微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

193 空の月

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 届かぬ月に
 想いを託し



「ケネス、」
 開け放された監督生執務室のドアをノックしようとしていた僕を、「しぃ」っと銀狐が唇に人差し指を当てて止めた。

 銀狐の腰かける椅子のすぐ横にあるソファーには、大鴉がいつものようにすやすやと微睡んでいる。
「入っておいでよ」
 銀狐は僕の顔を見ても席を立とうとはせず、手招きして僕を呼んだ。

 俯いて立ち尽くしたままの僕を見て、彼は呆れたように吐息を漏らし、ドアの近くの円形の会議テーブルまで移動してきて、そこの椅子を二客引き出して一方を僕に勧めてくれた。
「ドアを閉めて」
 僕は言われた通りにし、ぎくしゃくと椅子に腰かけ、恨めしい思いで彼を睨んだ。

「真っ赤になっちゃって。きみって、本当、分からない子だよねぇ」
 つくづくと僕を見つめながら銀狐はくすくすと笑う。
「悪かったね、彼は僕に取って特別なんだよ!」
 僕は声を潜めて文句を言った。僕を揶揄うつもりだとしても、こんな真似は止めて欲しい。

「生徒会室よりもこっちの方が話しやすいんだけどね、きみがそんなんじゃ無理そうだね」
 銀狐の揶揄うような瞳がきらきらと金色をはぜる。
「こんな意地悪に瞳を輝かせるんじゃないよ! 性格最悪!」
「酷い言いようだな! ジョナスと別れて傷心のきみに、気をきかせてあげたのに!」
「よけいに落ちこむよ! だって僕は」

 彼に多大な迷惑をかけているのに……。

 と言いかけて、寝返りを打った彼の衣擦れの音に慌てて口を覆った。黒のローブの端から長い指先が覗いている。以前見かけたときよりも長く伸びた黒髪が、さらさらと額にかかっている。思わず触れたくなるような艶やか黒に、僕はまた顔を赤らめて慌てて目を逸らした。そんな僕を見て銀狐はため息をつく。僕たちは互いに顔を見合わせ、監督生室をそっと後にした。



「仕方がない、カフェテリアにでも行こうか」
 肩をすくめる銀狐に、僕は少し不貞腐れた面を向けた。
「僕にとって彼は、」
「神聖、侵すべからずの空の月だろ?」
 さっきの様な揶揄う調子ではなく、少し苛立たしげな口調で彼は言った。

「あの子は、きみの思っているような子じゃないよ」

 どこか吐き捨てるような口調だった。

「僕は彼に意味なんて求めていないよ。彼が自由に羽ばたいてくれていれば、それで僕は満足なんだ」
 銀狐は真っすぐに前を見つめたまま僕に問うた。
「きみの決意は、ジョナスのため? それとも、あの子のため?」
 僕は少し考えた。
「両方。僕は欲張りなんだよ」
 黙りこんだ彼の横顔を、ちらりと見あげる。

「僕はね、彼に感謝しているんだ。きみの言う通り、僕にとって彼は空にかかる月だよ。決して手の届かないね。だけど、彼を見るために、彼を探すために、僕はやっと地べたばかり見つめていた自分の面を空に向けることができたんだ。広い空に面を向け、そこに美しい月を見出した。解るかな?」

 銀狐に、というよりも自分自身の想いを噛みしめるように話していた。おそらく、誰にも打ち明けることのないこの想いを、誰かに、銀狐に、聴いて欲しかったのかもしれない。確かに存在した、僕の大切な想いの証として。

「あいつは僕に温もりをくれたけれど、地べたを這いずる僕の傍で一緒に泥まみれになってくれるあいつだけでは、僕は頭上に空が広がっていることにすら気づけなかったんだよ」

 銀狐はなにか言いたげに、でも言うことを躊躇うように唇を引き結ぶ。

「彼の存在が僕の救いだった」
「あの子は、きみのそんな想いを知らないのに――」
「かまわない。恨まれこそすれ、それ以上の理解なんて僕は望まない」

「明日の、きみの試練。僕は役立つ情報をあげれそうだよ……」

 銀狐は立ち止まり、真っすぐに僕を見つめた。

「一つだけ、言ってもいいかい? きみが彼らに渡した銀ボタンくんの投資助言メールには、初めからウイルスが植えつけられていたんだ。彼のメールやアドレスが不正利用されたとき、速やかに相手の身元を割りだせるようにね。もしきみの手助けがなくても、行き着く結果は同じだろうと僕は思う。だけど、」

 銀狐は、息を震わせ深く息を吐いた。

 彼は怒っているようだった。僕にではなく、おそらく大鴉に。
 さっき、銀狐が僕を監督生執務室に招いたのは、眠っている彼の横で会話しようとしたのは、決して僕を揶揄うためなんかではなくて、なんらかの意図があったのかもしれない、と僕は陰鬱な面持ちで言葉を探す彼をぼんやりと眺めていてふと思い至った。

 彼は、僕たちの会話を、大鴉に聞かせたかったのではないか、と――。

 優しい銀狐……。
 ごめんよ。きみのその苦悩も、もうじき終わる。

 やっと口を開いた彼は、歯切れの悪い調子で言葉を継いだ。

「あの子は、恐ろしく容赦のない子なんだよ。手段を選ばない。だけど、僕はきみのお蔭で、――その、いろんな面で傷は浅く済ますことができると、感謝してるんだ」
「まだ、これからだよ」
「最後の作戦を」

 銀狐は決意を固めたのか、おもむろに僕の肩を抱いた。

 だから僕は、これで本当に最後なんだな、と安堵した。

 失敗すれば終わりだ。もう後はない。
 だけど、大鴉も、銀狐も絶対にしくじらない。
 そのくらい、僕は彼らを信じていた。




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