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一章
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「おいハリー、このパンフレット、お前が言っていた内容と違うぞ」
ガイ・フォークス・ナイトを五日後に控え、待ちかまえていたエドワード・グレイは馬場から戻る途中のヘンリーを捉まえて小声でささやいた。
ヘンリーは眉をひそめて、刷りあがったばかりのきついインク臭のするパンフレットを眺め、「やっぱり仕掛けてきたね」と、小さく息をつく。
「なんだって同じ寮内でこんな馬鹿なマネするんだろうね」
「まったくだな。お前にケンカを売るなんて気が知れない」
「自覚が足りないんだよ。相手は僕だってことが判っていない。それでエド、進捗は?」
「予定通りさ」
エドワードは含み笑いで豪快に身を揺すりながら、楽しげにヘンリーの肩に腕を回した。
「せいぜい楽しい祭りにしようぜ」
「映画班のルベリーニさん?」
突然のノックの音に部屋の主がドアを開けると、そこには噂の東洋人が立っていた。
「ご相談したいことがあるんですが」
「入れよ」
主は顎をしゃくりって、初めて間近に見る留学生、杜月飛鳥を部屋に招き入れた。
ロレンツォ・ルベリーニは、イタリアからの留学生で飛鳥と同じ最終学年生だ。ダ・ヴィンチの描く洗礼者ヨハネによく似た、黒髪に生き生きとした漆黒の瞳の長身の若者だ。彼はどこにいてもすぐに判る、ほがらかな笑い声と華のある雰囲気で、寮でも校内でも人気者だ。だが、寮の食事は「これは人間の食べ物じゃない」と豪語し食堂に来ることはなかったので、飛鳥と顔を合わすこともなく、言葉を交わすのも初めてだった。
「映画の、ラストシーンに手を加えたいんです」
飛鳥は手にしたノートを開き、手描きの絵コンテを見せた。
「セリフはないです。映像処理だけでもお願いしたくて。もしも、難しようでしたら、僕が全部、」
渡された絵コンテを、ロレンツォはじっと睨みつけるような瞳で凝視している。そんな彼に臆することのないようにと、飛鳥は瞳に力をこめる。そして想いとは裏腹の、怯えていると受け取られかねないもつれる舌先で、必死に説明を続けていた。
「本当に、これをやるのか?」
飛鳥の懸命な言葉をとうとつに遮って向けられた、眉間に皺を寄せたロレンツォの険しい表情に、飛鳥は息をぐっと詰める。だが唇を引き結んでゆっくりと神妙に頷く。
「ブラヴォー! この閉鎖的で陰気臭い英国でも、お前のような奴がいるんだな!」
飛鳥は腰かけていた椅子からひき立たされ、思いっきり抱きすくめられていた。
「やろうぜ! まかせろ! 最高のラストシーンを作ってやる!」
ロレンツォは飛鳥を放すと椅子に座り直し、まだ驚き覚めやらず心臓をバクバクさせている彼に、しかめっ面の、それでいて瞳だけはきらきらと輝いている顔を近づけて言った。
「あいつらにバレないように、詳細を詰めようぜ。バレたら絶対邪魔される。当日まで隠し通すんだ」
彼は楽しくて堪らなさそうに破顔一笑すると、片目を瞑ってみせた。
「あとは……」
自室に戻った飛鳥は、ベッドに倒れるように寝ころがって思考を巡らせる。
「疲れた。糖分が足りない……」
軽く目を瞑っただけで、急激な眠気に襲われていた。
どのくらい眠っていたのか、次に飛鳥が目を開けた時にはヘンリーが戻っていた。
久しぶりに、彼は窓辺でヴァイオリンを弾いていた。彼には音色が聴こえているみたいだ。彼の音が聞こえない自分の耳の方がおかしいんじゃないかと、夢現のなかで、飛鳥はぼんやりと考えていた。
ヘンリーは何度もその手を止め、時計を見ては何か紙に書きこんでいた。
飛鳥は、ずっしりと重たく感じる自分の体を無理やりひき起こした。
「邪魔してごめん、ヘンリー。砂糖、持ってない? できたら角砂糖」
「あるけれど――、お茶を入れようか?」
ヴァイオリンを置いて、飛鳥のベッドへと歩み寄る。
「角砂糖が食べたい。頭が働かないんだ」
ヘンリーは棚からシュガー・ポットをおろし、飛鳥の横に腰を下ろして手渡した。まじかで見た彼は、疲労から土気色の顔色をしている。ぐったりと壁にもたれていた彼は、ポットから角砂糖を一つ摘まみあげ、そのまま口に入れてガリガリと噛み砕いた。
「ありがとう。助かった。僕は糖分がないと駄目なんだ。このところ食べるペースが速すぎて、在庫が切れちゃってて」
「いつもこんなものを食べていたの?」
飛鳥は首を横に振った。
「いつも食べているのは、日本から持ってきていたブドウ糖だよ。こっちでも、買えるかなぁ?」
「どうだろう? 実家の方に送ってもらったら? 一週間もかからないと思うよ」
「そうだね。そうしようかな、食感が変わると嫌だし……」
「ずいぶん疲れているみたいだ。無理をしすぎじゃないのかい?」
ヘンリーは腕を伸ばして、熱を測るように飛鳥の額に触れた。
「最後の部分が納得できなくて。もっとこう……。炎を、こう……」
疲れと眠気のせいか、飛鳥の頭の中では、炎がクルクルと回りだしていた。
飛鳥はまた、ズルズルと倒れ込んでいる。
「ヘンリー、上掛けを掛けてくれて、ありがとう。お陰で暖かかったよ」と、寝言のように呟いて、瞬く間に眠りに落ちる。
ヘンリーは彼に上掛けを掛け直し、倒れたシュガーポットを拾って飛鳥の机の上に置いた。
何かに打ち込むと深く夢中になる。それなのに体力が伴わなくてすぐにヘタってしまう。おまけに、角砂糖をガリガリ齧る――。こんなにもサラに似ているなんて……。
飛鳥の顔にかかる髪を軽く指で梳き流しながら、慈しむような、愛おしむような、そんな柔らかな笑みをヘンリーは浮かべていた。
ガイ・フォークス・ナイトを五日後に控え、待ちかまえていたエドワード・グレイは馬場から戻る途中のヘンリーを捉まえて小声でささやいた。
ヘンリーは眉をひそめて、刷りあがったばかりのきついインク臭のするパンフレットを眺め、「やっぱり仕掛けてきたね」と、小さく息をつく。
「なんだって同じ寮内でこんな馬鹿なマネするんだろうね」
「まったくだな。お前にケンカを売るなんて気が知れない」
「自覚が足りないんだよ。相手は僕だってことが判っていない。それでエド、進捗は?」
「予定通りさ」
エドワードは含み笑いで豪快に身を揺すりながら、楽しげにヘンリーの肩に腕を回した。
「せいぜい楽しい祭りにしようぜ」
「映画班のルベリーニさん?」
突然のノックの音に部屋の主がドアを開けると、そこには噂の東洋人が立っていた。
「ご相談したいことがあるんですが」
「入れよ」
主は顎をしゃくりって、初めて間近に見る留学生、杜月飛鳥を部屋に招き入れた。
ロレンツォ・ルベリーニは、イタリアからの留学生で飛鳥と同じ最終学年生だ。ダ・ヴィンチの描く洗礼者ヨハネによく似た、黒髪に生き生きとした漆黒の瞳の長身の若者だ。彼はどこにいてもすぐに判る、ほがらかな笑い声と華のある雰囲気で、寮でも校内でも人気者だ。だが、寮の食事は「これは人間の食べ物じゃない」と豪語し食堂に来ることはなかったので、飛鳥と顔を合わすこともなく、言葉を交わすのも初めてだった。
「映画の、ラストシーンに手を加えたいんです」
飛鳥は手にしたノートを開き、手描きの絵コンテを見せた。
「セリフはないです。映像処理だけでもお願いしたくて。もしも、難しようでしたら、僕が全部、」
渡された絵コンテを、ロレンツォはじっと睨みつけるような瞳で凝視している。そんな彼に臆することのないようにと、飛鳥は瞳に力をこめる。そして想いとは裏腹の、怯えていると受け取られかねないもつれる舌先で、必死に説明を続けていた。
「本当に、これをやるのか?」
飛鳥の懸命な言葉をとうとつに遮って向けられた、眉間に皺を寄せたロレンツォの険しい表情に、飛鳥は息をぐっと詰める。だが唇を引き結んでゆっくりと神妙に頷く。
「ブラヴォー! この閉鎖的で陰気臭い英国でも、お前のような奴がいるんだな!」
飛鳥は腰かけていた椅子からひき立たされ、思いっきり抱きすくめられていた。
「やろうぜ! まかせろ! 最高のラストシーンを作ってやる!」
ロレンツォは飛鳥を放すと椅子に座り直し、まだ驚き覚めやらず心臓をバクバクさせている彼に、しかめっ面の、それでいて瞳だけはきらきらと輝いている顔を近づけて言った。
「あいつらにバレないように、詳細を詰めようぜ。バレたら絶対邪魔される。当日まで隠し通すんだ」
彼は楽しくて堪らなさそうに破顔一笑すると、片目を瞑ってみせた。
「あとは……」
自室に戻った飛鳥は、ベッドに倒れるように寝ころがって思考を巡らせる。
「疲れた。糖分が足りない……」
軽く目を瞑っただけで、急激な眠気に襲われていた。
どのくらい眠っていたのか、次に飛鳥が目を開けた時にはヘンリーが戻っていた。
久しぶりに、彼は窓辺でヴァイオリンを弾いていた。彼には音色が聴こえているみたいだ。彼の音が聞こえない自分の耳の方がおかしいんじゃないかと、夢現のなかで、飛鳥はぼんやりと考えていた。
ヘンリーは何度もその手を止め、時計を見ては何か紙に書きこんでいた。
飛鳥は、ずっしりと重たく感じる自分の体を無理やりひき起こした。
「邪魔してごめん、ヘンリー。砂糖、持ってない? できたら角砂糖」
「あるけれど――、お茶を入れようか?」
ヴァイオリンを置いて、飛鳥のベッドへと歩み寄る。
「角砂糖が食べたい。頭が働かないんだ」
ヘンリーは棚からシュガー・ポットをおろし、飛鳥の横に腰を下ろして手渡した。まじかで見た彼は、疲労から土気色の顔色をしている。ぐったりと壁にもたれていた彼は、ポットから角砂糖を一つ摘まみあげ、そのまま口に入れてガリガリと噛み砕いた。
「ありがとう。助かった。僕は糖分がないと駄目なんだ。このところ食べるペースが速すぎて、在庫が切れちゃってて」
「いつもこんなものを食べていたの?」
飛鳥は首を横に振った。
「いつも食べているのは、日本から持ってきていたブドウ糖だよ。こっちでも、買えるかなぁ?」
「どうだろう? 実家の方に送ってもらったら? 一週間もかからないと思うよ」
「そうだね。そうしようかな、食感が変わると嫌だし……」
「ずいぶん疲れているみたいだ。無理をしすぎじゃないのかい?」
ヘンリーは腕を伸ばして、熱を測るように飛鳥の額に触れた。
「最後の部分が納得できなくて。もっとこう……。炎を、こう……」
疲れと眠気のせいか、飛鳥の頭の中では、炎がクルクルと回りだしていた。
飛鳥はまた、ズルズルと倒れ込んでいる。
「ヘンリー、上掛けを掛けてくれて、ありがとう。お陰で暖かかったよ」と、寝言のように呟いて、瞬く間に眠りに落ちる。
ヘンリーは彼に上掛けを掛け直し、倒れたシュガーポットを拾って飛鳥の机の上に置いた。
何かに打ち込むと深く夢中になる。それなのに体力が伴わなくてすぐにヘタってしまう。おまけに、角砂糖をガリガリ齧る――。こんなにもサラに似ているなんて……。
飛鳥の顔にかかる髪を軽く指で梳き流しながら、慈しむような、愛おしむような、そんな柔らかな笑みをヘンリーは浮かべていた。
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