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最終章
196 その日2
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荒海に漕ぎだす
小舟の上に
降り注ぐは
月光
ボート小屋までの川縁の道行を横並びに歩きながら、銀狐はずっと早口でぶつぶつと呟いていた。電話で指示を出しているのだ。
テムズ川の、曇天に混じり合う暗い水流から上がってくる川風が、僕たちの髪を容赦なくなぶって吹き抜ける。寒そうに首をすくめる銀狐の首筋が青白く鳥肌を立てているようで、僕は彼の肩を抱き、その首に腕を巻きつけた。
彼は僕をちらりと見てにっと笑い、やっと、ほっとしたような息を漏らした。
「各寮長は合流したようだよ。この辺りで待っていよう」
ボート小屋の手前で足を止め、銀狐は道を少し逸れた林の中に足を向けた。凍てついていた黒土はいつの間にか緑に覆われている。いまだ寒々とした裸の枝を空に向ける樹々の足下には、そこかしことクロッカスが薄紫の花を咲かせていた。僕の嫌いなスノードロップはもうどこにも見当たらない。
「さすがに寒いな。樹の陰にでもいよう。少しは風除けになるかもしれない」
頷いて、少しでも温まるようにと彼に身を寄せた。
「僕のマフラーを半分使う?」
「嫌だよ、ジョナスのプレゼントを共有するなんて」
彼は僕の巻いているワインレッドのマフラーをちらりと見て、首をすくめて苦笑する。
「あいつはそんなことで怒ったりしないよ?」
「とんでもない! きみ、彼の嫉妬深さを知らないんだ! こんなところを見られようものなら……」
ぶるりと身震いして思い切り顔をしかめ唇を突きだした彼の変顔に、僕まで笑ってしまったよ。
ひとしきり笑って彼は真顔になり、皮肉気に唇を歪めた。
「寮長連中がここに集まっている間に、監督生が各寮の寮長室、副寮長室に立ち入り検査を行っているんだ。続々、見つかっているよ。きみのリストのおかげだ。相当の処分者を出すことになりそうだよ」
「その筆頭が僕だ」
微笑して、少しだけ首を傾けて彼を見つめた。
「約束して、ケネス。絶対に僕のことを庇うんじゃないよ。きみは亡くなったキングスリー先輩の遺志を継いで、ジョイントの販売網を一網打尽にするためだけに僕に近づき、監視していたんだ。決して月下美人の色香に負けて僕の擁護を買ってでた、なんて、下種な奴らの無様な噂の種になるような真似だけはしないで」
「僕はなにを言われようと、そんなことは気にしない」
すかさず膨れっ面をする彼に、僕は眉根を寄せて頭を振った。
「駄目だよ、ケネス。大鴉と同じように、きみも僕にとっての聖域なんだ。彼は永遠に触れることのできない僕の月。そしてきみは、彼と同じ高潔さを持ちながら、僕の許まで降りてきてくれた月光だよ。僕の心は僕だけのものだ。たとえきみにだって僕の聖域を汚して欲しくはないんだ。真実は僕の中に。きみだけが知ってくれていればそれでいい。それで僕は救われる。お願いだよ、ケネス、約束して。僕を安心させて」
真剣に、誠心誠意心を込めてお願いした。
僕のために、これまで彼はどれほどその評判を落とし、それでもなお、盾となって僕を守ってくれていたことか――。
これは、彼の名誉を挽回する最後のチャンスでもあるのだ。
「言いたい奴には言わせておけばいい。僕も、ジョナスも、そんな下らないことのために、きみがむざむざ貶められるのを許すことはできないよ」
頑固な銀狐……。
「なんて分からず屋なんだ、きみは!」
腹が立って、僕は思わず彼を罵っていた。
「そのセリフ、そっくりそのままきみに返すよ! どうしてきみは、そう自滅的な思考しかできないんだ!」
銀狐も負けじと言い返してきた。口論になると僕に勝ち目はない。貝のように口を閉ざしてそっぽを向いた。どうせ、きみたちがどれほど僕を弁護してくれようと、僕の処遇は確定的だ。だからこそ、卑しい僕に貼られたレッテルに巻きこまれないでくれと頼んでいるのに……。
だけど――。これだけは、譲ることができない大事なことなのだ。
混乱する頭をもう一度整理し直し、順を追って話してみた。
「聞いて、ケネス。きみだって一度は解ってくれていたじゃないか」
狼の意図に気づいた時、僕が思いつくことのできた選択肢はわずかしかなかった。
もし、僕が彼の前から逃げ隠れした場合、狼は容赦なく鳥の巣頭に喰いつくだろう。
もし、僕が自ら死を選んだら、鳥の巣頭は僕のことで強請られる理由がなくなって助かるかもしれない。けれど、僕のせいで彼らにつけ込まれることになった大鴉は、おかまいなしで狼の餌食だ。
もし、僕が自首して警察にすべてを話したら――。僕はその場では助かるかもしれない。でも一時だ。狼は必ず僕に報復する。間違いなく、鳥の巣頭や銀狐を傷つける。それに彼は捕まらない。
証拠がなかった。ジョイントの支払い代金の振り込み先は健康食品の会社で、顧客は栄養ドリンクを買ったことになっている。品物の受け渡しに来るのも、彼の部下とさえいえないような、その場限りで雇われた連中ばかり。僕たちと狼との会話は曖昧で、録音したところで証拠にはならないだろうと、銀狐にも言われた。警察に話したところで、狼までは捜査の手が伸びないだろう。僕たちはそう判断した。
銀狐、きみも僕に賛同してくれたじゃないか。
僕のことで必ず強請られることになる鳥の巣頭を、この狼から守る。
報復を受けることなく、疑われることなく、不可抗力だと思わせて。
それには、狼と一緒に僕もその場で逮捕されることが一番だと思った。取引現場に顔を出さない狼を、何としてもひきずり出して捕まえること。僕の計画とは悟られないで、僕と一緒に刑務所行き。それしかない。
これで、鳥の巣頭はこれからもずっと、真っすぐな綺麗な道を歩いて行くことができるのだ。汚れ切った僕とは、違う道を――。
だから銀狐にすべてを話して、一緒に計画を練ってもらったのに。
今になって僕を擁護しようとするなんて!
僕たちの計画が、すべて水の泡になってしまうじゃないか……。
狼を捕まえたところで、彼は組織の人間だ。僕が彼を売ったことが知れれば、鳥の巣頭だって危険に晒されるかも知れないのに――。
それに銀狐、きみも!
もう、こんな僕に関わってはいけない!
必死に訴える僕の言葉に耳を傾けた後、銀狐は怒りを押し殺しているような、そんな震え声で呟いた。
「きみの名誉は? きみの人生は? マクドウェルを捕まえた後も、きみの人生は続いていくんだよ。これで終わりじゃないんだ」
小舟の上に
降り注ぐは
月光
ボート小屋までの川縁の道行を横並びに歩きながら、銀狐はずっと早口でぶつぶつと呟いていた。電話で指示を出しているのだ。
テムズ川の、曇天に混じり合う暗い水流から上がってくる川風が、僕たちの髪を容赦なくなぶって吹き抜ける。寒そうに首をすくめる銀狐の首筋が青白く鳥肌を立てているようで、僕は彼の肩を抱き、その首に腕を巻きつけた。
彼は僕をちらりと見てにっと笑い、やっと、ほっとしたような息を漏らした。
「各寮長は合流したようだよ。この辺りで待っていよう」
ボート小屋の手前で足を止め、銀狐は道を少し逸れた林の中に足を向けた。凍てついていた黒土はいつの間にか緑に覆われている。いまだ寒々とした裸の枝を空に向ける樹々の足下には、そこかしことクロッカスが薄紫の花を咲かせていた。僕の嫌いなスノードロップはもうどこにも見当たらない。
「さすがに寒いな。樹の陰にでもいよう。少しは風除けになるかもしれない」
頷いて、少しでも温まるようにと彼に身を寄せた。
「僕のマフラーを半分使う?」
「嫌だよ、ジョナスのプレゼントを共有するなんて」
彼は僕の巻いているワインレッドのマフラーをちらりと見て、首をすくめて苦笑する。
「あいつはそんなことで怒ったりしないよ?」
「とんでもない! きみ、彼の嫉妬深さを知らないんだ! こんなところを見られようものなら……」
ぶるりと身震いして思い切り顔をしかめ唇を突きだした彼の変顔に、僕まで笑ってしまったよ。
ひとしきり笑って彼は真顔になり、皮肉気に唇を歪めた。
「寮長連中がここに集まっている間に、監督生が各寮の寮長室、副寮長室に立ち入り検査を行っているんだ。続々、見つかっているよ。きみのリストのおかげだ。相当の処分者を出すことになりそうだよ」
「その筆頭が僕だ」
微笑して、少しだけ首を傾けて彼を見つめた。
「約束して、ケネス。絶対に僕のことを庇うんじゃないよ。きみは亡くなったキングスリー先輩の遺志を継いで、ジョイントの販売網を一網打尽にするためだけに僕に近づき、監視していたんだ。決して月下美人の色香に負けて僕の擁護を買ってでた、なんて、下種な奴らの無様な噂の種になるような真似だけはしないで」
「僕はなにを言われようと、そんなことは気にしない」
すかさず膨れっ面をする彼に、僕は眉根を寄せて頭を振った。
「駄目だよ、ケネス。大鴉と同じように、きみも僕にとっての聖域なんだ。彼は永遠に触れることのできない僕の月。そしてきみは、彼と同じ高潔さを持ちながら、僕の許まで降りてきてくれた月光だよ。僕の心は僕だけのものだ。たとえきみにだって僕の聖域を汚して欲しくはないんだ。真実は僕の中に。きみだけが知ってくれていればそれでいい。それで僕は救われる。お願いだよ、ケネス、約束して。僕を安心させて」
真剣に、誠心誠意心を込めてお願いした。
僕のために、これまで彼はどれほどその評判を落とし、それでもなお、盾となって僕を守ってくれていたことか――。
これは、彼の名誉を挽回する最後のチャンスでもあるのだ。
「言いたい奴には言わせておけばいい。僕も、ジョナスも、そんな下らないことのために、きみがむざむざ貶められるのを許すことはできないよ」
頑固な銀狐……。
「なんて分からず屋なんだ、きみは!」
腹が立って、僕は思わず彼を罵っていた。
「そのセリフ、そっくりそのままきみに返すよ! どうしてきみは、そう自滅的な思考しかできないんだ!」
銀狐も負けじと言い返してきた。口論になると僕に勝ち目はない。貝のように口を閉ざしてそっぽを向いた。どうせ、きみたちがどれほど僕を弁護してくれようと、僕の処遇は確定的だ。だからこそ、卑しい僕に貼られたレッテルに巻きこまれないでくれと頼んでいるのに……。
だけど――。これだけは、譲ることができない大事なことなのだ。
混乱する頭をもう一度整理し直し、順を追って話してみた。
「聞いて、ケネス。きみだって一度は解ってくれていたじゃないか」
狼の意図に気づいた時、僕が思いつくことのできた選択肢はわずかしかなかった。
もし、僕が彼の前から逃げ隠れした場合、狼は容赦なく鳥の巣頭に喰いつくだろう。
もし、僕が自ら死を選んだら、鳥の巣頭は僕のことで強請られる理由がなくなって助かるかもしれない。けれど、僕のせいで彼らにつけ込まれることになった大鴉は、おかまいなしで狼の餌食だ。
もし、僕が自首して警察にすべてを話したら――。僕はその場では助かるかもしれない。でも一時だ。狼は必ず僕に報復する。間違いなく、鳥の巣頭や銀狐を傷つける。それに彼は捕まらない。
証拠がなかった。ジョイントの支払い代金の振り込み先は健康食品の会社で、顧客は栄養ドリンクを買ったことになっている。品物の受け渡しに来るのも、彼の部下とさえいえないような、その場限りで雇われた連中ばかり。僕たちと狼との会話は曖昧で、録音したところで証拠にはならないだろうと、銀狐にも言われた。警察に話したところで、狼までは捜査の手が伸びないだろう。僕たちはそう判断した。
銀狐、きみも僕に賛同してくれたじゃないか。
僕のことで必ず強請られることになる鳥の巣頭を、この狼から守る。
報復を受けることなく、疑われることなく、不可抗力だと思わせて。
それには、狼と一緒に僕もその場で逮捕されることが一番だと思った。取引現場に顔を出さない狼を、何としてもひきずり出して捕まえること。僕の計画とは悟られないで、僕と一緒に刑務所行き。それしかない。
これで、鳥の巣頭はこれからもずっと、真っすぐな綺麗な道を歩いて行くことができるのだ。汚れ切った僕とは、違う道を――。
だから銀狐にすべてを話して、一緒に計画を練ってもらったのに。
今になって僕を擁護しようとするなんて!
僕たちの計画が、すべて水の泡になってしまうじゃないか……。
狼を捕まえたところで、彼は組織の人間だ。僕が彼を売ったことが知れれば、鳥の巣頭だって危険に晒されるかも知れないのに――。
それに銀狐、きみも!
もう、こんな僕に関わってはいけない!
必死に訴える僕の言葉に耳を傾けた後、銀狐は怒りを押し殺しているような、そんな震え声で呟いた。
「きみの名誉は? きみの人生は? マクドウェルを捕まえた後も、きみの人生は続いていくんだよ。これで終わりじゃないんだ」
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