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最終章
175 コンサート4
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これは恵み
哀れみ
それとも愛?
コンサートホールの吐きだす人々を、冷たい外気の吹きこむエントランスでお見送りする。煌びやかなドレスは毛皮や厚手のコートで覆われ、満足気な笑みを湛えた紳士淑女たちが、僕たちの持つ赤い募金箱に小切手を次々と放りこんで歩みさる。
僕の両隣には、体格の良い、だが強面に見えるその顔にまだまだ幼げな笑みを浮かべた役員が、はきはきとした大声でお礼を告げている。
僕に労い以上の言葉をかけようとする輩も大勢いたのだが、こうも両脇をいかつい二人に固められていたら話し辛いらしい。さりげなく名刺を渡して立ち去るのがほとんどだった。僕は「ありがとうございます」と微笑んで、その名刺を募金箱の中に落とした。
だけどそんな連中のことなんてどうでもいい。僕は覚悟を決めて待っていたのだ。
狼が、姿を現す瞬間を。
彼がこのまま黙ってこの場を立ちさる訳がない。明日からクリスマス休暇に入るのだから。だから彼はここに来たに違いないのだ。
卒業セレモニーの時のように、僕に脅しを掛けるために! 僕が決して甘い夢など見ないように!
緊張で足が震えていた。背中にはびっしょりと汗をかいていた。きっと、今の僕は、いびつな汚い笑みを貼りつかせている……。
逃げだしたかった。この場から。今すぐにでも!
でもどこへ? 逃げ場所なんてどこにある?
狼から逃げ果せる訳がない。僕が姿を見せなければ、あいつは鳥の巣頭や銀狐にかぶりつく。そうに決まっている。
白い手が、僕の首筋を撫であげ耳許で囁いている。
戻っておいで――、と。
お前が戻る場所は、俺の元しかないだろう――、と。
蛇やアヌビス、名前すら知らない誰かの声で囁いている。喉の奥で、押し殺したように嗤いながら。
「マシュー?」
鳥の巣頭の声に驚いて、面をあげた。
「待ってる。寮まで送るよ」
僕は頷きかけた。だが、鳥の巣頭の後ろに立っていた彼に気づいてそのまま血の気を失っていた。
「素晴らしいコンサートだったね」
肩に置かれた手と柔らかな低音に、鳥の巣頭が振り返る。夜だというのに黒いサングラスをかけた面に、大きめの口が三日月のような笑みを形作っている狼が、募金箱の口に二つ折りにした小切手を落としながら話しかけていたのだ。
「本当に。特にリスト。素晴らしかったですね」
「天使のように愛らしい奏者だったね」
天使くん――。
僕の頭からすっぽりと落ちていた彼のことを、二人とも申し合わせたように褒めちぎっている。
馴れ馴れしく鳥の巣頭と会話する狼が意気投合したフリをして、このままこいつをどこかへ連れさってしまうつもりではないかと、気が気じゃなかった。だが、それは僕の杞憂にすぎず、彼は「ご苦労様、良いクリスマスを」とだけ言い、その場を去ってくれた。
聞こえるほど大きな吐息をついてしまった僕を、鳥の巣頭は心配そうに見つめた。両隣の役員も、「おい、具合が良くないんだろ、ここはもういいよ」「もうほとんど終わりだ、いいから休んどけ」と僕の持っていた募金箱を取りあげて、顎で壁際のソファーを指し、促してくれた。「ありがとう」と、申し訳ない思いで長身の彼らを見あげて言うと、二人とも照れたように笑っていた。
「大丈夫、マシュー?」
鳥の巣頭の瞳がまた不安に揺れている。昔みたいに。
「平気」
僕はにっこり笑ってみせた。
そのまま、黙ったままぼんやりとしていた。それ以上言葉なんて出てこなかった。
もう観客のほとんどは会場を出ていて、ホワイエには後片づけの役員連中が行き交っているだけだ。銀狐が集合をかけている。僕が頭を上げると、彼は「かまわない」というふうにひらひらと掌を振った。
僕は苦笑しながら呟いた。
「きみに、いいところを見せたかったのにな」
いつまで経っても僕は変われない。情けない、役立たずのまま。
「見てたよ。きみが精一杯頑張っているところ、僕はずっと見ていたよ」
こいつと僕の隙間にだらりとおろしていた僕の手を、鳥の巣頭は強く握りしめてくれた。
「ゆっくりでいいんだよ、マシュー。ゆっくりで。僕たちは、マイナスからのスタートなんだ。皆と同じスタートラインに立とうとするだけでも、時間も努力もひとの倍、いや、数倍かかるんだ。だからね、焦らないで。僕はいつだって、きみの横できみを見ているからね」
声を出して応えようとしたら泣いてしまいそうで、こいつの手をぎゅっと握った。それくらいしか、できなかった。
「さぁ、寮まで送っていくよ」
「それには及びません、ミルドレッド先輩。僕がいますから」
頭上から副寮長の声が落ちてきた。
鳥の巣頭は、副寮長と僕を車で寮まで送ってくれた。今晩、こいつは街のホテルに泊まり、明日の恒例の大掃除が終わるころに僕を迎えにきてくれる。
「また明日。無理せずにゆっくり休むんだよ」
「点呼は僕がしておきますよ。先輩、ご心配なく」
副寮長はきっぱりと答えながら僕の背中に腕を廻した。鳥の巣頭の目の前で。僕にはその腕を振り払う気力もなかった。ビュッフェの更衣室で聴いたあの会話が、小さな羽虫となって入りこんででもいるかのように、しつこく耳の中で蠢いていたから。
どうせ、僕はこいつらに払いさげられる餌――。
もう、立っていることさえ覚束ない。
「寮長、足元に気をつけて。暗いですからね」
「寮長、可哀想に。こんなに震えて」
点呼を終えた副寮長が当然のように僕の部屋にいた。
彼はソファーでぼんやりしていた僕の横に躰を添わせるようにして座ると、内ポケットからシガレットケースを出し、ジョイントを銜えた。
カチッと、薄闇の中に焔が揺れる。
彼は慣れた手付きで口をすぼめて軽く吸い込み、ゆっくりと薄煙を吐きだす。そして僕の肩を抱き、「寮長、どうぞ。落ち着きますよ」と吸い差しを僕の震える唇に銜えさせた。
深く、深く、白い煙を吸い込んだ。
甘い香り。とろりとした密な香り。僕を捉えて離さない、懐かしい――。
ゆっくりと吐きだす。がくん、と床が陥没したように意識が墜ちる。地の底へ。溶ける。
駄目だ。駄目だ。駄目だ!
僕は激しく頭を振った。こんなものでは、僕はもう掬い上げられない。僕を絡め取ろうとする白い煙を振り切った。
「もういい。充分だ」
僕は吸い差しのジョイントを彼に返した。彼はそれをもう吸わずに携帯ケースで揉み消した。
「先輩、」
いつの間にか泣き濡れていた僕の頬を伝う涙を、白い、だが温かな手が何度も何度も拭っている。
「僕がいますから。あなたの傍には、僕が……」
近づいてくる躰を押し戻し、頭を振った。
「消灯時間をすぎてるよ。部屋にお戻り。おやすみ、副寮長」
すいっと立ちあがり、この部屋のドアを開けた。彼は憮然と僕の前を通りすぎる時、小さな声で「おやすみなさい」と呟いた。
哀れみ
それとも愛?
コンサートホールの吐きだす人々を、冷たい外気の吹きこむエントランスでお見送りする。煌びやかなドレスは毛皮や厚手のコートで覆われ、満足気な笑みを湛えた紳士淑女たちが、僕たちの持つ赤い募金箱に小切手を次々と放りこんで歩みさる。
僕の両隣には、体格の良い、だが強面に見えるその顔にまだまだ幼げな笑みを浮かべた役員が、はきはきとした大声でお礼を告げている。
僕に労い以上の言葉をかけようとする輩も大勢いたのだが、こうも両脇をいかつい二人に固められていたら話し辛いらしい。さりげなく名刺を渡して立ち去るのがほとんどだった。僕は「ありがとうございます」と微笑んで、その名刺を募金箱の中に落とした。
だけどそんな連中のことなんてどうでもいい。僕は覚悟を決めて待っていたのだ。
狼が、姿を現す瞬間を。
彼がこのまま黙ってこの場を立ちさる訳がない。明日からクリスマス休暇に入るのだから。だから彼はここに来たに違いないのだ。
卒業セレモニーの時のように、僕に脅しを掛けるために! 僕が決して甘い夢など見ないように!
緊張で足が震えていた。背中にはびっしょりと汗をかいていた。きっと、今の僕は、いびつな汚い笑みを貼りつかせている……。
逃げだしたかった。この場から。今すぐにでも!
でもどこへ? 逃げ場所なんてどこにある?
狼から逃げ果せる訳がない。僕が姿を見せなければ、あいつは鳥の巣頭や銀狐にかぶりつく。そうに決まっている。
白い手が、僕の首筋を撫であげ耳許で囁いている。
戻っておいで――、と。
お前が戻る場所は、俺の元しかないだろう――、と。
蛇やアヌビス、名前すら知らない誰かの声で囁いている。喉の奥で、押し殺したように嗤いながら。
「マシュー?」
鳥の巣頭の声に驚いて、面をあげた。
「待ってる。寮まで送るよ」
僕は頷きかけた。だが、鳥の巣頭の後ろに立っていた彼に気づいてそのまま血の気を失っていた。
「素晴らしいコンサートだったね」
肩に置かれた手と柔らかな低音に、鳥の巣頭が振り返る。夜だというのに黒いサングラスをかけた面に、大きめの口が三日月のような笑みを形作っている狼が、募金箱の口に二つ折りにした小切手を落としながら話しかけていたのだ。
「本当に。特にリスト。素晴らしかったですね」
「天使のように愛らしい奏者だったね」
天使くん――。
僕の頭からすっぽりと落ちていた彼のことを、二人とも申し合わせたように褒めちぎっている。
馴れ馴れしく鳥の巣頭と会話する狼が意気投合したフリをして、このままこいつをどこかへ連れさってしまうつもりではないかと、気が気じゃなかった。だが、それは僕の杞憂にすぎず、彼は「ご苦労様、良いクリスマスを」とだけ言い、その場を去ってくれた。
聞こえるほど大きな吐息をついてしまった僕を、鳥の巣頭は心配そうに見つめた。両隣の役員も、「おい、具合が良くないんだろ、ここはもういいよ」「もうほとんど終わりだ、いいから休んどけ」と僕の持っていた募金箱を取りあげて、顎で壁際のソファーを指し、促してくれた。「ありがとう」と、申し訳ない思いで長身の彼らを見あげて言うと、二人とも照れたように笑っていた。
「大丈夫、マシュー?」
鳥の巣頭の瞳がまた不安に揺れている。昔みたいに。
「平気」
僕はにっこり笑ってみせた。
そのまま、黙ったままぼんやりとしていた。それ以上言葉なんて出てこなかった。
もう観客のほとんどは会場を出ていて、ホワイエには後片づけの役員連中が行き交っているだけだ。銀狐が集合をかけている。僕が頭を上げると、彼は「かまわない」というふうにひらひらと掌を振った。
僕は苦笑しながら呟いた。
「きみに、いいところを見せたかったのにな」
いつまで経っても僕は変われない。情けない、役立たずのまま。
「見てたよ。きみが精一杯頑張っているところ、僕はずっと見ていたよ」
こいつと僕の隙間にだらりとおろしていた僕の手を、鳥の巣頭は強く握りしめてくれた。
「ゆっくりでいいんだよ、マシュー。ゆっくりで。僕たちは、マイナスからのスタートなんだ。皆と同じスタートラインに立とうとするだけでも、時間も努力もひとの倍、いや、数倍かかるんだ。だからね、焦らないで。僕はいつだって、きみの横できみを見ているからね」
声を出して応えようとしたら泣いてしまいそうで、こいつの手をぎゅっと握った。それくらいしか、できなかった。
「さぁ、寮まで送っていくよ」
「それには及びません、ミルドレッド先輩。僕がいますから」
頭上から副寮長の声が落ちてきた。
鳥の巣頭は、副寮長と僕を車で寮まで送ってくれた。今晩、こいつは街のホテルに泊まり、明日の恒例の大掃除が終わるころに僕を迎えにきてくれる。
「また明日。無理せずにゆっくり休むんだよ」
「点呼は僕がしておきますよ。先輩、ご心配なく」
副寮長はきっぱりと答えながら僕の背中に腕を廻した。鳥の巣頭の目の前で。僕にはその腕を振り払う気力もなかった。ビュッフェの更衣室で聴いたあの会話が、小さな羽虫となって入りこんででもいるかのように、しつこく耳の中で蠢いていたから。
どうせ、僕はこいつらに払いさげられる餌――。
もう、立っていることさえ覚束ない。
「寮長、足元に気をつけて。暗いですからね」
「寮長、可哀想に。こんなに震えて」
点呼を終えた副寮長が当然のように僕の部屋にいた。
彼はソファーでぼんやりしていた僕の横に躰を添わせるようにして座ると、内ポケットからシガレットケースを出し、ジョイントを銜えた。
カチッと、薄闇の中に焔が揺れる。
彼は慣れた手付きで口をすぼめて軽く吸い込み、ゆっくりと薄煙を吐きだす。そして僕の肩を抱き、「寮長、どうぞ。落ち着きますよ」と吸い差しを僕の震える唇に銜えさせた。
深く、深く、白い煙を吸い込んだ。
甘い香り。とろりとした密な香り。僕を捉えて離さない、懐かしい――。
ゆっくりと吐きだす。がくん、と床が陥没したように意識が墜ちる。地の底へ。溶ける。
駄目だ。駄目だ。駄目だ!
僕は激しく頭を振った。こんなものでは、僕はもう掬い上げられない。僕を絡め取ろうとする白い煙を振り切った。
「もういい。充分だ」
僕は吸い差しのジョイントを彼に返した。彼はそれをもう吸わずに携帯ケースで揉み消した。
「先輩、」
いつの間にか泣き濡れていた僕の頬を伝う涙を、白い、だが温かな手が何度も何度も拭っている。
「僕がいますから。あなたの傍には、僕が……」
近づいてくる躰を押し戻し、頭を振った。
「消灯時間をすぎてるよ。部屋にお戻り。おやすみ、副寮長」
すいっと立ちあがり、この部屋のドアを開けた。彼は憮然と僕の前を通りすぎる時、小さな声で「おやすみなさい」と呟いた。
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