってたよ! ひと目惚れなんだ。すぐに抱えきれないほど深紅の薔薇の花束を捧げた。プロポーズしたんだ」
飛鳥はその写真の少女に見とれながら、なぜだか腑に落ちないもどかしさを感じていた。
どこかで、会ったことがあるような――、そんな既視感に。
ロレンツォは、思い出を噛みしめるように目を細めている。
「彼女はその中の一本を抜き取ると、俺の制服のボタンホールに挿して、こう言ったんだ。『聖ジョージの日おめでとう』。――それから周りにいたほかの奴らに同じセリフを言いながら、俺の薔薇を一本一本配っていった……」
まさか……。
「これ、ヘンリー?」
かわいそうな、ロレンツォ……。
飛鳥の同情的な視線に、ロレンツォは言い訳をするように手を振る。
「男だって知った瞬間は、天国から地獄に叩き落とされた気分だった。でも、あの日の、可憐で、純粋無垢で、その上近寄りがたいほど高貴な美しさが忘れられないんだ。だが、あれから何度手紙を書いても、プレゼントを贈っても、全部送り返された。ただ、友達になりたかっただけなのに……」
日本じゃ、そういうのストーカー、て言うんだよ。
飛鳥は顔を強張らせたまま、その言葉をかろうじて呑み込む。
「それが、彼の方からこの学校に来てくれるなんて! 神よ、感謝します!」
ロレンツォは、胸の前で手を組み合わせて天を仰ぐ。
可哀想なのは、ロレンツォなのか、ヘンリーなのか?
飛鳥は、「でもその写真の彼女は、ヘンリーだけどヘンリーじゃない。何かの仮装してるんでしょ? 今のヘンリーにそれを求めるのはおかしいよ」と、慰めとも諫言ともつかない言葉を口にした。
「そうじゃない。俺は、やつのあの高貴な魂に魅かれているんだ。男であろうと、女であろうと関係ない。アーサー王に忠誠を誓う円卓の騎士のようなものさ」
「ヘンリーに好きな人がいても?」
「変わらない。それに知っている。有名だからな」
「有名って?」
「これだろ?」
ロレンツォは左腕を持ち上げ、その内側に指で一本の線を引く。
怪訝そうな飛鳥の表情に逆に驚いたようで、彼の饒舌に拍車がかかった。
「なんだ、知らないのか? ヘンリーの女はカラードだってこと! やつはエリオット校の正餐会でそのことを侮辱されて、その場で自分の腕を切り裂いてこう言ったんだ。皮膚の色が白だろうが黒だろうが、その下に流れる赤い血は人間、皆同じだ。ブルー・ブラッドよりも、ノブレス・オブリージュこそが貴族の証だ、とな。啖呵を切ってエリオットを退学してきたんだよ。お前らみたいな馬鹿どもとはいっしょにいられないってさ」
飛鳥は唖然と目を見開いて口をパクパクさせ、かろうじて声を絞りだす。
「ブルー・ブラッドって?」
ロレンツォは、袖を捲って自らの白い腕を伸ばして見せた。
「ほら、静脈が透けて見えるだろ? 日焼けしていない、労働していない白い肌の血脈、つまり貴族のことだ。要するにな、貴族の血統の上にのさばり返って他を軽んじ、本来の上流階級の所為である義務を果たす事を忘れた連中と、ヘンリーは袂を分けたのさ」
「彼女を侮辱されたから?」
ロレンツォは、頷いて自慢そうに微笑んだ。
「男なら、そんなふうに愛を捧げてみたいだろ? 誰か一人に。俺にとっては、それがヘンリー・ソールスベリーだったてことだ」
そんなふうに愛されたいのではなく、愛したい、ヘンリーのように。
飛鳥は驚きのあまり身じろぎもできなかった。
怖いよ、僕は、と飛鳥は声に出すことなく呟いていた。そんなふうに愛されるのも、愛するのも、怖い、と――。
all or nothingではないか。
これが文化の違いなのだろうか。飛鳥は納得できない。けれど、そう言うロレンツォ自身はとても彼らしくも思え、何も言えなかったのだ。
だからただ呆然と、ロレンツォの抜けるような白い腕を走る蒼い血管に見入っていた。
飛鳥はそう言いながらも、小さなため息を漏らしている。
これでも彼は、ラテン語を教えてくれているつもりなのだろうかと。
ちっとも勉強にならないじゃないか……。
ロレンツォは、この自習室に入室した時から全身幸せオーラをまとっていた。飛鳥のその一言を待ってましたとばかりに「聞いてくれるか、その訳を!」と、浮かれた口調と大げさな身振りで顔をぐっとよせてくる。これでは飛鳥は頷くしかないではないか。
「ヘンリー・ソールスベリーが初めて話しかけてくれたんだ!」
まさか、今朝のあれ? と、飛鳥は顔を引きつらせながら訊ねる。
「ロレンツォ、きみ、ヘンリーと知り合い――、だよね?」
「やつのことなら昔から知ってるよ。一方的にな」
ロレンツォは内ポケットから写真ケースを取りだし、飛鳥の目前に自慢そうにつきつけた。
「うわ! すごく可愛い子だね。いやそれより、綺麗っていうべきなのかな」
柔らかな皮製のケースに入った写真には、古風なドレスを着て花冠を被った可憐な少女が写っていたのだ。
「初恋なんだ」
「わかるよ。こんな子に出会ったら、速攻で恋に落ちちゃいそうだね」
「そうだろう! お前なら解ってくれると思ってたよ! ひと目惚れなんだ。すぐに抱えきれないほど深紅の薔薇の花束を捧げた。プロポーズしたんだ」
飛鳥はその写真の少女に見とれながら、なぜだか腑に落ちないもどかしさを感じていた。
どこかで、会ったことがあるような――、そんな既視感に。
ロレンツォは、思い出を噛みしめるように目を細めている。
「彼女はその中の一本を抜き取ると、俺の制服のボタンホールに挿して、こう言ったんだ。『聖ジョージの日おめでとう』。――それから周りにいたほかの奴らに同じセリフを言いながら、俺の薔薇を一本一本配っていった……」
まさか……。
「これ、ヘンリー?」
かわいそうな、ロレンツォ……。
飛鳥の同情的な視線に、ロレンツォは言い訳をするように手を振る。
「男だって知った瞬間は、天国から地獄に叩き落とされた気分だった。でも、あの日の、可憐で、純粋無垢で、その上近寄りがたいほど高貴な美しさが忘れられないんだ。だが、あれから何度手紙を書いても、プレゼントを贈っても、全部送り返された。ただ、友達になりたかっただけなのに……」
日本じゃ、そういうのストーカー、て言うんだよ。
飛鳥は顔を強張らせたまま、その言葉をかろうじて呑み込む。
「それが、彼の方からこの学校に来てくれるなんて! 神よ、感謝します!」
ロレンツォは、胸の前で手を組み合わせて天を仰ぐ。
可哀想なのは、ロレンツォなのか、ヘンリーなのか?
飛鳥は、「でもその写真の彼女は、ヘンリーだけどヘンリーじゃない。何かの仮装してるんでしょ? 今のヘンリーにそれを求めるのはおかしいよ」と、慰めとも諫言ともつかない言葉を口にした。
「そうじゃない。俺は、やつのあの高貴な魂に魅かれているんだ。男であろうと、女であろうと関係ない。アーサー王に忠誠を誓う円卓の騎士のようなものさ」
「ヘンリーに好きな人がいても?」
「変わらない。それに知っている。有名だからな」
「有名って?」
「これだろ?」
ロレンツォは左腕を持ち上げ、その内側に指で一本の線を引く。
怪訝そうな飛鳥の表情に逆に驚いたようで、彼の饒舌に拍車がかかった。
「なんだ、知らないのか? ヘンリーの女はカラードだってこと! やつはエリオット校の正餐会でそのことを侮辱されて、その場で自分の腕を切り裂いてこう言ったんだ。皮膚の色が白だろうが黒だろうが、その下に流れる赤い血は人間、皆同じだ。ブルー・ブラッドよりも、ノブレス・オブリージュこそが貴族の証だ、とな。啖呵を切ってエリオットを退学してきたんだよ。お前らみたいな馬鹿どもとはいっしょにいられないってさ」
飛鳥は唖然と目を見開いて口をパクパクさせ、かろうじて声を絞りだす。
「ブルー・ブラッドって?」
ロレンツォは、袖を捲って自らの白い腕を伸ばして見せた。
「ほら、静脈が透けて見えるだろ? 日焼けしていない、労働していない白い肌の血脈、つまり貴族のことだ。要するにな、貴族の血統の上にのさばり返って他を軽んじ、本来の上流階級の所為である義務を果たす事を忘れた連中と、ヘンリーは袂を分けたのさ」
「彼女を侮辱されたから?」
ロレンツォは、頷いて自慢そうに微笑んだ。
「男なら、そんなふうに愛を捧げてみたいだろ? 誰か一人に。俺にとっては、それがヘンリー・ソールスベリーだったてことだ」
そんなふうに愛されたいのではなく、愛したい、ヘンリーのように。
飛鳥は驚きのあまり身じろぎもできなかった。
怖いよ、僕は、と飛鳥は声に出すことなく呟いていた。そんなふうに愛されるのも、愛するのも、怖い、と――。
all or nothingではないか。
これが文化の違いなのだろうか。飛鳥は納得できない。けれど、そう言うロレンツォ自身はとても彼らしくも思え、何も言えなかったのだ。
だからただ呆然と、ロレンツォの抜けるような白い腕を走る蒼い血管に見入っていた。
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