胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
23 / 758
一章

しおりを挟む
「おいハリー、このパンフレット、お前が言っていた内容と違うぞ」
ガイ・フォークス・ナイトを五日後に控え、待ちかまえていたエドワード・グレイは馬場から戻る途中のヘンリーを捉まえて小声でささやいた。

 ヘンリーは眉をひそめて、刷りあがったばかりのきついインク臭のするパンフレットを眺め、「やっぱり仕掛けてきたね」と、小さく息をつく。

「なんだって同じ寮内でこんな馬鹿なマネするんだろうね」
「まったくだな。お前にケンカを売るなんて気が知れない」
「自覚が足りないんだよ。相手は僕だってことが判っていない。それでエド、進捗は?」
「予定通りさ」

 エドワードは含み笑いで豪快に身を揺すりながら、楽しげにヘンリーの肩に腕を回した。

「せいぜい楽しい祭りにしようぜ」






「映画班のルベリーニさん?」
 突然のノックの音に部屋のあるじがドアを開けると、そこには噂の東洋人が立っていた。
「ご相談したいことがあるんですが」
「入れよ」
 主は顎をしゃくりって、初めて間近に見る留学生、杜月飛鳥を部屋に招き入れた。


 ロレンツォ・ルベリーニは、イタリアからの留学生で飛鳥と同じ最終学年生だ。ダ・ヴィンチの描く洗礼者ヨハネによく似た、黒髪に生き生きとした漆黒の瞳の長身の若者だ。彼はどこにいてもすぐに判る、ほがらかな笑い声と華のある雰囲気で、寮でも校内でも人気者だ。だが、寮の食事は「これは人間の食べ物じゃない」と豪語し食堂に来ることはなかったので、飛鳥と顔を合わすこともなく、言葉を交わすのも初めてだった。


「映画の、ラストシーンに手を加えたいんです」
 飛鳥は手にしたノートを開き、手描きの絵コンテを見せた。
「セリフはないです。映像処理だけでもお願いしたくて。もしも、難しようでしたら、僕が全部、」

 渡された絵コンテを、ロレンツォはじっと睨みつけるような瞳で凝視している。そんな彼に臆することのないようにと、飛鳥は瞳に力をこめる。そして想いとは裏腹の、怯えていると受け取られかねないもつれる舌先で、必死に説明を続けていた。

「本当に、これをやるのか?」

 飛鳥の懸命な言葉をとうとつに遮って向けられた、眉間に皺を寄せたロレンツォの険しい表情に、飛鳥は息をぐっと詰める。だが唇を引き結んでゆっくりと神妙に頷く。

「ブラヴォー! この閉鎖的で陰気臭い英国でも、お前のような奴がいるんだな!」


 飛鳥は腰かけていた椅子からひき立たされ、思いっきり抱きすくめられていた。

「やろうぜ! まかせろ! 最高のラストシーンを作ってやる!」

 ロレンツォは飛鳥を放すと椅子に座り直し、まだ驚き覚めやらず心臓をバクバクさせている彼に、しかめっ面の、それでいて瞳だけはきらきらと輝いている顔を近づけて言った。

「あいつらにバレないように、詳細を詰めようぜ。バレたら絶対邪魔される。当日まで隠し通すんだ」

 彼は楽しくて堪らなさそうに破顔一笑すると、片目を瞑ってみせた。




「あとは……」
 自室に戻った飛鳥は、ベッドに倒れるように寝ころがって思考を巡らせる。
「疲れた。糖分が足りない……」

 軽く目を瞑っただけで、急激な眠気に襲われていた。




 どのくらい眠っていたのか、次に飛鳥が目を開けた時にはヘンリーが戻っていた。

 久しぶりに、彼は窓辺でヴァイオリンを弾いていた。彼には音色が聴こえているみたいだ。彼の音が聞こえない自分の耳の方がおかしいんじゃないかと、夢現のなかで、飛鳥はぼんやりと考えていた。

 ヘンリーは何度もその手を止め、時計を見ては何か紙に書きこんでいた。


 飛鳥は、ずっしりと重たく感じる自分の体を無理やりひき起こした。

「邪魔してごめん、ヘンリー。砂糖、持ってない? できたら角砂糖」

「あるけれど――、お茶を入れようか?」
 ヴァイオリンを置いて、飛鳥のベッドへと歩み寄る。

「角砂糖が食べたい。頭が働かないんだ」

 ヘンリーは棚からシュガー・ポットをおろし、飛鳥の横に腰を下ろして手渡した。まじかで見た彼は、疲労から土気色の顔色をしている。ぐったりと壁にもたれていた彼は、ポットから角砂糖を一つ摘まみあげ、そのまま口に入れてガリガリと噛み砕いた。

「ありがとう。助かった。僕は糖分がないと駄目なんだ。このところ食べるペースが速すぎて、在庫が切れちゃってて」
「いつもこんなものを食べていたの?」

 飛鳥は首を横に振った。

「いつも食べているのは、日本から持ってきていたブドウ糖だよ。こっちでも、買えるかなぁ?」
「どうだろう? 実家の方に送ってもらったら? 一週間もかからないと思うよ」
「そうだね。そうしようかな、食感が変わると嫌だし……」

「ずいぶん疲れているみたいだ。無理をしすぎじゃないのかい?」

 ヘンリーは腕を伸ばして、熱を測るように飛鳥の額に触れた。

「最後の部分が納得できなくて。もっとこう……。炎を、こう……」

 疲れと眠気のせいか、飛鳥の頭の中では、炎がクルクルと回りだしていた。

 飛鳥はまた、ズルズルと倒れ込んでいる。

「ヘンリー、上掛けを掛けてくれて、ありがとう。お陰で暖かかったよ」と、寝言のように呟いて、瞬く間に眠りに落ちる。


 ヘンリーは彼に上掛けを掛け直し、倒れたシュガーポットを拾って飛鳥の机の上に置いた。


 何かに打ち込むと深く夢中になる。それなのに体力が伴わなくてすぐにヘタってしまう。おまけに、角砂糖をガリガリ齧る――。こんなにもサラに似ているなんて……。


 飛鳥の顔にかかる髪を軽く指で梳き流しながら、慈しむような、愛おしむような、そんな柔らかな笑みをヘンリーは浮かべていた。







しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

偏食の吸血鬼は人狼の血を好む

琥狗ハヤテ
BL
人類が未曽有の大災害により絶滅に瀕したとき救済の手を差し伸べたのは、不老不死として人間の文明の影で生きていた吸血鬼の一族だった。その現筆頭である吸血鬼の真祖・レオニス。彼は生き残った人類と協力し、長い時間をかけて文明の再建を果たした。 そして新たな世界を築き上げた頃、レオニスにはひとつ大きな悩みが生まれていた。 【吸血鬼であるのに、人の血にアレルギー反応を引き起こすということ】 そんな彼の前に、とても「美味しそうな」男が現れて―――…?! 【孤独でニヒルな(絶滅一歩手前)の人狼×紳士でちょっと天然(?)な吸血鬼】 ◆閲覧ありがとうございます。小説投稿は初めてですがのんびりと完結まで書いてゆけたらと思います。「pixiv」にも同時連載中。 ◆ダブル主人公・人狼と吸血鬼の一人称視点で交互に物語が進んでゆきます。 ◆現在・毎日17時頃更新。 ◆年齢制限の話数には(R)がつきます。ご注意ください。 ◆未来、部分的に挿絵や漫画で描けたらなと考えています☺

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

未来の軌跡 - 経済と企業の交錯

Semper Supra
経済・企業
この長編小説は、企業経営と経済の複雑な世界を舞台に、挑戦と革新、そして人間性の重要性を描いた作品です。経済の動向がどのように企業に影響を与え、それがさらには社会全体に波及するかを考察しつつ、キャラクターたちの成長と葛藤を通じて、読者に深い考察を促す内容になっています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

処理中です...