微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

183 告白1

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 玉ねぎの皮を剥くように
 一枚、一枚、嘘を剥がす
 最後に残るのは嘘、それとも真実?



 初めてこの寮長室に来たとき、ここは蛇の部屋だった。ベッドに仰向けに寝転んだちょうど真上辺りの漆喰天井に、灰色の鼠のような形のシミがあった。
 梟の部屋になった頃には、そのシミはもっと大きく広がっていた。結露のせいだ、と梟は言っていた。あの頃の梟は、僕をベッドに入れてはくれなかったけれど、シミは衝立の向こう側から見えるほど大きかった。
 田舎鼠のあの汚い部屋は思いだしたくない。
 お陰で鳥の巣頭が苦労した。寮長になって一番初めの仕事は、この部屋の掃除だった。寮長室だというのに、ジョイントと煙草の入り混じった独特の臭いが染みついていた。その消臭から始めなければならなかった。
「掃除は苦じゃないよ」、と鳥の巣頭は笑っていたけれど。

 僕があの天井のシミが嫌いだと言うと、鳥の巣頭は漆喰を買ってきて、シミを塗り潰してくれた。頭にぼとぼとと、白い漆喰を落としながら。「そんなこと、業者に頼めばいいのに」と言ったら、「問い合わせたけれど、いつになるか判らないって。きみを不快なままでいさせたくないんだ」とはにかみながら、丁寧に手を動かして――。

 ずっと綺麗な白だったのに、この冬の間にまたシミが滲んできている。きっと、梟の言うように結露のせいだ。建物が古いから、塗っても塗っても繕えないのだ。

 どんなに取り繕ってみせても、腐臭を放つ僕のようだね。
 でも、もういいんだ。もうじき、この部屋ともお別れだからね。




 ノックの音に、僕はベッドから起きあがった。時間通りだ。乱れたままの髪の毛を掻きあげ、ドアを開ける。
 くしゃくしゃのシャツを羽織っただけのだらしない姿の僕を見て、銀狐は眉根を寄せ、顔を背けた。

「座っていて。着替えるから。お茶は自分で淹れてくれる?」

 銀狐にソファーを勧め、僕はマホガニーのフレームに蔦模様の布の貼られた衝立の向こう側に廻った。

「僕はジョナスになんて言えばいいんだ?」

 衝立の向こうから、銀狐の押し殺したような、怒りに震える声が聞こえる。

「見たまま伝えればいいじゃないか」

 その場に立ち尽くしたまま、努めて普通に聞こえるように答えた。
 返事が、返ってこない。
 僕たちの間を遮る衝立にそっと掌をあて、僕はその場にしゃがみこんだ。

「レイプじゃない。僕が誘ったんだ」

 衝立がガタリと揺れた。倒れないように背中で支えた。

「なぜ?」
「そうする必要があったんだよ」
「だからって、こんな!」

 バンッ、と、銀狐は声を荒げて衝立を叩いた。僕は向きを変えて膝立ちになり、両手で衝立を支えてコツンと額をつけた。

「ケネス、僕はきみが思ってくれているような人間じゃないんだ」

 押し倒されそうに衝立が揺れる。床とのわずかな隙間から、銀狐の黒いローブが覗いている。彼もまた、僕と同じように床に座りこんでいる。


「僕はマイルズ先輩に脅されて躰を売っていた訳じゃない。自分の意志でそうしていたんだ」
「嘘だ。僕は信じない」
「きみだって見たじゃないか。僕は自分の意志であの部屋にいた」
「きみはお金を受け取っていない」
「それ以上の悦びがあったからさ。僕は彼の前でああいう行為に耽っていたんだ。それで彼はお金を受け取る。学費を払い、生活する。僕の躰が稼いだお金でね。僕はあの人に施しを与えていたんだ。惨めな、何も持たない僕ができるたったひとつのことじゃないか。僕はそうやって自分のプライドを保っていたんだ」

 梟――。踏みにじられ、貪られるだけの僕に、ただ一人与えてくれる人だと思っていた。あの頃は――。
 そんな僕に甘えて、利用して、頼らずにはいられないほど惨めな人。僕よりもずっと惨めな梟。だから僕には彼が必要だった。鳥の巣頭が僕を憐れんでいたように、僕は梟を憐れんでいた。それでイコールだったんだ。だから僕は僕でいられた。正気を保つことができていた。


「僕はそんな、卑しい人間なんだよ。きみとは違う」
「違うって? 何が違うって言うんだい? 僕ときみの何が違う? 僕だってきみを貪った奴らと変わらない。今のきみの、そんな姿を見て平気でなんていられない、ただの卑しい男にすぎないよ」

 銀狐とは思えない切羽詰まった声だった。僕は驚いて頭の中が真っ白になっていた。だからとっさに浮かんだのが、突拍子のない、僕の奥底に沈んでいた素朴な疑問だったのだと思う。

「……それは、愛の告白なの?」
「……親密な友情だと受け取って欲しい」
「どれくらい親密?」
「ジョナスは裏切れないよ」
「キスしてもいいくらい?」
「マシュー!」
「からかっている訳じゃないんだ。教えてあげるよ。だって、きみ、キスの仕方を知らないじゃないか!」

 僕は至極真面目に言っているのだ。梟のフラットで彼が僕に応えてくれなかったのは、彼が何も知らなかったからではないのかと、ずっと気にかかっていたのだから。

「余計なお世話だよ」
 銀狐の拗ねた声に、思わず笑みが零れた。
「そう? これでも僕は、きみの将来を心から心配して言っているのに。きみに恋人ができたとき、まともなキスもできないんじゃ、恥をかくよ」
「僕にはそんな行為は必要ない。知っているだろ?」
「キスはできるじゃないか」

 真剣な僕の声に、大きなため息が返ってきた。
「子どもを持つことができないのに、恋人同士のキスなんて……」
「僕たちだって同じだよ。僕は女なんか愛さないし、あいつは僕しか愛さない。子どもは無理だろ?」
「御馳走さま。気持ちだけで結構だよ。きみに教えを乞うなんて、自分からトラブルを背負いこむようなものだろ?」
 銀狐はくぐもった声で、くすくす笑っている。

「まあいいよ」僕は大袈裟にため息をついてみせた。「きっときみが初めてのキスをあげる相手は、きみの下手くそなキスでも舞いあがるような、そんな純朴な子に違いないからね」
「経験値からくる推察かい? 覚えておくよ。それよりきみ、早く服を着てくれよ。これ以上そうやって僕を挑発するのは止めにしてくれる?」

 いつもの彼の調子に僕は声をたてて笑った。

「そうだね、込みいった話だから、わざわざこうしてきみに来てもらったんだしね」
「なんだ、きみのそのしどけない姿で僕を誘惑する気なのかと思ったのに」
「申し訳ないね。期待させたかな? 順を追って話すよ。お茶を淹れてくれる?」

 僕は服を着替え、身だしなみを整えた。けれど、衝立の向こう側には行かなかった。足がすくんで、行けなかった。

 彼の顔を見て話すだけの勇気は、出なかったのだ――。


 だからまた、衝立を挟んだこちら側にしゃがみこみ、ムラのある塗跡の残る漆喰天井を首が痛くなるほど睨めつけながら、僕は、背中合わせの銀狐に向かって話し始めた。




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