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最終章
188 幸せな日々
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この世は一つの世界だよ、グラシアーノ、
誰もが自分の役をこなさなきゃならない舞台なのさ。
そして、僕のはね、悲しい役どころなんだ。
「今日はずいぶん陽気がいいね」
この時期には珍しい晴れ間に暖かな陽射しが降り注ぐ。季節外れな麗らかさに僕は眩暈を覚え、立ち止まって額を押さえた。
「先輩、大丈夫ですか?」
副寮長が心配そうに顔を覗きこむ。
「何でもない。もうここでいいよ。迎えがきている」
彼が持ってくれていた旅行鞄を返すようにと促した。
「先輩、お元気で」
「たった九日間じゃないか」
苦笑しながら鞄を受けとると、彼は僕の頬にキスして強く抱きしめた。僕はぼんやりとされるがままだ。
「じゃあね――」
鳥の巣頭が僕に気づいて車から降りてきた。それとも、僕がやっと一人になったからか……。
助手席のドアを開けてくれ、自分もすぐに運転席に戻る。シートに躰を滑りこませドアを閉めるなり、こいつは眉根を寄せて僕を見つめた。
「マシュー、顔色が悪いよ。体調が良くないの?」
頬に、鳥の巣頭の大きな温かい手が包み込むように触れる。僕はその手を取って、手の平に唇を押し当てた。
「すごく逢いたかったんだよ」
いつもの優しいこいつの声は、どこか感情を殺したような、緊張した震える響きがした。
やはりさっきの様子を見られていたんだ。
僕は気づかないフリをして、にっこりと笑う。こいつは困ったように、微笑返した。
「マシュー、」
「疲れているんだ。生徒会が忙しくて。もう聞いているんだろ? フェイラーの誘拐未遂事件。大騒ぎだったんだ」
「うん、聞いたよ。大変だったんだってね。ケネスが珍しくキリキリしていた」
「そうなの? 僕らの前では、いつでも頼りになる生徒総監さまだよ」
僕は笑ってボウタイを緩める。
「悪いけど、少し眠りたいんだ」
「かまわないよ、マシュー」
鳥の巣頭は僕の髪にキスをくれた。僕を安心させ、柔らかなビロードのような微睡みに誘ってくれる優しいキスを。
こんなキスをくれるのはきみだけ。きみの代わりは、他の誰にも務まらない。
鳥の巣頭はもう気づいている。
同じ香りをつけているのだから。
同じはずなのに同じじゃない、この、どんなに誤魔化しても誤魔化しようのない、まといつく甘い臭いにあいつが気づかないなずはない。
朝、あいつは大学に行く。僕はぼんやりとした意識のまま、あいつを見送る。それからジョイントを吸う。意識がどろどろに溶けて流れだすような蛇のジョイントだ。副寮長に頼んで仕入れてもらった一級品。もう校内には流通させていないやつ。
僕がジョイントを吸うのを狼は快く思ってはいない。使い物にならなくなるからね。浮かれてお喋りになって、なにを仕出かすか判らない。中毒患者は売人には向かない。
でも、僕は飼育小屋の家畜だからね、狼はなにも言わない。せいぜい甘い夢を食べて美味しく出来上がってくれればいい、というところだろう。
ジョイントを一本吸う度に、鉛の塊を呑み込んだみたいに躰が重くなる。
魂は飛翔したいのに、この躰は空を飛ぶには重すぎる。乾いた大地のひび割れにどろりと溶けて滲み込み、僕は誰かに踏みしだかれる。
今まで僕を通りすぎて行った奴らの仮面舞踏会が始まるのだ。鉛の毒で緑に染まり、ぽろぽろに砕けた僕は、綺麗に磨かれた革靴に踏まれジョイントの灰のようにさらさらと崩れていく。後にはもう、何も残らない。
だけどきみがいれば、僕はジョイントの夢から覚めるんだ。
目を細めて笑うきみ。僕が笑うと茶色の瞳がトパーズみたいに輝く。
眠れないと言うと、きみは僕の髪を梳いてくれる。僕は小さな子どものようにきみにしがみついて眠る。ぐっすりと。
温かなきみの体温。規則正しい心臓の音。優しい指先。
きみを僕の躰に刻みつける。
決して忘れないように。
微睡みの中で、僕を包むのはきみなのか、それとも懐かしいあの白い闇なのか、ただのラベンダー色のシーツなのか判らなくなる。
きみの部屋のこのベッドシーツになれたらいいのに。そうなれば、僕のことで涙するきみを優しく包んであげられるのに。ラベンダー色の夢をきみに見せてあげられるのに。
もうすぐ、きみが戻ってくる。
起きあがり、シャワーを浴びて、いつも通りに振る舞わなくては。きみに愛されている幸せな僕を。
今だけの儚い夢。ジョイントの見せる夢よりも、もっと残酷な朝が待つ夢。
夢に酔うきみと僕を、狼はきっと今頃笑っている。
それでも僕は、きみが根をあげるまで、一日でも長くこの道化芝居を続けていたい。
誰もが自分の役をこなさなきゃならない舞台なのさ。
そして、僕のはね、悲しい役どころなんだ。
「今日はずいぶん陽気がいいね」
この時期には珍しい晴れ間に暖かな陽射しが降り注ぐ。季節外れな麗らかさに僕は眩暈を覚え、立ち止まって額を押さえた。
「先輩、大丈夫ですか?」
副寮長が心配そうに顔を覗きこむ。
「何でもない。もうここでいいよ。迎えがきている」
彼が持ってくれていた旅行鞄を返すようにと促した。
「先輩、お元気で」
「たった九日間じゃないか」
苦笑しながら鞄を受けとると、彼は僕の頬にキスして強く抱きしめた。僕はぼんやりとされるがままだ。
「じゃあね――」
鳥の巣頭が僕に気づいて車から降りてきた。それとも、僕がやっと一人になったからか……。
助手席のドアを開けてくれ、自分もすぐに運転席に戻る。シートに躰を滑りこませドアを閉めるなり、こいつは眉根を寄せて僕を見つめた。
「マシュー、顔色が悪いよ。体調が良くないの?」
頬に、鳥の巣頭の大きな温かい手が包み込むように触れる。僕はその手を取って、手の平に唇を押し当てた。
「すごく逢いたかったんだよ」
いつもの優しいこいつの声は、どこか感情を殺したような、緊張した震える響きがした。
やはりさっきの様子を見られていたんだ。
僕は気づかないフリをして、にっこりと笑う。こいつは困ったように、微笑返した。
「マシュー、」
「疲れているんだ。生徒会が忙しくて。もう聞いているんだろ? フェイラーの誘拐未遂事件。大騒ぎだったんだ」
「うん、聞いたよ。大変だったんだってね。ケネスが珍しくキリキリしていた」
「そうなの? 僕らの前では、いつでも頼りになる生徒総監さまだよ」
僕は笑ってボウタイを緩める。
「悪いけど、少し眠りたいんだ」
「かまわないよ、マシュー」
鳥の巣頭は僕の髪にキスをくれた。僕を安心させ、柔らかなビロードのような微睡みに誘ってくれる優しいキスを。
こんなキスをくれるのはきみだけ。きみの代わりは、他の誰にも務まらない。
鳥の巣頭はもう気づいている。
同じ香りをつけているのだから。
同じはずなのに同じじゃない、この、どんなに誤魔化しても誤魔化しようのない、まといつく甘い臭いにあいつが気づかないなずはない。
朝、あいつは大学に行く。僕はぼんやりとした意識のまま、あいつを見送る。それからジョイントを吸う。意識がどろどろに溶けて流れだすような蛇のジョイントだ。副寮長に頼んで仕入れてもらった一級品。もう校内には流通させていないやつ。
僕がジョイントを吸うのを狼は快く思ってはいない。使い物にならなくなるからね。浮かれてお喋りになって、なにを仕出かすか判らない。中毒患者は売人には向かない。
でも、僕は飼育小屋の家畜だからね、狼はなにも言わない。せいぜい甘い夢を食べて美味しく出来上がってくれればいい、というところだろう。
ジョイントを一本吸う度に、鉛の塊を呑み込んだみたいに躰が重くなる。
魂は飛翔したいのに、この躰は空を飛ぶには重すぎる。乾いた大地のひび割れにどろりと溶けて滲み込み、僕は誰かに踏みしだかれる。
今まで僕を通りすぎて行った奴らの仮面舞踏会が始まるのだ。鉛の毒で緑に染まり、ぽろぽろに砕けた僕は、綺麗に磨かれた革靴に踏まれジョイントの灰のようにさらさらと崩れていく。後にはもう、何も残らない。
だけどきみがいれば、僕はジョイントの夢から覚めるんだ。
目を細めて笑うきみ。僕が笑うと茶色の瞳がトパーズみたいに輝く。
眠れないと言うと、きみは僕の髪を梳いてくれる。僕は小さな子どものようにきみにしがみついて眠る。ぐっすりと。
温かなきみの体温。規則正しい心臓の音。優しい指先。
きみを僕の躰に刻みつける。
決して忘れないように。
微睡みの中で、僕を包むのはきみなのか、それとも懐かしいあの白い闇なのか、ただのラベンダー色のシーツなのか判らなくなる。
きみの部屋のこのベッドシーツになれたらいいのに。そうなれば、僕のことで涙するきみを優しく包んであげられるのに。ラベンダー色の夢をきみに見せてあげられるのに。
もうすぐ、きみが戻ってくる。
起きあがり、シャワーを浴びて、いつも通りに振る舞わなくては。きみに愛されている幸せな僕を。
今だけの儚い夢。ジョイントの見せる夢よりも、もっと残酷な朝が待つ夢。
夢に酔うきみと僕を、狼はきっと今頃笑っている。
それでも僕は、きみが根をあげるまで、一日でも長くこの道化芝居を続けていたい。
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