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最終章
189 残酷な朝
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零れたミルクも
零れた言葉も
もう、元には戻れない
翌朝、鳥の巣頭は大学へ行かなかった。
どんよりと澱んだ微睡みから僕を引きずりだしたのは、ねっとりと部屋にこもるトマトとスパイスのぶつかり合う香りの粒子だった。
「なんなの、この匂い?」
僕は頭をもたげて、部屋の片隅にある簡易キッチンに立つ鳥の巣頭の背中に声をかけた。むせかえるような鼻を刺す酸味に吐きそうだ。
「マシュー、おはよう。ちょうど、ミネストローネが温まったところだよ」
鳥の巣頭の弾んだ声が耳の奥で反響する。
「窓を開けて。部屋が臭くて息ができない」
一瞬きょとんとした顔をして、こいつは慌ててコンロにほど近い窓を開けた。
「大学は?」
「今日は休んだんだ。きみの具合が良くなさそうだからね」
トースターにパンを入れながら鳥の巣頭は、歌うように喋る。
「平気だよ」
「じゃあ起きて。食事にしよう」
匂いだけで吐きそうだっていうのに?
半身を起こしてベッド座りこんだまま、僕は顔をしかめて首を振った。ひどく眩暈がする。
「お茶だけでいい。ミネストローネは好きじゃない」
「じゃあ作り直す。なにがいい?」
僕の我儘に、鳥の巣頭の瞳が哀しそうに揺れている。
「なにもいらない。お腹は空いていないんだ」
「マシュー、」
心配そうに顔をしかめてベッドの端に腰かけると、こいつは僕の髪を梳き、そのまま僕をそっと胸にかき抱いた。
「何があったの?」
「…………」
「僕には言えないようなこと?」
「……もう、きみとはつき合えない」
「なぜ?」
「他に好きな奴がいるんだ」
「あの銀ボタン? それとも、コスナー副寮長?」
「……コスナー」
鳥の巣頭の深いため息が僕の髪を揺らす。
「きみが本当に彼を好きなら、僕はいつだって身を引くよ。でもね、マシュー、僕はね、きみにジョイントを渡すような奴に、きみを渡す訳にはいかないよ」
「無理なんだよ、僕には……。苦しいんだ。解って」
「解るよ、マシュー。きみが苦しいなら僕だって苦しい。どんなに離れていたって、僕はいつだってきみのことばかり思っているのだから」
僕の頬を両手で包み、栗色の瞳が僕の目を真っ直ぐに見つめる。
「きみのそういうところが、もう、嫌なんだ」
僕は顔を背け、こいつを突き放した。僕が突いたところで、こいつはせいぜい手を離した程度で、びくとも動かなかったけれど。
「僕は、きみの中の僕の重みに押しつぶされそうになるんだ。きみは僕に価値を与えてくれようと必死だから」
溢れでる涙を止められないまま、僕は喋り続けた。
「もう僕を自由にして。もう充分だろ? きみは充分僕に償ったじゃないか。アヌビス……、きみの兄貴の罪はきみのせいじゃない。きみはもう、僕から解放されていいはずだよ? そして、僕のことも解放して」
違う。僕はこんなことを言いたかったんじゃない。それなのに流れでる暴言は留まることを知らず、僕の意志に反して、こいつに怒涛の如く覆い被さっていく。
「なんだって僕を襲った男の弟とつきあって、その親とクリスマスを祝わなきゃいけないんだ? 何度も、何度も、あいつに犯されたあの屋敷で! あの家で僕の後見を買ってでたきみの両親に、僕の両親は顔をあげることすらできないじゃないか! 彼らはきみの兄貴の事情は知らないから、ただただ感謝を捧げている。きみたちの高貴な義務に! きみは、どこまで僕を貶めれば気がすむの?」
違う。そうじゃない。きみが僕と両親の不仲を気遣ってくれていたのは僕だってちゃんと解っている。彼らが僕を許せないのも、僕が昔の僕じゃないのも、きみのせいじゃない。きみの問題じゃない。これは僕と彼らの問題だ。僕は、ちゃんと解っている!
「きみが傍にいる限り、僕はあの事件を忘れられない。だから何度も繰り返すんだ。きみのせいだよ! 僕がいつまでもジョイントに囚われるのは! いつまで経っても、過去から逃げられないのも! きみがいるからだ!」
違う。決して、こんなふうにきみを傷つけたかった訳じゃないんだ。
「僕の存在が――」
「きみの無神経さには、もう我慢ができないんだ」
鳥の巣頭は奥歯を噛み締めて、じっと俯いて震えていた。
「ごめんよ、マシュー。きみの言う通りだよ。――でも、これだけは解って。僕は兄の罪の償いのためにきみの傍にいたんじゃない。きみを愛しているから、傍にいたかったんだ。でも確かに、それって、自分の立場をわきまえない、酷く自分勝手な行為だね。兄がきみにした行いが揺るぎない事実のように、僕が、彼の弟だということも、どうしようもない事実だ。……きみが、僕の顔を見たくないと思うのは、解るよ」
両手で自分の顔を覆い、涙を堪えるために、こいつは何度も深呼吸を繰り返した。
「お願いだ、マシュー。今の、その離脱症状が治まるまでは、僕にきみの世話をさせて。この休暇の間だけでも。そんな状態のきみを学校に帰す訳にはいかない。お願いだ、ジョイントだけは、止めて。僕のせいだと言うのなら、僕はきみの前から消えるから。ね? マシュー」
涙を滲ませながら、でもその雫を零すことなく鳥の巣頭は、率直な、真摯な瞳を僕に向けた。
「鍋――」
こいつの嘘のない瞳を見つめ返すことができなくて、僕は顔を伏せたまま呟いた。
先ほどからもうもうと湯気の上がっている小鍋からは、焦げ臭い煙までが立ち昇っている。鳥の巣頭は、慌てて立ちあがって火を止めに走った。
「悲惨なことになってる!」
声を立てて力なく笑い、僕に真っ黒に焦げついた小鍋を向ける。
「作り直すよ。何がいい? コンソメスープなら飲める?」
「クラムチャウダーがいい」
下を向いたまま答えて、僕はまたベッドにごろりと転がった。興奮しすぎて大声を出したせいか、喉が痛かった。
「マシュー、もう少し待っていて。鍋を買ってこないと! 何かいるものはない?」
「ビエネッタ。喉が痛いんだ。チョコミント味で」
「OK、すぐ戻るからね!」
無造作にコートを掴み、バタンと閉まるドアの音。鍵の音。
思ったよりも、ずっと平気な様子に安堵した。
僕はまた、きみを酷く傷つけてしまうかと思っていたのに……。
いや、傷ついたのは僕の方かもしれない……。
今まで、僕の心の奥底で燻り続けていた疑念が、こうも明確に溢れでてしまったのだから。
僕でさえ知らなかった、決して真実ではないはずの……。
だけどきみは、こんなにも酷い僕にさえ、望む通りの言葉をくれた。
僕がずっと欲しかった言葉。ずっと知りたかった真実。
きみの愛は、償いではない、と。
鳥の巣頭、僕を愛していると言って。もう一度、愛していると、言って……。
零れた言葉も
もう、元には戻れない
翌朝、鳥の巣頭は大学へ行かなかった。
どんよりと澱んだ微睡みから僕を引きずりだしたのは、ねっとりと部屋にこもるトマトとスパイスのぶつかり合う香りの粒子だった。
「なんなの、この匂い?」
僕は頭をもたげて、部屋の片隅にある簡易キッチンに立つ鳥の巣頭の背中に声をかけた。むせかえるような鼻を刺す酸味に吐きそうだ。
「マシュー、おはよう。ちょうど、ミネストローネが温まったところだよ」
鳥の巣頭の弾んだ声が耳の奥で反響する。
「窓を開けて。部屋が臭くて息ができない」
一瞬きょとんとした顔をして、こいつは慌ててコンロにほど近い窓を開けた。
「大学は?」
「今日は休んだんだ。きみの具合が良くなさそうだからね」
トースターにパンを入れながら鳥の巣頭は、歌うように喋る。
「平気だよ」
「じゃあ起きて。食事にしよう」
匂いだけで吐きそうだっていうのに?
半身を起こしてベッド座りこんだまま、僕は顔をしかめて首を振った。ひどく眩暈がする。
「お茶だけでいい。ミネストローネは好きじゃない」
「じゃあ作り直す。なにがいい?」
僕の我儘に、鳥の巣頭の瞳が哀しそうに揺れている。
「なにもいらない。お腹は空いていないんだ」
「マシュー、」
心配そうに顔をしかめてベッドの端に腰かけると、こいつは僕の髪を梳き、そのまま僕をそっと胸にかき抱いた。
「何があったの?」
「…………」
「僕には言えないようなこと?」
「……もう、きみとはつき合えない」
「なぜ?」
「他に好きな奴がいるんだ」
「あの銀ボタン? それとも、コスナー副寮長?」
「……コスナー」
鳥の巣頭の深いため息が僕の髪を揺らす。
「きみが本当に彼を好きなら、僕はいつだって身を引くよ。でもね、マシュー、僕はね、きみにジョイントを渡すような奴に、きみを渡す訳にはいかないよ」
「無理なんだよ、僕には……。苦しいんだ。解って」
「解るよ、マシュー。きみが苦しいなら僕だって苦しい。どんなに離れていたって、僕はいつだってきみのことばかり思っているのだから」
僕の頬を両手で包み、栗色の瞳が僕の目を真っ直ぐに見つめる。
「きみのそういうところが、もう、嫌なんだ」
僕は顔を背け、こいつを突き放した。僕が突いたところで、こいつはせいぜい手を離した程度で、びくとも動かなかったけれど。
「僕は、きみの中の僕の重みに押しつぶされそうになるんだ。きみは僕に価値を与えてくれようと必死だから」
溢れでる涙を止められないまま、僕は喋り続けた。
「もう僕を自由にして。もう充分だろ? きみは充分僕に償ったじゃないか。アヌビス……、きみの兄貴の罪はきみのせいじゃない。きみはもう、僕から解放されていいはずだよ? そして、僕のことも解放して」
違う。僕はこんなことを言いたかったんじゃない。それなのに流れでる暴言は留まることを知らず、僕の意志に反して、こいつに怒涛の如く覆い被さっていく。
「なんだって僕を襲った男の弟とつきあって、その親とクリスマスを祝わなきゃいけないんだ? 何度も、何度も、あいつに犯されたあの屋敷で! あの家で僕の後見を買ってでたきみの両親に、僕の両親は顔をあげることすらできないじゃないか! 彼らはきみの兄貴の事情は知らないから、ただただ感謝を捧げている。きみたちの高貴な義務に! きみは、どこまで僕を貶めれば気がすむの?」
違う。そうじゃない。きみが僕と両親の不仲を気遣ってくれていたのは僕だってちゃんと解っている。彼らが僕を許せないのも、僕が昔の僕じゃないのも、きみのせいじゃない。きみの問題じゃない。これは僕と彼らの問題だ。僕は、ちゃんと解っている!
「きみが傍にいる限り、僕はあの事件を忘れられない。だから何度も繰り返すんだ。きみのせいだよ! 僕がいつまでもジョイントに囚われるのは! いつまで経っても、過去から逃げられないのも! きみがいるからだ!」
違う。決して、こんなふうにきみを傷つけたかった訳じゃないんだ。
「僕の存在が――」
「きみの無神経さには、もう我慢ができないんだ」
鳥の巣頭は奥歯を噛み締めて、じっと俯いて震えていた。
「ごめんよ、マシュー。きみの言う通りだよ。――でも、これだけは解って。僕は兄の罪の償いのためにきみの傍にいたんじゃない。きみを愛しているから、傍にいたかったんだ。でも確かに、それって、自分の立場をわきまえない、酷く自分勝手な行為だね。兄がきみにした行いが揺るぎない事実のように、僕が、彼の弟だということも、どうしようもない事実だ。……きみが、僕の顔を見たくないと思うのは、解るよ」
両手で自分の顔を覆い、涙を堪えるために、こいつは何度も深呼吸を繰り返した。
「お願いだ、マシュー。今の、その離脱症状が治まるまでは、僕にきみの世話をさせて。この休暇の間だけでも。そんな状態のきみを学校に帰す訳にはいかない。お願いだ、ジョイントだけは、止めて。僕のせいだと言うのなら、僕はきみの前から消えるから。ね? マシュー」
涙を滲ませながら、でもその雫を零すことなく鳥の巣頭は、率直な、真摯な瞳を僕に向けた。
「鍋――」
こいつの嘘のない瞳を見つめ返すことができなくて、僕は顔を伏せたまま呟いた。
先ほどからもうもうと湯気の上がっている小鍋からは、焦げ臭い煙までが立ち昇っている。鳥の巣頭は、慌てて立ちあがって火を止めに走った。
「悲惨なことになってる!」
声を立てて力なく笑い、僕に真っ黒に焦げついた小鍋を向ける。
「作り直すよ。何がいい? コンソメスープなら飲める?」
「クラムチャウダーがいい」
下を向いたまま答えて、僕はまたベッドにごろりと転がった。興奮しすぎて大声を出したせいか、喉が痛かった。
「マシュー、もう少し待っていて。鍋を買ってこないと! 何かいるものはない?」
「ビエネッタ。喉が痛いんだ。チョコミント味で」
「OK、すぐ戻るからね!」
無造作にコートを掴み、バタンと閉まるドアの音。鍵の音。
思ったよりも、ずっと平気な様子に安堵した。
僕はまた、きみを酷く傷つけてしまうかと思っていたのに……。
いや、傷ついたのは僕の方かもしれない……。
今まで、僕の心の奥底で燻り続けていた疑念が、こうも明確に溢れでてしまったのだから。
僕でさえ知らなかった、決して真実ではないはずの……。
だけどきみは、こんなにも酷い僕にさえ、望む通りの言葉をくれた。
僕がずっと欲しかった言葉。ずっと知りたかった真実。
きみの愛は、償いではない、と。
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