微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
186 / 200
最終章

185 事件1

しおりを挟む
 時は満ちた




 緑に苔むした煉瓦造りの高い塀に囲まれて、日当たりの悪いじめじめした庭に面した正面玄関に、一人佇んでいた。帰寮時間にはまだ間があった。夕闇の近づく静寂に包まれた曇天の下、陰気に拒むように閉ざされた扉をゆっくりと指先で撫でていく。

 入寮日、僕はこうして今と同じように、この扉に隙間なく刻まれた落書きを指でなぞっていた。
 これから五年間をこの寮で過ごし、卒業の日には、僕もここに名前を刻むのかと――。そんなことを考えていた。

 この正面扉に名を刻めるのは寮長だけだと知ったのは、ずいぶん後になってからだったが。


 鳥の巣頭の名を探した。ここに刻む時、僕も横にいたから直ぐに見つかった。

 刻みやすい目立つ場所はもう定員オーバーで、きみは下の方に躰を縮こまらせて苦労しながら刻んでいたね。上の方だってまだ空いていたのに。僕が、そっちの方が刻みやすいよ、と言うと、「来年はきみの番だろ? あそこじゃきみの背が届かない」ときみは微笑んで言った。「僕の隣にきみの名を入れて」と。

 はたして僕にこの扉に名を刻む資格があるのだろうか? ガラハッド寮の恥だと、僕の名だけ消されるかもしれない。それ以前に名を刻ませてもらえないだろう。
 だから僕は、今日こっそりここへ来たのだ。

 扉の片隅に、銀狐に貰ったアーミーナイフで小さな文字を刻んでいった。

 永遠にきみの傍らに M

 名前を全部刻んでしまうと消されてしまうかもしれないから、イニシャルだけ。きみと僕との想い出に。きみのように皆に祝われ、見送られてこの寮を後にすることはないであろう僕の、ここに居た証として。

 重厚なオーク材に刻まれた、そこだけ真新しく、白く、誇らしい文字に苦笑が漏れる。

 どうか誰にも気づかれずに、ひっそりときみの傍にいられますように。

 扉の前の石段に腰かけたまま、しばらくぼんやりと辺りを眺めていた。この狭い、陰気な中庭を目に焼けつけるために。

 毎朝この門をくぐって登校し、この門に帰寮する――。ここは確かに僕たちの家だった。守り、育んでくれるだけの家ではなかったけれど。それでもここは、確かに僕の帰る場所だったのだ。ロンドンの実家以上に。


「先輩、体調は良くなられましたか?」
 門の開く金属音とともに、副寮長が僕に向かって声を張りあげた。
「出てこられます? 生徒会緊急会議です」
「こんな時間から?」
 副寮長は緊張した面持ちで頷く。
「例の――」
「ああ……」
 僕は唇を引きしめて立ちあがった。



 寮から駐車場へ抜ける道すがら、僕の肩を当然のように抱く副寮長の腕を払い落した。
「こんなところでやめてくれよ」
「誰も見てやしませんよ」
「ルールを守れないのなら、もう部屋には入れない」
「……すみません」

 一歩、歩調を遅らせた彼を一瞥して、前方を見据えたまま訊ねた。
「それで、どうなったの?」
「怪我人が出ています」

 立ち止まり眉をひそめた僕に、副寮長は勝ち誇ったような皮肉気な笑みを向ける。
「だからあんな方法じゃ失敗するって忠告したのに」
「怪我は? 天使くんは無事なの?」
「カレッジ寮の天使はぴんぴんしていますよ。怪我をしたのは巻き添えを食った同じ寮のキングスリーです」

 キングスリー……。

 死んだはずの――。一瞬、意味が判らなかった。

「ああ、弟だね、亡くなった奨学生の。フェイラーと親しかったんだ?」
「そうみたいですね。それに彼は三学年の学年代表だからじゃないですかねぇ。あの天使の護衛係だったみたいです」

 予定通りに決行された事件は、予定通りには進まなかったようだ。あの彼が、しくじるなんて――。

「マクドウェルさんへの報告は?」
「あいつらが済ませていると思いますよ」

 いい気味だと言わんばかりに、副寮長は薄ら笑いを浮かべている。仲間の失敗を内心ほくそ笑んでいる。

 それはそうなのかも知れない。
 ボート部の子たちか、自分か。狼を満足させる結果を出せた方が、僕の当面の権利を得るのだから。
 この計画を聞きだすために、この子と寝たのが不味かった。自慢たらしい勝ち誇った顔に、ボート部の子たちは顔面蒼白。綿密な計画も立てずに実力行使。それを狼は止めるでもなく笑って見ていた。

 要は成功も、失敗もない。大鴉に脅しをかけるのが目的なのだから。

 大鴉本人ではなく、狙われたのは天使くんだ……。あのポスターが原因で。皆、彼が大鴉の恋人だと信じて疑わない。

 実際は――、どうであれ、大鴉が平気なはずがない。
 これが狼のやり方だ。一番大切な人を傷つける。そうやって獲物を精神的にいたぶって弱らせてから、料理にかかるのだ。

 顔をしかめたまま口をへの字に引き結んで、黙々と歩を進めた。西に傾いたとろりとした夕陽が、足元の影を長く長く引き延ばす。その影の横を、副寮長は俯いたまま歩いている。

 一度寝ればそれで満足するかと思ったのに、副寮長の僕への執着はますます酷くなっていた。





しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

そんなの真実じゃない

イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———? 彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。 ============== 人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

ヤンデレだらけの短編集

BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。 全8話。1日1話更新(20時)。 □ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡 □ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生 □アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫 □ラベンダー:希死念慮不良とおバカ □デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。 かなり昔に書いたもので芸風(?)が違うのですが、楽しんでいただければ嬉しいです!

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

ヤンデレBL作品集

みるきぃ
BL
主にヤンデレ攻めを中心としたBL作品集となっています。

処理中です...