微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

182 二月 亡霊

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 刺し込む月光が闇を割り
 亡霊が躍る
 狼の笑う夜




「キングスリーの亡霊?」
 数歩遅れてお喋りに興じていたボート部の子たちを振り返る。キングスリーは死んだ奨学生の名前だ。

「ほら、先輩の寮の話ですよ。何もないのに、火災報知器が鳴りだした、っていう」
「キングスリーが生きていた頃、似たような現象がカレッジ寮でもあったんです。火災報知器に防犯ベルなんかが夜中にいきなり鳴り響いて、それからしばらくすると、誰かが退寮になったり転校したり、不幸の前兆だって、」
「キングスリーの呪いですよ! 去年も確か、――グリフレット寮でもあったんです!」

 去年の銀狐の寮だ……。

 大袈裟に腕を振り回しながら、代わる代わる大声で教えてくれる二人とその内容に、僕は失笑を禁じ得ず、笑いを誤魔化すためにわざと渋面を作って派手にため息を吐いた。

「僕の寮で、そんな不吉なことが起きなければいいけれど……」
「心配要りませんよ、先輩。ただの誤作動じゃないですか! 亡霊だなんて馬鹿馬鹿しい!」

 副寮長は、馬鹿にしたように後ろを歩くボート部の二人を見やり、僕の背に手を当てる。一瞬、二人の顔が腹立たしげに歪むのが肩越しに見えた。だが、聞こえるか、聞こえないか程度の舌打ちをしただけで、彼らはまったく別の話題に切り替えた。

 馬鹿馬鹿しい……、とも言っていられないか。

 今の話で、あれは銀狐の、彼なりの警告だったのかと思いあたると、自然に口許がほころんでいた。



 煉瓦造りの高級フラットが立ち並ぶ閑静な住宅街。その中の一軒の前で立ち止まり、三階の窓を仰ぎ見る。
 最後に梟に逢った部屋。そして、鋭い牙を剥きだしにして笑う狼が、僕を待つ部屋。
 きっと今日の会合で、エリオットの幽霊話がまた一つ、信憑性を増すことになる……。



 副寮長に成り代わられ、僕の存在はもう、逃げないように鉄の首輪を嵌めて鎖に繋いだ獲物程度の意味しかないだろう、と思っていたのだが、狼は変わらず紳士的に接してくれている。
 彼のそういった礼儀正しさは、見る者を安心させる。副寮長も、ボート部の子たちも、すっかり彼に心酔しているように見てとれる。

 彼は、狼に違いないのに……。

 当たり障りのない学校の話ばかりで、ジョイントには触れない。具体的な話もしない。ジョイントの代金は会社名義の通帳に振り込みで、品物を受け取るときは、彼の部下が指定した場所へ僕たちが出向く。その場には狼は姿を現さない。

 今まで緊張でガチガチで気づかなかったけれど、狼の一見紳士的な会話は考え抜かれたもの、なのではないだろうか? 
 彼の言葉の一つ一つ、どれを思い返してみても、決して僕たちを脅迫している訳でも、強制している訳でもない。取引の話をしているときも、生徒会役員が出入りの業者と打ち合わせをしているだけ、そんな雰囲気で。

 例えば、今この瞬間の会話を録音して警察にもっていったとしても、とても麻薬取引の会話とは受け取ってもらえないだろう。彼の言う意味が解らなければ、上品で、ポッシュで、洒脱――。いかにもエリート然とした会話、そんなふうにしか受け取れない。それが狼の表の顔だ。

 もちろん、意味が解りません。なんて、僕たちには許されない。彼の視線や冷笑に震えあがりながら、必死に彼の望むことを推測する。あの灰色の目が細まり満足そうな笑みを見せるまで、僕たちは冷や汗をたらたら流しながら、喋り続けるのだ。

 ――今頃になって、そんな事実に気がついた。



「あの銀ボタン、投資サークルのことで脅迫されているらしいです」
 僕はそっと上目遣いに狼を見あげて告げた。
「ほぉ、それはまたどうして?」
「あなたの方が良くご存知かと」
「私は、きみがなぜそれを知っているのか訊いているんだよ」
 楽し気に、狼はくっくっと含み笑う。

 どうやら僕は彼の望む情報を引き当てたらしい。へまをしないように、慎重に言葉を探さなければ。

 どうか、彼が食いついてくれますように!

「友人から聞きました。彼は、銀ボタンの寮の寮長なんです」
「それで?」
 にやにやと微笑みながら、狼は続きを、と促す。
「銀ボタンは絶対に脅迫には屈しないと」
「それは残念だな。脅迫だなんて人聞きの悪い。あれは立派なビジネスの取引きなのに!」
「あなたのお仕事の一環なのですか?」
「以前話さなかったかな? 知人の話だよ。彼は銀行マンでね。銀ボタンくんに話しているのもれっきとしたビジネスの話だ。脅迫と受け取られているなんて、きっとショックを受けるだろうな」

 とても残念に思っているとは思えない、楽しげな笑い声が白い壁に反響する。

「きみの友人はカレッジ寮の寮長なのか。優秀なんだな」
 取ってつけたように言い、狼は目を細めてじっと僕を見つめた。
「あの銀髪の子かな?」
「ええ、そうです。彼は銀ボタンとも親しいんです」


 僕はごくりと唾を呑みこみ、狼を見つめ返した。




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