胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
5 / 751
一章

しおりを挟む
「きみたちにとって音楽とは何だね?」

 世界的に有名なイタリアの名ヴァイオリニスト、フェデリコ・ヴィオッティを特別講師に迎えての第一回目授業の冒頭での問いである。

「なくてはならないものです」
「僕の夢です」
「情熱です」

 十名の音楽スカラーが一人ひとり答えていくのを、70歳を超える老ヴァイオリニストはニコニコと笑顔で頷きながら聞いている。

「きみは、ソールスベリー?」
 最後に残ったヘンリーに番が回ってきた。
「言葉です」
 ヴィオッティは、目を細めて、フォッ、フォッ、フォッ、と大笑いする。



「ひとつ、きみの言葉で語ってくれるかの?」

 授業が終わった後ヴィオッティに呼び止められ、ヘンリーは一人、教室に残された。望まれるまま、彼はヴァイオリンをかまえ奏で始める。

『ラ・カンパネラ』、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番第三楽章だ。
 曲が終わると、ヴィオッティはその大きな手でパンッ、パンッ、パンッ、と拍手をし、楽しそうに笑いながら、「珠玉の音の連なり。きみのその言葉はセレナーデだな。そして、常に楽譜に正確だ」と、茶目っ気たっぷりな表情で評する。
「正しい文法と正確な発音でないと通じないんです」
 ヘンリーは少し気恥ずかしげに微笑んだ。
「それは厄介なミューズだ」
 老ヴァイオリニストの言葉にヘンリーは軽く目をみはり、次いで嬉しそうに微笑み頷く。


 ヘンリーにとって、サラとのコミュニケーションは初めの頃よりもずっと楽になっている。だが彼女は、表情を読んだり細やかな心情を汲み取ることが苦手だ。ヘンリーが気持ちや感情を判って欲しいときには、言葉で伝えるよりも、ヴァイオリンを弾く方がずっと早い。サラはその音色の色彩を視、温度を感じてヘンリーを理解してくれる。
 彼女以外では、これまで好き勝手に評されてきたヘンリーだった。それが、ここでのヴィオッティの的を射た批評に、彼は初めて自分が理解されたような気がして、心が温かいもので満ちるのを感じたのだ。


「きみが愛を語る相手は、そのたった一人のミューズなのかな?」

 ヘンリーは頷いた。ヴィオッティは指を組み合わせると、しばらくの間、瞑目していた。

「きみのミューズ以外にも語りかけ、会話したいとは思わんかね? 聴衆は、ミューズに嫉妬し、羨望し、自分がそのただ一人でありたいと想いを募らせるばかりだ」
「彼女以外に語りたい言葉を、僕は持ち合わせていません」

 ヘンリーは目を伏せ、きっぱりと言い切った。

「それはまた、情熱的な想いだな。だが恋じゃない。きみの音はストイックで情愛に溢れているが、官能がない」

 ヴィオッティは、その瞳で優しく包み込むようにヘンリーを見つめていた。

「きみはまだ若い。もっと世界を広げてみなさい。楽しみなさい。まずは、この年寄りと会話してみないかね?」

 おもむろに自身のヴァイオリンをケースから出し、ヴィオッティは、そのボディを慈しむように撫でる。そして「バッハは、ついてこられるかな?」と、「2つのヴァイオリンのための協奏曲」のさわりのパートを弾いてみせる。

「はい」
 ヴィオッティに続きヘンリーも、自分のヴァイオリンをかまえる。



 教室の外では、音楽スカラー達が耳をそばだて、固唾を飲んで成行きを見守っている。

 演奏が終わった時、老ヴァイオリニストは一言、「恋をしなさい、ソールスベリー」と言った。

 ヘンリーは、ただ笑顔で黙礼を返した。





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...