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最終章
185 事件1
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時は満ちた
緑に苔むした煉瓦造りの高い塀に囲まれて、日当たりの悪いじめじめした庭に面した正面玄関に、一人佇んでいた。帰寮時間にはまだ間があった。夕闇の近づく静寂に包まれた曇天の下、陰気に拒むように閉ざされた扉をゆっくりと指先で撫でていく。
入寮日、僕はこうして今と同じように、この扉に隙間なく刻まれた落書きを指でなぞっていた。
これから五年間をこの寮で過ごし、卒業の日には、僕もここに名前を刻むのかと――。そんなことを考えていた。
この正面扉に名を刻めるのは寮長だけだと知ったのは、ずいぶん後になってからだったが。
鳥の巣頭の名を探した。ここに刻む時、僕も横にいたから直ぐに見つかった。
刻みやすい目立つ場所はもう定員オーバーで、きみは下の方に躰を縮こまらせて苦労しながら刻んでいたね。上の方だってまだ空いていたのに。僕が、そっちの方が刻みやすいよ、と言うと、「来年はきみの番だろ? あそこじゃきみの背が届かない」ときみは微笑んで言った。「僕の隣にきみの名を入れて」と。
はたして僕にこの扉に名を刻む資格があるのだろうか? ガラハッド寮の恥だと、僕の名だけ消されるかもしれない。それ以前に名を刻ませてもらえないだろう。
だから僕は、今日こっそりここへ来たのだ。
扉の片隅に、銀狐に貰ったアーミーナイフで小さな文字を刻んでいった。
永遠にきみの傍らに M
名前を全部刻んでしまうと消されてしまうかもしれないから、イニシャルだけ。きみと僕との想い出に。きみのように皆に祝われ、見送られてこの寮を後にすることはないであろう僕の、ここに居た証として。
重厚なオーク材に刻まれた、そこだけ真新しく、白く、誇らしい文字に苦笑が漏れる。
どうか誰にも気づかれずに、ひっそりときみの傍にいられますように。
扉の前の石段に腰かけたまま、しばらくぼんやりと辺りを眺めていた。この狭い、陰気な中庭を目に焼けつけるために。
毎朝この門をくぐって登校し、この門に帰寮する――。ここは確かに僕たちの家だった。守り、育んでくれるだけの家ではなかったけれど。それでもここは、確かに僕の帰る場所だったのだ。ロンドンの実家以上に。
「先輩、体調は良くなられましたか?」
門の開く金属音とともに、副寮長が僕に向かって声を張りあげた。
「出てこられます? 生徒会緊急会議です」
「こんな時間から?」
副寮長は緊張した面持ちで頷く。
「例の――」
「ああ……」
僕は唇を引きしめて立ちあがった。
寮から駐車場へ抜ける道すがら、僕の肩を当然のように抱く副寮長の腕を払い落した。
「こんなところでやめてくれよ」
「誰も見てやしませんよ」
「ルールを守れないのなら、もう部屋には入れない」
「……すみません」
一歩、歩調を遅らせた彼を一瞥して、前方を見据えたまま訊ねた。
「それで、どうなったの?」
「怪我人が出ています」
立ち止まり眉をひそめた僕に、副寮長は勝ち誇ったような皮肉気な笑みを向ける。
「だからあんな方法じゃ失敗するって忠告したのに」
「怪我は? 天使くんは無事なの?」
「カレッジ寮の天使はぴんぴんしていますよ。怪我をしたのは巻き添えを食った同じ寮のキングスリーです」
キングスリー……。
死んだはずの――。一瞬、意味が判らなかった。
「ああ、弟だね、亡くなった奨学生の。フェイラーと親しかったんだ?」
「そうみたいですね。それに彼は三学年の学年代表だからじゃないですかねぇ。あの天使の護衛係だったみたいです」
予定通りに決行された事件は、予定通りには進まなかったようだ。あの彼が、しくじるなんて――。
「マクドウェルさんへの報告は?」
「あいつらが済ませていると思いますよ」
いい気味だと言わんばかりに、副寮長は薄ら笑いを浮かべている。仲間の失敗を内心ほくそ笑んでいる。
それはそうなのかも知れない。
ボート部の子たちか、自分か。狼を満足させる結果を出せた方が、僕の当面の権利を得るのだから。
この計画を聞きだすために、この子と寝たのが不味かった。自慢たらしい勝ち誇った顔に、ボート部の子たちは顔面蒼白。綿密な計画も立てずに実力行使。それを狼は止めるでもなく笑って見ていた。
要は成功も、失敗もない。大鴉に脅しをかけるのが目的なのだから。
大鴉本人ではなく、狙われたのは天使くんだ……。あのポスターが原因で。皆、彼が大鴉の恋人だと信じて疑わない。
実際は――、どうであれ、大鴉が平気なはずがない。
これが狼のやり方だ。一番大切な人を傷つける。そうやって獲物を精神的にいたぶって弱らせてから、料理にかかるのだ。
顔をしかめたまま口をへの字に引き結んで、黙々と歩を進めた。西に傾いたとろりとした夕陽が、足元の影を長く長く引き延ばす。その影の横を、副寮長は俯いたまま歩いている。
一度寝ればそれで満足するかと思ったのに、副寮長の僕への執着はますます酷くなっていた。
緑に苔むした煉瓦造りの高い塀に囲まれて、日当たりの悪いじめじめした庭に面した正面玄関に、一人佇んでいた。帰寮時間にはまだ間があった。夕闇の近づく静寂に包まれた曇天の下、陰気に拒むように閉ざされた扉をゆっくりと指先で撫でていく。
入寮日、僕はこうして今と同じように、この扉に隙間なく刻まれた落書きを指でなぞっていた。
これから五年間をこの寮で過ごし、卒業の日には、僕もここに名前を刻むのかと――。そんなことを考えていた。
この正面扉に名を刻めるのは寮長だけだと知ったのは、ずいぶん後になってからだったが。
鳥の巣頭の名を探した。ここに刻む時、僕も横にいたから直ぐに見つかった。
刻みやすい目立つ場所はもう定員オーバーで、きみは下の方に躰を縮こまらせて苦労しながら刻んでいたね。上の方だってまだ空いていたのに。僕が、そっちの方が刻みやすいよ、と言うと、「来年はきみの番だろ? あそこじゃきみの背が届かない」ときみは微笑んで言った。「僕の隣にきみの名を入れて」と。
はたして僕にこの扉に名を刻む資格があるのだろうか? ガラハッド寮の恥だと、僕の名だけ消されるかもしれない。それ以前に名を刻ませてもらえないだろう。
だから僕は、今日こっそりここへ来たのだ。
扉の片隅に、銀狐に貰ったアーミーナイフで小さな文字を刻んでいった。
永遠にきみの傍らに M
名前を全部刻んでしまうと消されてしまうかもしれないから、イニシャルだけ。きみと僕との想い出に。きみのように皆に祝われ、見送られてこの寮を後にすることはないであろう僕の、ここに居た証として。
重厚なオーク材に刻まれた、そこだけ真新しく、白く、誇らしい文字に苦笑が漏れる。
どうか誰にも気づかれずに、ひっそりときみの傍にいられますように。
扉の前の石段に腰かけたまま、しばらくぼんやりと辺りを眺めていた。この狭い、陰気な中庭を目に焼けつけるために。
毎朝この門をくぐって登校し、この門に帰寮する――。ここは確かに僕たちの家だった。守り、育んでくれるだけの家ではなかったけれど。それでもここは、確かに僕の帰る場所だったのだ。ロンドンの実家以上に。
「先輩、体調は良くなられましたか?」
門の開く金属音とともに、副寮長が僕に向かって声を張りあげた。
「出てこられます? 生徒会緊急会議です」
「こんな時間から?」
副寮長は緊張した面持ちで頷く。
「例の――」
「ああ……」
僕は唇を引きしめて立ちあがった。
寮から駐車場へ抜ける道すがら、僕の肩を当然のように抱く副寮長の腕を払い落した。
「こんなところでやめてくれよ」
「誰も見てやしませんよ」
「ルールを守れないのなら、もう部屋には入れない」
「……すみません」
一歩、歩調を遅らせた彼を一瞥して、前方を見据えたまま訊ねた。
「それで、どうなったの?」
「怪我人が出ています」
立ち止まり眉をひそめた僕に、副寮長は勝ち誇ったような皮肉気な笑みを向ける。
「だからあんな方法じゃ失敗するって忠告したのに」
「怪我は? 天使くんは無事なの?」
「カレッジ寮の天使はぴんぴんしていますよ。怪我をしたのは巻き添えを食った同じ寮のキングスリーです」
キングスリー……。
死んだはずの――。一瞬、意味が判らなかった。
「ああ、弟だね、亡くなった奨学生の。フェイラーと親しかったんだ?」
「そうみたいですね。それに彼は三学年の学年代表だからじゃないですかねぇ。あの天使の護衛係だったみたいです」
予定通りに決行された事件は、予定通りには進まなかったようだ。あの彼が、しくじるなんて――。
「マクドウェルさんへの報告は?」
「あいつらが済ませていると思いますよ」
いい気味だと言わんばかりに、副寮長は薄ら笑いを浮かべている。仲間の失敗を内心ほくそ笑んでいる。
それはそうなのかも知れない。
ボート部の子たちか、自分か。狼を満足させる結果を出せた方が、僕の当面の権利を得るのだから。
この計画を聞きだすために、この子と寝たのが不味かった。自慢たらしい勝ち誇った顔に、ボート部の子たちは顔面蒼白。綿密な計画も立てずに実力行使。それを狼は止めるでもなく笑って見ていた。
要は成功も、失敗もない。大鴉に脅しをかけるのが目的なのだから。
大鴉本人ではなく、狙われたのは天使くんだ……。あのポスターが原因で。皆、彼が大鴉の恋人だと信じて疑わない。
実際は――、どうであれ、大鴉が平気なはずがない。
これが狼のやり方だ。一番大切な人を傷つける。そうやって獲物を精神的にいたぶって弱らせてから、料理にかかるのだ。
顔をしかめたまま口をへの字に引き結んで、黙々と歩を進めた。西に傾いたとろりとした夕陽が、足元の影を長く長く引き延ばす。その影の横を、副寮長は俯いたまま歩いている。
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