微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

178 教会2

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 降りしきる雪は
 悪徳を覆う
 神の恵み



 泣き止まない僕を支えてくれていた鳥の巣頭からやっと躰を離し、人差し指の先で目許を拭って、にっこりと見あげた。
「さぁ、行って。陪餐ばいさんが終わってしまうよ」
 鳥の巣頭は眉を寄せたまま動かない。
「僕は、ここにいるから」
 まだ迷っているこいつの胸を押した。
「クリスマスなんだよ?」
「きみも――、」
 言いかけて、鳥の巣頭は口を噤んだ。僕が今までうん、と言ったことがないのを知っているから。

 鳥の巣頭は英国国教会の信徒だけれど、僕は違う。聖歌隊には入っていたけれど、洗礼は受けていないので陪餐には参加できない。こいつは司祭さまの祝福だけでも、と言いたいのだろうが、信仰心もないのに祝福をいただくなんて冗談じゃない。鳥の巣頭だってこればかりは強制できないことはよく解っている。

「絶対に、ここから動かないで」
 頷いた僕をもう一度抱きしめてから、こいつは細い通路を伝って階下の祭壇前へと向かった。



 鳥の巣頭の姿が見えなくなってから、僕も隠れるようにもたれていた柱から躰を起こし、階下へとくだった。

 ここから、逃げだしてしまいたかった。もし、逃げ場所があるのなら――。誰にも、見つけられない場所があるのなら――。どこでもいい、鳥の巣頭のいない場所なら。
 鳥の巣頭の温もりは、僕から現実を遠ざける。ジョイントの白い霧以上に甘い夢を僕に見せる。ありもしない希望にくらまされ、まやかしの夢が僕を溺れさせる。刹那の夢にすぎないのに――。

 いっそ、雪の中に埋もれてしまおうか。凍えて死ぬのなら遺体は綺麗なままだし、苦しみも、痛みも、少なくて済むのではないか、とそんな夢想に心を躍らせる反面、――どこまでも臆病者な自分に吐き気がする。


 ひそかに抜けだすつもりだったのに、階段下の通路で鳥の巣頭に捉まってしまった。教会内で自らの死を思い描くのは、さすがに不謹慎だったのだろうか……。

 思わず苦笑した僕を見て、鳥の巣頭が心配そうに表情を曇らせる。

「もう帰ろう」
「陪餐は? 平気だよ、後少しだ。きみにとって一年で一番大切なことじゃないか」

 僕はにっこりと笑みを作ってみせたけれど、鳥の巣頭は首を縦には振らなかった。僕の手を取って、重い、古びた扉をそっと開けてこの教会を後にした。




 雪はあれから止むことなく、降りしきっていたようで――。教会横の空き地に駐めていた車も、薄らと白い綿帽子を被っている。僕はぼんやりと、教会から漏れるオレンジ色の光に照らされ、柔らかな暖色に染まる雪道に見とれた。

「マシュー、乗って」
 鳥の巣頭が車のドアを開けてくれた。
「すぐに温まるからね」
 エンジンをかけ車が温まるのを待つ間、僕の膝にブランケットをかけてくれた。そして、ちらりと時計に目をやる。もう真夜中を超えていた。
 僕の頬にキスをくれ、鳥の巣頭は「メリークリスマス」と囁いた。泣きだしそうな笑みを湛えて。

「メリークリスマス」
 僕もキスを返して微笑んだ。
「子どもの頃のことを、思いだしていたんだ。プレップの頃のこと。僕はエリオットでも聖歌隊に入るつもりだったのに、その前に声変わりしてしまって……。奨学生試験には落ちるし、声はガマガエルみたいになってしまうしで、入学当初はかなり不貞腐れていたんだよ」

 ふふっと笑う僕を見て、鳥の巣頭の表情も和らいだ。

「でも、昔のように天上に届くような透き通った声はだせなくても、こうして歌うことができるんだなって気がついてさ。嬉しかったんだよ。だから、泣いてしまったんだ」

  こいつの肩に頭をのせて、頬を擦りつけて甘えた。鳥の巣頭は僕の肩を抱いて、髪に優しいキスをくれた。不安でいっぱいになっていたこいつの目許が、ほっとしたように緩んでいる。

「僕はきみが歌ってくれる聖歌が好きだよ。どこの聖歌隊よりも、きみの歌が一番好き」

 肩からうなじへ滑る手が、顎を持ちあげる。重なる唇は、執拗に僕を捉えて離さなかった。

「こんなキスをくれるきみの口が好きだよ」
「この柔らかな唇が好き」
「心まで絡めとる、この舌が好き」

 囁きながら、何度も、何度も繰り返す。求め続ける。苦しいほどに。

「きみが声をだすときの、この震える喉が好き」

 ――あの声だけで……、

 あの子たちの下品な笑い声が、突然耳をつく。

 びくりと跳ねあがり、躰を強張らせた僕を訝しく思ったのか、鳥の巣頭が首筋から顔をもたげた。と、丁度そのとき、教会の正面扉が大きく開き、幸せそうに満ち足りた人々が、家族で寄り添いながら溢れでてきた。

「礼拝、終わったみたいだよ」

 僕の言葉に、鳥の巣頭は未練がましく吐息を漏らした。僕はふふっと笑ってこいつの頬にキスをあげた。

「続きは帰ってからだね」

 苦笑いしながらハンドルを取ったこいつの横顔を見ながら、僕もくすくすと笑っていた。

 走り出した車は、もう充分に温まっていた。


 
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