微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

190 黄水仙

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 時は翔ける
 光の花の
 香に乗って



 学校が始まるまでの残りの日々を、僕たちは今までと変わりなくすごした。違いといえば、鳥の巣頭がその間大学を休んだということ。それに、夜のすごし方くらいだ。

 その日、あいつは暖房のラジエーターの前に転がって、犬か猫のように丸くなって寝ようとしていた。僕がベッドに入るように言っても、首を振って「それはできない」と言う。だから、「一人じゃ寒くて眠れないんだ」と頼んだ。
 あいつは辛そうに眉根を寄せて、ベッドに来てくれた。それから、僕に向き合って横たわった。

「きみは、酷い奴だね」
 鳥の巣頭は震える声で呟いた。
「それでもきみは、そんな僕が好きなんだろ?」
 僕はこいつに訊ねてみた。
「きみを抱いてもいいの?」
「かまわないよ」
「他の奴を好きなのに?」
「きみの好きにすればいい。僕の意志なんか関係ないだろ? その方が慣れてる。僕はそんな奴なんだよ」

 鳥の巣頭は僕を抱き寄せて首筋に顔を埋め、腕に強く力を籠めた。

「そんなことを言わないで、マシュー。そんな奴、なんかじゃない。きみはきみだよ。自分自身の意志を持った、とても魅力的な素敵な人だよ。僕の大切な、大好きなきみを貶める言い方をしないで」

 それきり、ただ強く抱きしめるだけで、こいつはそれ以上のことは何もしなかった。僕は安心しきって眠りについた。

 翌朝目を覚ました僕に、鳥の巣頭は「おはよう、マシュー」と、いつもと変わらない優しいキスをくれた。唇にではなく、額にだったけれど。



 食事をして、散歩をして、まだすぐに疲れてしまうからフラットに戻って休んで、遅めのランチをカフェで食べて――。たわいのない会話をして、限られた残りわずかな日々をすごした。
 午後からはフラットの向かいに広がる公園に、毎日のように散歩に行く。外に出て歩いた方が良く眠れるから、とこいつが言うから。


 冬枯れた樹々の狭間のあちこちに、黄水仙がいくつも、いくつも、陰鬱な灰色の空に向かって緑の真っ直ぐな芽を伸ばしていた。

「きみの家の白樺の林の、あの黄水仙の群生を、もう一緒に見ることもないんだね」
 寒空の下、ベンチに腰をおろして僕はぽつりと呟いた。
「もし、きみが、黄水仙を見たいのなら……」
「もういいよ」

 僕はこいつの言葉を遮って、重たい、今にも雨が落ちてきそうな曇天に顔を向けた。

 黄水仙が咲く頃には、僕は、きみには逢えない場所にいる。



 鳥の巣頭の部屋で、うつらうつうらと良く眠った。これまでの緊張が一気に解けたのか、自分でもよく判らないけれど、とにかくふわふわと微睡んでいた。日向ぼっこする猫のように、鳥の巣頭の傍で冷え切っていた心を温めていた。

 あんなに酷いことをたくさん言ったのに、こいつはやっぱり相変わらず優しくて。でも時々、僕が紅茶を淹れていて急に振り返ったときとか、目が覚めてこいつを探して部屋をぐるりと見廻したときなんかに、迷子になった子どもみたいな不安そうな、泣きだしたいのをぐっと我慢しているような、そんな顔をして僕を見ていた。


 ハーフタームの最終日、目を覚ますとラベンダー色の窓枠に、金色のお日さまのような黄水仙が咲いていた。縦長のガラスの花瓶に無造作に飾られた柔らかな金色は、穏やかな春の訪れを先駆けていた。窓の外はいまだ凍てつく冬の冷気に覆われ、黄水仙の芽も固くその蕾を閉ざしているというのに。

「おはよう、マシュー」
 鳥の巣頭がいつものように、額にキスをくれる。僕も「おはよう」とキスを返す。

 鳥の巣頭が用意してくれた朝食を、ゆっくりと食べた。
「今日は買い物にでよう。寮で必要なものはない? 夕飯は外で食べようよ。早めに予約を入れてね。それから寮に送っていくよ」
「買い物はかまわないけれど、レストランで食事は無理じゃないかな。もう少し早めに寮に戻らないと。明日からの準備もあるし」
 僕は小首を傾げて少し考えた。正式なディナーなら二時間はかかるだろうし、ここから寮までの移動時間、門限と兼ね合わせると、どうもこの計画は現実的じゃない。

「それなら、ランチを外で。夕食は、」
「車でかまわないよ」
 鳥の巣頭は珍しく唇を尖らせて、頭を横に振った。
「早めに戻ってきてここで食べよう。それから出発だ」
 どうしてそんなに食事なんかに拘るんだと不思議に思いながら、僕は苦笑して頷いた。


 とはいえ、寮で必要なものなんて特に何もなかった。鳥の巣頭は、着替えや、日用品や、あれやこれやと買いたがったけれど、邪魔になるからと断った。
 久しぶりに人混みを歩いて酷く疲れた。だからランチはカフェで軽めに済ませた。食後しばらく、僕はそのまま休憩を取ることにして、鳥の巣頭は一人で夕食の総菜を買いにいった。

 ほどよく温まったオレンジ色の店内に、耳障りの良い音楽。ざわざわとした穏やかな話声に、意識がふわりと躰を離れる。ぼんやりとしていると、このまま解けてばらばらになりそうだ。
 僕は眉根を寄せて、鳥の巣頭の飲み残していった冷めたコーヒーを口に運ぶ。口に広がる苦みに必死に意識を呼び戻す。

 苦いコーヒーは大鴉の香り。
 逃げだすことなどできない審判の時が迫っている。


「マシュー、お待たせ」
 鳥の巣頭の声に安堵の吐息が漏れる。
「くたびれた。早く帰って休みたい」
 思わずこいつの腕を掴んでいた。


 フラットに戻って、僕はそのままベッドに倒れこんで眠ってしまった。眠たかったというより、張り詰めていた神経がぷつんと切れたみたいだった。
 あるいは、こいつの傍を離れたら、僕にはもう安らかな眠りなど訪れることはないと解っていたからかもしれない。





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