胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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 英国でも有数のパブリックスクール、ウイスタン校の新学期が始まった。最上級生の一団に黒いローブを羽織ったヘンリー・ソールスベリーの姿を見つけた時、誰もが我が目を疑った。傍らの友人をつつきあい、目配せしあってのひそひそ話がさざ波のように広がっている。

 ヘンリーは、ここではライバル校エリオットの守護天使として、知らぬ者はいない程の有名人なのだ。年に一度のクリケットの対抗試合エリオット・マッチで、この三年間ヘンリーの率いるチームにウイスタンは大敗を喫しているからだ。
 それだけじゃない。今年はエリオットからの編入生がヘンリーを含めて7人もいた。何らかの事情でエリオットを退学したヘンリーを、他の六名が「エリオットの卒業生になるよりも、ヘンリー・ソールスベリーの同窓生でいることの方が自身のステータスになる」とばかりに追いかけてきた、と囁かれている。
 当然のように、ヘンリーの周囲は元エリオット校生エリオティアンでがっちりと固められている。
 エリオット校ラグビー部のエース、エドワード・グレイや、ヴァイオリン国際コンクールで優勝経験のあるエドガー・ウイズリーなど、そうそうたる顔ぶれだ。それにしても、学校側もよくこの人数を受け入れたものだと、新学期の始まりを告げる礼拝堂のミサでは、明らかに異質な元エリオット校生達を遠巻きに眺めながら、ウイスタンの生徒たちの間で様々な憶測が交差していた。



「先輩と同じ寮になれると思っていたのに」
 エドガー・ウイズリーは不満気に口を尖らせている。
「ここは音楽に力を入れているからね。カレッジ・スカラーとは別に音楽に特化した奨学制度があるんだ。僕もきみと同じ音楽奨学制度を受けたんだけれどね。まぁ、大人の事情ってやつで、カレッジ寮に回されてしまったんだ。でもきみが来てくれるなんて嬉しいよ。また一緒に演奏できるのが楽しみだ」
 ヘンリーは優しく笑って言った。

 大人の事情なんて、まるで分からない。けれど、エリオットにいた頃には想像もできなかったヘンリーの優しい言葉に、エドガーは今にも泣きだしそうだ。

 エリオット校では、ヘンリーは校内の人種差別主義者レイシストに怒り、抗議の実践として自主退学したとまことしやかに囁かれている。そんな理由などには頓着なく、エドガーはコネを総動員して情報を掴み、エリオット校創立祭を最後に学校から姿を消したヘンリーを追いかけて転校してきたのだ。エリオット校、そして約束されたエリートコースを捨てることになるかもしれない選択に、不安がなかったと言えば嘘になる。だが、こうして久しぶりにヘンリーの姿を見てその声を聴くと、それだけの価値がある決意だったと、自負せずにはいられない。



 礼拝が終わり、皆それぞれ自分が受ける学科のある校舎に散っていく。
 そんな学生たちの群れの中、エドワードはヘンリーの肩を抱いて耳元で囁いた。

「お前、謀っただろ?」
「なんのことかな?」
「誰が自分について来るか試したんだろ? そのためのパフォーマンスだ」
 ふふ、ヘンリーは口先で微笑んだ。
「きみは来ないと思っていたよ」
「エリオットも、ウイスタンも大した差はないさ。お前がいないとつまらない。それだけだ。まだ知らないやつらや、知っていても泣く泣く諦めたやつらがまだまだいるぞ。今頃、お前がここにいるのが知れ渡って、エリオットは大騒ぎだろうさ」

 エドワードは肩を揺すって豪快に笑う。

「で、お前の目的はどいつだ?」
「ずいぶん聡くなったな、エド。アーネストに聞いたの?」
「あいつの家がガーディアンなんて聞きゃ、勘繰りたくもなるだろ?」
「まだわからないよ。まったくの見込み違いかもしれない。それにしても残念だな。僕はきみの鈍いところが気にいっているんだが」
「おい、ずいぶんな言い様だな」
 ヘンリーはクスクス笑い、足を進めながら、斜め前を歩く杜月飛鳥をちらりと眺めて眉をしかめた。

 堂々と歩けと言ったのに!
 
 飛鳥は肩を落とし、俯いたまま、とぼとぼと歩いていた。朝に整えた髪も、もうぐしゃぐしゃだ。まるでこれから刑務所にでも入れられに行くみたいに覇気がない。一般入試とは別の厳しい選抜試験を勝ち得てここにいるカレッジ・スカラーは、皆、黒のローブを見せびらかすように翻し、誇らしげに歩いている。そんな中で、飛鳥のみすぼらしい姿は明らかに異質で異様だった。

 これが、僕の目的だって? とてもじゃないが、恥ずかしくて言えない。

「おい、あれだろう?」

 エドワードが視線で飛鳥を指し示す。
 ヘンリーは不愉快そうに眉を寄せた。

「複層ガラス特殊加工の国際特許を持っているやつだ」
「何だって?」
「去年からここは、アジア圏からの留学生を制限しているんだ。その規則を自ら破っての受け入れだ。何でも三校に願書を出して、その三校で奪い合い、ここが競り勝ったらしい。お前にしろ、あいつにしろ、学校の宣伝には事欠かないな、このウイスタンは」

 エドワードは、ヘンリーに視線を移して肩を叩いた。

「みんな、大昔に英雄が在籍したってだけの遺跡がっこうへ通うよりも、生きた英雄と同じ時間を共有したいからな。ここは、そんな風潮をよく解ってるってことだな」




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