微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

194 三月 作戦

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 張り巡らされた
 意図と糸
 掛かるのはどっち?



 僕は副寮長と肩を並べて、狼のフラットへの道々を下っていた。
 今回はボート部の子たちは留守番だ。前回の天使くんの誘拐の失敗で、彼らは狼から叱責されるのをとても恐れているから。
 だから今日は僕と副寮長だけで狼との会合を持ち、話をつけ、本番では彼らに手柄を立てさせてやって名誉挽回してあげる、そんなふうに彼らには話してある。

 僕の横を歩く副寮長は、今日はすこぶる機嫌がいい。一晩を過ごした後だからか。そうやって彼と一緒に立てた計画のベースは、銀狐と大鴉の考えたものだ。完璧だ。申し分ない。後は――。


「そうだ。きみ、寮に戻ったら顧客リストを一度僕にも見せてくれないかな?」
「え? 何か問題でもありましたか?」
「問題ってほどでもないのだけど、最近、何人かの子たちにつきまとわれて困っているんだ。もしかして、まだジョイントを買えば僕を好きにできると思っている子がいるのかと思って。きみが販売管理をしてくれるようになってから、ただのストーカーなのか、そういう根拠のある思い込みでつけ廻しているのか区別がつかなくって。もし顧客リストにいる子たちなら、僕ももっと気をつけておかないといけないし……」

 ラグビー部のキャプテンの処置が知れ渡っているのだから、僕に対してあんな強行手段にでる馬鹿な輩なんて、そうそういる訳がない。
 けれど、不安そうに目を瞬かせて見あげた僕に、彼は顔色を変えて「分かりました」と頷いてくれた。次いで「心配しないで下さい。僕がいつでもお傍にいますから」と真剣な口調で言われた。僕は微笑して「ありがとう」と言っておいた。


 だが、この副寮長とボート部の子たちのせいで、ジョイントの管理はめちゃくちゃなことになっているのだ。
 これまでの部活単位の販売から、今では寮単位の販売だ。ジョイントを媒介にして繋がった寮長や副寮長を抱きこみ、秘密クラブのようなことまでしているらしい。彼らは売上げを増やし、狼の機嫌を取ることしか考えていない。ジョイントを校内に広げ常用者を増やすことの危険性なんて考えもしない。

 梟がどれほどジョイントの秘密を守り、特権階級の密やかな愉しみとして収めることに気を遣ってきたことか――。

 彼が今の現状を見たら、唇の端で嗤い「潮時だな」と言うだろうな……。賢い彼のことだから、ボート部の子たちに後を任せた時点でこうなることを予測して、自分はさっさと身を隠したのかもしれない――。


 けれど賢い梟でも、たった一つだけ読み違えた。大鴉のことだ。

 天使くんの誘拐未遂事件を通じて解ったこと。それは、大鴉の証券詐欺事件には、梟も、狼も関係なかった、ということだ。詐欺事件には関わっていない、けれどその事件の首謀者は狼の古い知り合いだった。

 狼が僕をジョイントの販売のために指名してきたのは、もとより大鴉が目的だったのだ。上級生にあがったばかりのボート部の子たちよりも、生徒会内部にコネがあり、奨学生に繋がりのある僕の持つ情報が狙いだった。

 もっと言えば、銀狐から情報を引きだすため――。
 せっかく梟は、僕を自由にしてくれようとしたのに……。

 でも、お陰で大鴉の危機をこうして助けることができる。まったく、なにが幸いするか分からないじゃないか。僕みたいな人間が、どれほど鳥の巣頭にとって有害で、危険をもたらす存在か、ってこともよく解ったしね。

 きっと、大鴉のことがなくたって、狼は僕の存在意義に気づいただろし、そうしたら行き着く先は結局は同じだ。


 ――僕はそういう存在だもの。

 腐った芳香を放つ花。爛れた蜜を好む害虫を集める花だ。僕は無意識にそんな香を放っている。腐りかけの果物のように。散り際の花のように。




 狼のフラットに着き、副寮長が彼と計画を話し合っている間、そんな物思いに耽っていた。

「契約書? サインですか?」
 いきなり素っ頓狂な声をあげた副寮長に驚いて、僕は伏せていた面をあげた。
「さすがにそれは……」
「その子さえこちらの手の内にあれば、どうとでもなるだろう?」
 自信満々の笑みを湛えた狼の、あの貼りついた三日月の笑みを見つめた。

 やはり銀狐の言う通りだ。狼は大鴉に、僕にはよく理解できない株式の不正売買をさせたいようだ。そのために狼の知り合いの怪しい会社と契約させ、留学生である大鴉が本国に逃げ帰れないように契約書で縛るつもりなのだ。

「僕たちでは無理です。相手はあの銀ボタンですよ。ものすごく口が立つ子なんです。あの年齢でケンブリッジ大学に合格が決まっているような頭脳の持ち主なんです。あんな子とやり合うなんて――。僕たちだけでは、荷が勝ちすぎです」

 ここで狼を引きずりだせないと計画は終わりだ。

 僕はここにきて初めて口を挟み、必死で言葉を連ねた。
 大鴉がいかにずる賢くて口達者で、敵味方関係なく煙に巻いてしまう魔法のような話術の持ち主で、おまけにどこから仕入れてきたのか判らないような、個人個人の弱みを握っていることを。さらには容赦ない性格で、授業でも先生方を言い負かしてしまい、先生方の権威の失墜を防ぐために、教室出入り禁止になった授業さえあること等々。

 ああ、僕の大鴉は、なんてとんでもない奴なんだろう……!

「正直、あの子と挨拶以上の口をきくのは怖くてできない、ってくらいなんです」

 狼は僕の必死の演説を、にやにやと笑いながら聴いていた。

「そんな面白い子なのかい? それほどの子なら私も逢ってみたいな」

 指に挟んでいた煙草を揉み消し、次いで、ねっとりとした目つきで、狼は僕を見おろすように見つめた。

「私の友人がこれほどまでに執着する子だしね。先方からのたっての依頼だ。きっちりとサインをもらってこないとね」

 狼の灰色の目が光る。僕の心を見透かすように。

「これは、ビジネスだから」

 散々メールで大鴉をいたぶって脅迫しておいて、ビジネスも何もないだろう――。

 声を立てて楽しそうに笑う狼に、背筋の凍りつきそうな恐怖を覚えながら、僕は同時に安堵していた。

 これでいい。これで僕の最大の任務は、無事果たすことができたみたいだ……。

 そう思えるだけで、引きつった笑みにも、力が入るというものだ。




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