微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

177 教会1

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 悠久の時を超える
 歌声
 託されたのは
 想い




「積もりそうだね」
 鳥の巣頭が車のヒーターの温度をあげる。
「雪は好きだよ」

 すべてを覆い隠してくれるもの。

「寒いのは苦手なのに?」
「だって、綺麗だもの」

 綺麗な世界を目に焼きつけたい。きみと一緒に。


 クリスマスは鳥の巣頭の家ですごす。家族の団欒を邪魔するのは気が引けるので、日にちをずらして伺うつもりだったのが、今年、アヌビスは戻らないし、父親もどこだかに出張で淋しいからぜひに、とこいつの母親から直々に招待を受けた。
 実家の方は相変わらずだ。僕が戻らないことで穏やかなクリスマスを迎えることができ、さぞや喜んでいることだろう。


 鳥の巣頭は昨夜僕を寮に送った後、久々に再会した同期や先輩方と合流して遅くまで騒いでいたらしい。饒舌に、面白可笑しく彼らの話をしてくれた。

 コンサートでこいつの友人が、天使くんに立派な花束を渡そうと大そう張り切っていたのだそうだ。いざ彼の演奏が終わるや否や、そんな奴らでステージ前はひしめき合って大混乱。危うく喧嘩沙汰にまでなりかけて、天使くんは、結局、誰の花束も受け取らなかったそうだ。この騒動で時間も大きく押してしまい、次に控えていたオーケストラは、ハイピッチの演奏を必死の形相で披露していたって。

「それできみの友人は、すごすご花を抱えて帰ったの?」
「僕が待ち合わせのパブへ行ったときにはね、きみのための花だ、なんて言いながらどこかの美女を口説いていたよ」
「それはいい! 無垢な天使に捧げられるより、よほど真っ当な活用法だよ」

 僕は声を立てて笑った。
 こんな調子で鳥の巣頭は、道々、ともすれば沈みがちな僕の気持ちを引きたてるためか、ずっと切れ間なく喋っていた。友人の話。大学の話。次の夏には旅行に行きたい――。そんな話。明るい希望に満ちた未来の話。晴れ渡る夏の陽射しに似た、真っ直ぐなこいつの語る影のない世界の――。

 こいつには、こいつの生きる世界がある。

 ジョイントの作りだす偽りの霧の中で、微睡み続けていた僕とは違う。鳥の巣頭は現実の中で生きている。

 僕にはその事実が嬉しい。



 鳥の巣頭の母親は、にこやかな笑みを湛えて僕を迎えいれてくれた。
 前回、僕に懺悔し泣き濡れた彼女は、そんな様子をおくびにもださず、なにか吹っ切れたような快活で慈悲深い瞳の、そんな初めて逢った頃の彼女に戻っていた。

 僕という異分子が、これまでどれほど彼女の生活を脅かしてきたか、計り知れないというのに……。
 彼女は僕を抱きしめ髪に優しくキスをくれる。

「遠慮しないでゆっくりしていってね、マシュー。あなたは家族同然なのですもの」

 僕に向けられた毅然とした眼差しは、鳥の巣頭のそれによく似ている。

 僕が彼女を好きになれないのはこのせいだ。

 上品な仕草でお茶を淹れる彼女の女性らしいしなやかな手は、僕の母の艶めいた手とはまるで異なっている。むしろ鳥の巣頭の武骨な手を思いださせるそれは、優しく温かい、施しを与える手。彼女から向けられる笑顔は、僕を通り越し、いと高き者に向けられているように僕には見える。僕の前に立つ彼女の姿は、自らを贖罪に捧げた聖女のようで。

 そんな彼女の影は、鳥の巣頭の上にも見え隠れする。
 その度に、僕は顔を背けずにはいられない。

 それは、あなたの罪じゃない。
 それは、きみの罪じゃない。

 そんな見当違いな憐憫で、僕を支配しようとするのはやめてくれ。それは僕に向けられた愛じゃない。あなたと神との関係に、僕を巻き込むのはやめてくれ。僕はあなたを恨んではいない。あなたがあなたの心を裏切ったのだとしても、その償いはあなたの神に向けられるものであって、僕に向けられるものではないはず。

 お願いだ。どうか、もう――。


「マシュー」

 僕に向けられたこいつの眼差し。
 僕はそれを愛だと信じたい。神への愛ではなく僕自身に向けられた愛だと。

「マシュー、きみも晩祷ばんとうに行く? キャロルを聞くのは好きだろ?」

 鳥の巣頭の懇願の瞳に、僕は微笑んで頷いた。
 せめてクリスマスの日くらい、腐りきった僕を教会に連れていき、神の御慈悲を乞いたい――。そんなこいつの気持ちは理解できたから。





 夕食を済ませてから、僕たちは鳥の巣頭の車で村の教会へ向かった。
 車から足を下ろした地面は、薄らと白く柔らかな膜で覆われていた。仰ぎ見た吸い込まれそうな漆黒の空には、またちらちらと雪が舞い始めている。

 コートのポケットに手を突っ込んだまま薄闇に佇み、ステンドグラスの窓に溢れる柔らかな光でもって人々を招きいれている、古色蒼然とした小さな教会を見あげた。エリオットの壮麗な礼拝堂とは比べ物にならない、小さな飾り気のない石造りの教会だ。鳥の巣頭の話では十七世紀の建築だという。

 開かれた扉からクリスマスキャロルが流れている。足を踏みいれた聖堂の一階フロアはすでに人で埋まっていたので、僕たちは二階のバルコニーに上がった。壁に備えつけられた蝋燭の灯りは心もとなく、鳥の巣頭は僕の肩を抱いて人混みをぬい、慣れた足取りで場所を確保してくれた。

「きみも聖歌隊にいたんだよね」
 僕は微笑んで頷いた。
「その頃のきみを見てみたかったな。赤のキャソックに白いサープリスを着たきみは、天使のように可愛らしかったに違いないもの」

 バルコニーから階下に居並ぶ聖歌隊を覗きこみ、次いで目を細めて僕を見る鳥の巣頭は、入学したばかりの頃の僕を思いだしているのだろうか……。

 濃い闇の中に浮かび上がる聖歌隊員が手に持ついくつもの蝋燭が、歌声に流され、光の洪水となってさざ波を起こしゆらゆらと揺れている。

「――その頃に出逢っていたら、きみの弾くパイプオルガンの伴奏で歌っていたかもしれないね」

 いつの間にかキャロルは終わり、荘厳な鐘の音が礼拝の始まりを告げるために鳴り響いていた。



 司祭さまの説教に続き、聖歌が澄み切った歌声に乗り堂内を満たす。僕もともに歌っていた。旋律も、歌詞も、まだ覚えていた。

 と、揺れる蝋燭の灯と伸び上がる影の波間に、僕は、突然、僕の姿を見いだした。

 逆流する時間の先に、決して取り戻すことはできないと思っていた過去、決して繋がることはできないと思っていたかつての自分が、確かにいた。

 僕は、見開いた両の眼からぽろぽろと零れ落ちる涙に、こみあげる嗚咽に、それ以上歌うことができなくなり両手で顔を覆っていた……。


 身を捩りむせび泣く僕に気づき、鳥の巣頭は目立たない柱の陰に僕をいざなった。肩を震わせて泣き続ける僕を胸に抱き、そっと包み込むように腕を廻した。


「神がどれほど厳しい試練をきみに課そうと、僕はきみとともに立ち向かうよ。だから、お願いだマシュー、僕を信じて。僕の愛を信じて、マシュー」

 波となって打ち寄せる荘厳な聖歌に溶ける鳥の巣頭の掠れた声が、天に向かって差し伸ばした僕の掌を伝い、流れて落ちた。




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