微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

186 事件2

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 星が笑う
 閑寂の夜




 それは、キングスリー、フェイラー、ガストンの三人で課外授業の演奏会が行われるコンサートホールに向かう途上に起こった、突発的な事件だった。三、四フィート後ろには、フェイラーの校外専任のボディーガードもつき従っていた。人通りもある歩道脇に急停車した車の扉がいきなり開き、フェイラーの腕が掴まれて車に引きずり込まれそうになったのだ。キングスリーがとっさに相手の腕に縋りついて彼を助けた。車はそのまま逃走。発車する車に引きずられ、キングスリーは怪我を負い、直ちにボディーガードの呼んだ救急車で病院に運ばれた。怪我の程度は軽傷。現在、フェイラーとガストンは警察の事情聴衆を受けている。


 これが生徒会で聞いた事件のあらましだ。狙われたのは天使くん。傍にいたのは彼の友人だ。名前に聞き覚えがあったから、恐らく大鴉の友人でもあるはず。

 会議の内容は生徒の安全対策について。今回のように、校外で行われる課外授業時の移動への対処法の検討だ。



 おおまかな話は副寮長に聞いていたものの、この生徒会室で聞いたあまりにもずさんな事件の概要に、呆れかえって息を吐かずにはいられない。
 いったい、彼らは天使くんをどうしたかったのだ? 
 事件は誘拐未遂として警察に通報され、大々的に捜査されることになる。ただの暴力事件とは訳が違う。

 その当事者の彼らは澄ました顔でこの会議の末席を占めているのだ。さすがにまるで平気な顔、とは言えないが……。とてもこんな事件を起こしたとは思えない程度には、平静さを装っている。

 このお粗末な誘拐未遂事件が幸運となるか、不運となるか――。
 ハーフタームに入る前に、狼に逢わなければならない。


 それにしても、活発に交わされる意見を聞きながら僕は不思議でたまらなかった。これほどの正義感と責任感でもって生徒の自治が行われ、真剣に安全性を議論している学校上層部が、これまで、こうもジョイントに蝕まれていたなんて。そしてそんな彼らのために、僕のように慰み者になるべく囲われた子が当前のようにいたなんて。

 僕の入学した時の生徒総監が、アヌビスや蛇だったことが僕の不運。
 今、生徒総監は銀狐だということが、天使くんの幸運。

 もし逆であれば、僕たちの運命は入れ替わっていただろうか? 

 そうは思わない。僕の不運は、僕自身の愚かさが招いたもの。天使くんの幸運は、彼の高潔さが引き寄せたもの。

 僕と同じ思いを知る天使くんは、決して苦痛から逃げ、憐れみを乞い、僕のように地べたを這いずることをしなかった。

 僕は僕の犯した愚かさの罪を知っている。それは、償わなければならないものだということも――。


 しかめっ面をしたまま、ぼんやりと物思いに耽っていた僕の耳に、「散会」の声が飛び込んでくる。はっと面をあげると、銀狐が僕を一瞥し軽く頷いた。

 ガタガタと椅子を引き、立ちあがる騒音とざわめきの中で、副寮長が僕にいそいそと歩み寄る。
「先に帰って。寮の子たちに説明しておいて」
 不満げに一瞬面を曇らせた彼の耳許に口を寄せた。
「もう少し詳しい情報をもらってくるよ」
 ふっと息を吹きかけると、ふわりと彼の濃い金色の髪が揺れた。赤らんだ耳から顔をどけ、僕は室内の人数がもう少し減るのを待つために、もう一度席についた。
 まだぐずぐずしている副寮長に、さっさと行けと掌を振った。ついでにボート部の子たちにも、狼に連絡を取るように身振りで伝えた。

 僕よりもずっと賢くてソツがない、と思っていたあの子たちは、とんでもなく幼くて、僕と同じ物事の善悪も判らない普通の子にすぎなかった。

 そう思うと、彼らが少し哀れだった。



「マシュー、カフェテリアにつき合ってくれる? さすがになにか食べないと、今日は昼抜きなんだ」
「今から? もう寮の食事時間だろ?」
「間に合わないかと思ってね、先に副寮長に指示をだしておいた」

 今頃カレッジ寮は蜂の巣をつついた騒ぎだろう。寮のアイドル、あの美貌の天使くんが誘拐されかかったというのだから……。
 本来なら寮長である銀狐は寮内の動揺を治めるべく、早々にこの場を離れているだろう。現に、寮長を兼任する役員たちは会議が終わり次第、雑談することなく席を立っている。

 だけど、今は――。

「カフェテリアで話ができる?」
 外に漏れては困る話をするのに、人の出入りの激しいあの場所は不適切だ。
「今の時間帯ならね」
 銀狐は書類をひとまとめにしながら、ちらりと僕を見てにっと笑った。


 僕も納得して頷き、彼の書類整理を手伝った。
 銀狐は、見た目は神経質なほど几帳面そうに見えるのに、実際はびっくりするほど大雑把なのだ。書類なんて、ガサッとまとめてケースにバサリ。本人は内容が頭に入っているからそれでかまわないのだけれど、嘆願書も、許可書も、依頼書も、手紙類もいっしょくたにされ、後から僕たちが苦労する。だから正直な話、彼には掃除と片づけだけは絶対にしないで欲しい。

 どうせ後で戻って来るからと、机上だけざっと整理し、僕たちは学舎のカフェテリアに向かった。
 一歩外に踏みでると、とたんに冷たく澄んだ外気が肌を刺す。日はとっくに暮れていて辺りは森閑としている。
 月のない夜、まだいくつか灯りの残る学舎の上に、大きな黒い翼のような闇が広がる。一階の広いガラス張りの窓から漏れる光が、温もりのある色彩で僕たちを迎えてくれている。
 外灯とカフェテリアの灯りを頼りに、僕たちは足早に暗色に染まる芝生を踏みしめる。

「キングスリーには申し訳なかったね。怪我の具合はどうなの?」
 歩きながら、顔を伏せたまま僕は小声で囁いた。

 

 

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