微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

192 シャツ

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 悲喜色の記憶は
 あざなえる縄のように
 のたうつ
 




 休暇中の出来事を銀狐に話した。かい摘んで話し終えると、彼は顔をしかめて深く嘆息した。
「なにも別れる必要はなかったんじゃないの?」
「そうはいかないよ。だって、あいつは馬鹿だもの」

 いつも空いている副総監の席に座っていた僕は、机に頬杖をついて隣に座る彼と小声で会話していた。僕と銀狐が顔を寄せ合う度に、ドアの近くの長テーブルで書類整理をしている副寮長が不愉快そうに僕を睨む。

「そりゃあ、恋をしていれば馬鹿にもなるだろ」

 銀狐の彼らしくない意見に、思わず吹きだしてしまった。銀狐と、副寮長のどちらからも睨まれ、僕は口許を隠してますます笑ってしまう。

「知ったようなことを言うようになったね、きみも!」
 揶揄うように見つめた僕を一瞥すると、銀狐は眉をひそめてあらぬ方向を見遣り小声で訊ねてきた。
「それで、ジョナスの代わりにあの子とつきあうって?」
「つきあう訳じゃないよ」
「そんなので彼、納得したの?」

 ちらりと副寮長に視線を向ける。と、彼は恨めしそうな顔をして僕を見ていたのに、目が合うとほっとしたようで、微笑みを浮かべて「先輩、お茶を淹れましょうか?」と声をかけてきた。
 僕の返事を待たずに、周囲の連中にも同じように声をかけ、いそいそと立ち働いている。そんな彼を眺めていると、無意識にため息が漏れていた。

「きみはあいつがどれほど馬鹿か知らないからさ、」
 もう一度、僕は銀狐と顔を見合わせた。
「あいつが馬鹿な真似をしないように、ちゃんと僕の横は塞いでおかないと」
「馬鹿な真似って? 前にも言っていたよね。きみとあの子のことに文句をつける、って意味じゃなかったの?」
 不思議そうに小首を傾げた彼に、僕はふふっと笑い声を漏らした。
「そうじゃない。そんなことで、あいつはみっともない真似をしたりしないよ。心配なのは、僕を擁護したりしないか、ってこと」
「どういう意味?」
「僕たちはもう十九なんだ。子どもじゃない」

 銀狐は納得したのか、息を漏らした。こんなとき、賢い彼は話が早くて助かる。

「先輩、どうぞ」
「コスナー、わきまえて」

 僕の前に置かれたティーカップを、僕は黙って銀狐にまわした。視線を落とし唇をかすかに動かして、彼はごにょごにょと何か口籠り、僕の前に別のティーカップを置いて踵を返した。

「可愛いものじゃないか。可哀想に。きみの毒牙にかかって、あの子はもうボロボロだね。恋は、酒よりも、薬物よりもよほど強い酩酊と中毒性をかね揃えていると、肝に銘じておくよ」
「恋と性欲をはき違えているだけさ」
「身も蓋もない言いようだね」
「経験値からくる推察だよ」

 お茶を飲みながら澄まして答えると、今度は銀狐の方が噴きだして、声を殺して笑っていた。

「そんな事より……」

 ざわざわと活気のある執務室内では、役員連中がそれぞれの役割をこなし活発な会話が飛び交っている。
 そんな中で僕たちは書類を片手にしかめっ面で難解な問題を話し合っている様を装いつつ、こんなたわいのない話をしていたのだ。
 だが、ここからは例え片言でも誰かに聞かれるとまずいので、僕は銀狐を書庫に誘った。



「銀ボタンくんの様子はどう?」
「脅迫の度合いは増してきているようだよ」
 底冷えするきんと張り詰めた空気の中で、僕たちはやはり隣り合わせに座り、声を潜めて囁きあった。
「本当にこんな方法で上手くいくのか、不安になってきた」
 僕はこのところずっと心中に燻っていた不安を吐露する。
「きみにこれ以上危険な真似はして欲しくない。でも、このままじゃまた蜥蜴の尻尾切りだ」
「解っているよ。僕だってそれじゃ、あいつと別れた意味がない」
 僕は傍らの彼の肩に手を重ね、その上に額をのせた。

「週末、会合に行くと思うんだ。連絡はまだだけど」
「それで?」
「なにか、とびきりの美味しい餌はないかな? 手土産になるような」
 不安に瞳を潤ませて間近から見あげた銀狐は、困ったような、怒っているようなそんな顔で、眉根を寄せている。
「……週末までに用意しておくよ」
 そして立ちあがり、ため息を一つ。
「きみと友人でいるのは、毎日が試練だな」
「試練に耐えてこその悦楽だろ?」
「どうだか!」

 銀狐は、肩をすくめて苦笑している。僕たちは顔を見合わせ、残りわずかな時間を思い、どこか物悲しさを覚えながら頷き合った。




「寮長、もうお休みですか?」
 消灯時間をとっくにまわってからの執拗なノックの音と囁き声に、ため息をついて起きあがる。
 ドアを開けると、仄暗い常夜灯の照らす廊下に副寮長が立っている。
「なに? こんな夜中に」
「明日のことで」
「今じゃないと駄目なの?」
 眉をしかめて見あげると、副寮長は唇を引き結んで僕を、僕のシャツを見ていた。

「おやすみ」
 ドアを閉めようとした隙間に足を挟み込み、彼は僕の部屋にするりと入ると僕の腕を掴んでソファーに突き倒した。

「それ、誰のシャツですか?」

 僕の着ている、明らかにサイズの大きい制服のウイングカラーシャツを、引きちぎらんばかりに握りこんでいる。

「僕のだよ。寝間着代わりにしているだけだ」
「誰に貰ったんです?」
 肩を掴んで揺さぶられ、僕は腹立たしさに彼を睨めつけた。

「忘れたの? 僕を傷つけたらケネスが黙ってないよ」
「そんな、今さら……」
「一回、二回寝たくらいで恋人面するんじゃないよ」
 僕は彼の胸元を押し戻し、ドアに向かって顎をしゃくった。

「おやすみ、副寮長。話は明日聞くよ」

 彼は項垂れて、「申し訳、ありません」と呟いて、のろのろとこの部屋を出ていった。


 僕はドアに鍵をかけ、急いでシャツを脱いで窓辺の月明かりに照らし見た。

 鳥の巣頭が卒業するときに貰ったシャツ……。破れたりしなかっただろうか?

 どうにもなっていないのを丁寧に確認して、ほっと安堵し、シャツの首周りにそっと唇を当てた。


 良かった。
 僕はきみの匂いに包まれていないと、もう、わずかに眠ることさえできないのだもの――。




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