微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

198 その日4

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 外れることさえ
 法則のうち



 僕は愕然と自分の耳を疑った。
 こんな話、銀狐から聞いてはいない。

 「麻薬ドラッグ」の単語に、身に覚えのある寮長の顔色がさっと蒼褪めている。だが意外に少ない。ボート部の子たちがひき込んだのは、自分たちと同期の副寮長クラスが多いのか。今頃は監督生たちの手で取り調べが始まっているはずの――。

 それよりも、大鴉は株式投資に関する件で脅迫されていただけのはずなのに。彼がなぜ、ジョイントのことを知っているのだ? その方が気にかかった。

 いったい、いつから彼は狼を追っていたのだ? 
 銀狐はこの件に関しては、たとえ大鴉にであっても口は閉ざしているはずだ。相手は犯罪組織マフィアだ。これは命の危険に晒される可能性のある問題なのだから――。

 狼の大鴉への脅迫が、組織とは別物の狼の知己と結託した個人的な犯罪だったからこそ、この天使くんの誘拐・脅迫は狼を捕えるための千載一遇のチャンスだったのだ。狼の組織の報復をなんとか避けることができるであろう、そんな唯一の。

 狼個人の失敗で彼が捕まり、この学校内へのパイプラインである僕たちが捕まり、芋ずる式に寮ごとにジョイントを管理している寮長や副寮長が一斉に処分されれば、校内に広がるジョイントの網の目は一気に分断され、これ以降、狼の組織につけ入る隙を与えることはないだろう、という判断の下での計画だったのだ。

 生徒会役員を初め、寮長、各部キャプテン等の役職を生徒自治内で唯一取り締まる権限を持つ監督生と銀狐とが連結し、広がりすぎたジョイントにかかわる生徒の処分をでき得る限り最小限に収めるためにも……。

 大鴉の脅迫問題と同時並行で、けれど、もしもの時に彼を巻きこむことのないように、別個のものとして進めてきたはずだった。

 ここに至るまでの大鴉は、監督生、そして銀狐とも足並み揃えてきていたはずだ。

 それなのにどうだ? 

 奨学生のローブを羽織っている生徒は、ライフル銃なんて持っているし、ボート部の子が味方にひき込んだと聞いていた一学年生は、どうみても大鴉の仲間じゃないか。どうりで銀狐にあの黒髪の子のことを話しても、「あの子に関しては不可侵だ」と苦虫を潰したような顔で答えていたはずだ。

 それに、警察がいまだに姿を見せないのも不可解だった。
 狼と一緒に、ボート部の二人、そして僕が実行犯として逮捕される姿を寮長連中にまざまざと見せつけて恐怖を煽っておき、大鴉の問題を片づけてから、銀狐と監督生とでジョイント使用者を追及する予定だったのに。

 これでは僕たちの計画とは違いすぎる――。



「あんたが手下に使っていた連中は、もれなく退学だ。一から開拓するのも大変だろ? いい加減、この辺で手を引いてくれ。……俺の名前を使ってやった証券詐欺の方は、不問にするからさ。あれは、こっちに賠償請求するしね」


 退学……。その覚悟はとっくにできている。

 それよりも手を引かす、って。
 それが本当に可能なら、僕は放校になろうと、刑務所に入れられようとかまいはしない。

 きみや天使くんが、そして銀狐が、このまま無事でいてくれるのなら。
 そしてなによりも鳥の巣頭が、僕のことで強請られたり脅迫されたりすることを防げるのなら……。

 狼を捕え、僕たちが捕まったところで、本当に狼の組織から逃れることができるのかどうかが、僕の唯一の気がかりだったのだ。
 


 僕は大鴉と狼のやり取りに釘付けだった。

 銀狐の言う、僕の知らない大鴉の素顔――、この人を喰ったような、あの恐ろしい狼でさえ小馬鹿にしたような大鴉の、意外というにはあまりにも無鉄砲で、怖いもの知らずの様子に震撼していた。


 大鴉は、おもむろに狼の胸元に手を伸ばすと、光沢のある派手なネクタイを掴み、ネクタイピンに口を寄せていた。

「……オズボーン、聞こえているんだろう? 詰めが甘すぎたな。それにあんた、情報収集も雑すぎるよ。あんたの行動、ジェームズ・テイラーに筒抜けだったぞ!」

 首を引っぱられ、不快そうに眉をしかめる狼にはかまわず、大鴉は声高にしゃべり続ける。

「あんたの手口、ここじゃ通用しないよ。もう俺なんかにかまってないで、報復に備えておいた方がいいぞ。賠償請求は後で回すからさ、よろしく頼むよ」

 知り合い? 大鴉は脅迫していた狼の知己と知り合いなのか? 

 天使くんを誘拐され、彼の身柄と引き換えに脅迫されていたはずの大鴉は、まるでゲームかなにかでもしているように軽口を叩いているのだ。

 ネクタイを離すと、大鴉はしゃがんだ膝の上で頬杖をついて、もう一度狼に微笑みかけた。

 無邪気な、人懐こい、僕の大好きな彼らしい笑顔で――。

「まだ、うん、て言わないの?」

 その場にいる誰もが固唾を呑んで、一人喋っている大鴉を見守っていた。


「フィリップ、どうしようか?」
 固く口を閉ざしている狼を見つめたまま、しばらく考える素振りを見せた大鴉は、顔をあげ、警戒を解かずにじっと狼の背後に身がまえている黒髪の子を呼んだ。

「フィリップ・ド・パルデュ」
「解った! 手を引く。今後一切この学校には手を出さない! 約束する」
 その名前に急に顔色を変え、狼は声を上ずらせて叫んだ。

「それから、」
「まだあるのか!」

 先までのふてぶてしさはすっかり鳴りを潜め、狼は慌てふためいている。



 僕にはもう、何がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。
 首を捻っていた僕の耳に、どこかの寮長の囁き声が刺さる。

「あの黒髪、ルベリーニの甥っ子だよ。マフィアのさ」
「あのド・パルデュの後継ぎか! うちの学校にいるのは聴いていたけれど、こんなところでお目にかかれるとはな!」

 ド・パルデュの名前がさざ波を生んでいた。動揺しているのは狼だけではない。この場にいる誰もが何が起こっているのか把握できないまま、狐に摘ままれた心持ちで、繰り広げられるこの寸劇を鑑賞する観客となっていたのだ。


 そう、この芝居はすべてが大鴉のペースで進んでいる。まるで初めから定められた筋書きでもあるかのように――。

 僕はそっと銀狐の様子を盗み見た。厳しい表情を浮かべた彼もまた、僕と同じようにじっと成り行きを見守っている。




「こいつに一発殴られてやって」

 大鴉は狼にそう言い放つと立ちあがり、誰も気づかぬうちに来ていて、天使くんを抱きしめて声を殺して泣いている、黒いローブの奨学生カラスの子の肩を叩いた。

「フレッド、こいつがお前の兄貴のかたきの元締めだ」




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