微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

179 クリスマスの食卓

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 虚飾の仮面を被り
 三日月の笑みで踊る
 聖なる食卓



 美しく飾られたクリスマスの食卓につくために、ダイニングルームに足を踏みいれた。その刹那、我慢できずに浮かべてしまった不快を露わにした面を、誰にも見られないようにと俯いていた。

 騙された……!

 正直、そう思ったね。
 鳥の巣頭が僕の両肩に掌をのせ、「さぁ、マシュー」と席に着くように促している。

 鳥の巣頭と二人で気楽にすごすランチだと思っていたのに、テーブルにはこいつの父親がいて、その向かいの席には僕の母。そして席ひとつ飛ばした席にいる僕の父は愛想笑いを浮かべたまま。その向かいに座っていた鳥の巣頭の母親は、立ちあがって僕を迎えてくれ、「メリークリスマス、マシュー」と髪にキスをくれた。

「あなたを驚かせたくて黙っていたの。だって、せっかくのクリスマスだもの」

 クリスマスは家族ですごすもの――。

 そう言いたいのか! このお節介婦人は!

 僕の腕を取り自分の隣に座らせて、彼女は見事なホステスぶりを発揮してくれた。向かいに座る鳥の巣頭が心配そうに僕を見ている。

 こいつを失望させたくない。それだけのために僕は笑顔を繕って、すっかり立ち直り更生した青年を必死で演じる。エリオット校生らしい気品と、エリート予備軍としての誇りを身につけているさまを装って。

 鳥の巣頭の父親は、僕に生徒会のことや、今年度のラグビー部やボート部の活躍具合をさりげなく訊ね、学校生活の満ち足りた様子を両親にアピールするのに一役買ってくれている。僕の両親は多くは話さず、もっぱら聞き役だ。

 けれど――、母のあの顔ときたら――!

 誰かれかまわず媚を売らずにはいられないのか、この女は!

 鳥の巣頭の父親は、今は、僕の母がお気に入りらしい。僕に向けられていた彼の関心がすっかり薄れていることに、僕は心底安堵した。
 慇懃で威圧的、けれど豪快で力強い手馴れた社交術で、彼はこの食卓を支配している。アヌビスはこの父親によく似ている。


 隣に座る彼の妻にそっと目をやった。

 あなたの息子の座るべき席にいる僕のことを、本当はどう思っているの? 
 自慢の息子だったアヌビスなど、まるで初めから存在しないかのように一切話題にだすこともなく。――聖母のように微笑んでいる。家族ですごすこの正餐に恨んで然るべき他人を、それも家族ぐるみで招いて!

 ボランティア精神もここまでくると、笑うに笑えない。

 視線に気づいたのか、「マシュー、もっとポテトはいかが?」と夫人は善良な笑みを僕に向けた。

「もう充分です」

 心の底からそう答えたよ。



 食後のお茶は遠慮して部屋にさがった僕を、鳥の巣頭が追ってきた。
「きみはゆっくりしてくればいいのに」
 僕の面には愛想笑いが張りついたまま。
「マシュー、怒っているの?」
「まさか! 嬉しいよ。きみも、両親もいて、最高のクリスマスだ」

 きみだけでいい。僕はもう、きみだけでいいのに。

 こいつの胸に頬を擦りつけ、背中にぎゅっと腕を廻した。

「マシュー、一緒に書斎へ行こう。ご両親にもっときみの元気な顔を見せてあげて」
「あまり時間がないんだ。きみとこうして居たい」
「え?」

 僕は今、なにを言った?

 言ってしまってから、はっとして、後悔して、息を漏らした。

「一月になったらすぐにAレベルの試験だよ! きみ、忘れたの!」
 わざと怒ったように唇を尖らせた。
「ごめん。こんなことを口にするべきじゃなかった。気ばかりが焦ってしまって」
「僕の方こそ――。解るよ、そうだよね、気にかかって当然だよ。去年の今ごろは僕もそうだったよ、マシュー。待っていて。お茶をもらってくる。ご両親にもそうお伝えしておくから」


 口から出まかせだったのに、鳥の巣頭は妙に納得してくれて、部屋を駆けでていった。


 幾重にも塗り重ねられていく嘘に、躰はどんどんキシキシと強張って、錆つき動かなくなっていく。

 堪らず倒れこむようにベッドに横たわった。


 不肖の息子ぼくのことなんて、もういいじゃないか――。

 アヌビスを切り捨てた鳥の巣頭の両親のように、僕のことも切り捨ててしまえばいい。
 ノブレス・オブリージュの振りかざす慈悲の恵みを甘んじて受け、引き攣った笑みを湛えて感謝を捧げる。そんな屈辱に耐え続けるよりも、よほど楽な生き方があるはずだ。

 僕のために、我慢することなんてないんだ……。

 鳥の巣頭の両親に向けられる張りついた母の微笑みは、僕にそっくりだった。僕と同じあの青灰色の瞳は、僕の心を映していた。媚を含んだ瞳で見つめ、卑屈に唇を吊りあげて。

 どうか、どうか、お願いします。この子を助けて。

 そう言っていたのだ――。僕にはそんな価値などないのに……。


 目を瞑ると、瞼裏に張りついた母の歪な笑みが、虚ろに疲れ果てた僕の上にスライドする。媚を含んだ瞳で蛇やアヌビスを見つめ、卑屈に唇を吊りあげ、ジョイントをねだる僕の顔に。

 あの白い煙の作る幻影の中、三日月のお面をつけた僕に懇願し続ける微睡む僕の声を、僕はずっと無視してきた。

 僕の言葉を無視し続けていた、彼らのように。
 微睡む僕の心を無視し、踏みにじっていたのは僕自身。


 もっと、いい子にしますから。

 ――もう、乱暴なことはしないで。

 ちゃんと、言う通りにしますから。

 ――どうか、もう、酷いことはしないで。

 僕、なんだってしますから。

 ――お願い……。

「助けて」

 神さま――。


 同じセリフを反復し続ける、壊れたプレーヤーから流れる僕の声。
 何度も、何度も、再生される僕の声。
 声変わりしたばかりの、ガマガエルのような声の僕。

 神さまの耳には、きみの声は届かなかった。
 きみの願いは叶わなかった。
 誰も助けてはくれなかった。
 
 きみは誰にも、必要とされていなかったから……。


 あいつだけなんだよ、そんなきみを好きだというのは。
 きみさえいなくなれば、鳥の巣頭は助かるんだ。
 ジョイントの霧の中に隠れて、震えていることしかできなかったきみでも、役に立つことができるんだよ。
 この世でただ一人、きみを愛すると言ってくれるあいつを、守ることができるんだ。


 僕は、ジョイントの霧の奥深くからやっと取り戻した微睡む僕を抱きしめた。かつて、父と、母が愛していた僕。幼く、弱い、闘う術を知らなかった愚かな僕。

 そして、心から謝った。
 きみを助けてあげられなくて、ごめんね、と。

 僕が守ることができるのは、一人だけ。
 かつて確かにきみを愛してくれていた両親を、僕はまた裏切ることになる。
 
 僕はもう、絶対に間違える訳にはいかないんだ。
 一人だけ――、ならば鳥の巣頭を。
 機会は一度だけ。やり直しはなしだ。





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