微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

173 コンサート2

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 きよしこの夜
 救いの御子は
 微睡みの中



 クリスマスコンサート当日までの数週間は、あっという間に過ぎていった。チケットは完売。生徒会としては、立ち見席用チケットを急遽追加で売りだす始末だ。僕も恒例の招待状の宛名書きで忙殺されていた。
 書き物専門の僕は、生徒総監ではあるけれど足の悪い銀狐といつもにも増して執務室に二人でいることが多かったせいか、ボート部の子たちが僕にまとわりつくこともなくなった。副寮長は相変わらずなにくれと僕の世話を焼いてくれていたけれど、彼らとそのことでいがみあうこともなくなった。
 この穏やかな日々に、僕はどこか安心して浸りきっていたのかもしれない。それとも、この和やかで温かな日常を手放すのが嫌で、考えることを放棄してしまっていたのだろうか――。



 夕刻、コンサートは忙しなく、だが特に問題もなく始まった。
 座席数を超える観客数で、開場から開演までの三十分間は、人、人、人でごった返していた。正装した紳士方に艶やかなドレスの淑女たち。煌びやかに着飾った来賓の方々を座席に案内するのが、僕たちの役務だ。タキシードを着た鳥の巣頭の姿も垣間見えた。でも僕はあいつに目線を送るだけ。あいつは先輩、後輩たちに捉まっていて、とても話なんてできそうになかったのだ。

 開演のブザーが鳴ると人の波は引き潮に変わり、三か所に設置された扉に吸い込まれていった。ホワイエに、波が引いた後のベージュの砂浜が広がる。

 ほっと肩で息を吐いていると、ホールの中央扉が押され、きょろきょろと辺りを見廻す鳥の巣頭が僕を見つけて相好を崩した。僕も嬉しくて片手をあげ、かけた時にはあいつはもう、他の役員に捉まって囲まれてしまっていた。

 べつに、遠慮せずに僕もあの輪の中に加わればいいのだけれど――。



「マシュー、ビュッフェの控室でグラスの準備をしてくれる?」
 銀狐に背中をぽんと叩かれた。
 僕は未練がましく鳥の巣頭を一瞥すると、踵を返してビュッフェカウンターから控室に入った。

 鳥の巣頭がせっかく来てくれているのに……。この扉の向こうにいるのに……。

 がっかりしてやる気になれず、僕はドアにもたれかかったまま、箱の中のグラスの山を腹立ちを込めて睨めつけていた。

「マシュー、」
 小さなノックの音と、懐かしい声がした。
「マシュー、いるんだろ?」
 慌てて躰を反転させ、ドアを開けた。
「手伝うよ」
 照れくさそうに鳥の巣頭が笑っている。

 僕は考える間もなくこいつの胸に飛び込んで、ぎゅっと背中に腕を廻して抱き締めていた。

「頑張っているんだね」
 鳥の巣頭も、僕を抱きしめ返してくれる。
「ずっと見ていたよ」
 髪を優しく梳いてくれる。

 でも、僕がこいつの口を唇で塞いだので、それ以上の言葉は続かなかった。





 頃合いを見計らって銀狐がこのドアをノックするまで、僕は鳥の巣頭に存分に甘えた。こいつは僕と一緒にトレーにグラスを並べてくれた。とても楽しそうに。
 鳥の巣頭が仕方なくホールに戻った後、「おや、ちゃんと役務をこなしていたんだ。もっと別のことをしているかと思っていたのに」と銀狐は、長テーブルの上に綺麗に並べられたグラスを見てくすくす笑った。
「きみが邪魔しに来ると読んでいたからね、僕は」
 にっこりと笑みを向ける。
「口許に締まりがなくなっているよ」
 一言意地悪を言ってから、銀狐は「じきに休憩時間に入るから」と真顔になって次にすべき指示をくれた。




 開かれた扉から、人混みがまた吐きだされてホワイエを満たしていく。僕たちはシャンパンの注がれたグラスを載せたトレーを片手に、来賓の方々に配って歩く。銀狐の一番憂慮していた時間の始まりだ。

 僕は笑顔を湛えたお面を被る。
 目を合わさないように、差し伸ばされた手にグラスを渡す。話しかけられる前に踵を返し、次の方へ。

 ほら、僕はちゃんとやれているだろ?

 つい、鳥の巣頭を探してしまった。
 だが、見つかったのはあいつじゃない――。

 白い、太い円柱の脇に佇むタキシードを着た狼だ。

 彼は僕を見ていた。傍らの男と談笑しながら。その男も僕を見ている。上から下まで、舐めるような視線で僕を見ている。満足そうな顔で頷き、狼に何か告げている。狼は肩を揺すって笑っている。
 狼の躰がゆらりと動いた。

 僕の方に来る。そう思った。

 僕はその場から逃げだしていた。幸いトレーにグラスは残っていない。柔らかな砂地に沈み込んでいくような縺れる足を引き抜いて、肩をぶつけてしまった誰かに「すみません」と何度も謝りながら、僕の行く手を邪魔する人々の間をすりぬけ、ビュッフェの控室に逃げこんだ。

「モーガン、表はどうだい? シャンパンは足りそうかい?」
「――数は足りているみたいだよ。ちょっと変わってくれるかな、」
 僕の蒼褪めた顔に、控室の番をしていた彼はすぐに納得してくれた。
「無理するな、座って休んでおけよ」


 彼が代わりにトレーを持ってでた後も、僕にまとわりついた恐怖は消えなかった。ガタガタと震え続けていた。

 今にも狼が僕を捕まえにやってくるのではないかと、怖くて、怖くて……。

 この控え室の鍵をかけてしまう訳にはいかなかったから、その奥の更衣室に入って鍵をかけた。暗闇の中でやっと息がつけた。躰は力なくドアにもたれかかったまま、ずるずると床に座り込んでしまっていたけれど――。

 息を殺し、時をやり過ごしていた。
 どれくらい経ったのだろうか――。

「先輩! モーガン先輩!」

 ボート部の子の声にほっとして、膝の上で抱えこんでいた面をあげた。

「なんだ、いないじゃないか」
「どこに行ったんだろうねぇ」

 返事をしようとしたのだ。でも唇が震えるばかりで、まだ力が入らない。

「ミルドレッド先輩が来ていたからな、どこかでお楽しみなんじゃないの?」
「明日から休暇だっていうのに?」
「そりゃあ、直ぐにでもやりたいだろ? あの人を見たらさぁ」
 下品な笑い声がドア越しに響く。

「マクドウェルさん、本当に上手くいったら先輩を僕らに下さるのかな?」
「あのひとは約束は守る人だよ! そのためにあのいけ好かない野郎と手を結んだんじゃないか!」
「後継者さえいれば、ジョイントを広げるのに消極的なモーガン先輩は用済みだものね」
「卒業までの間しか楽しめないんだからさ、さっさと俺たちの課題を片づけてしまおうぜ」
「三人で、って言うのが悔しいけどね。もともと、僕らのモーガン先輩なのに……」
「そりゃあな、でもまずは課題だ」
「確かに。まずは銀ボタンだね」
「一筋縄じゃいかないからな、あいつは……」
「マクドウェルさん、あいつのむちゃぶりを知らないからなぁ」
「全くだ。あーあ、ちゃっちゃと銀ボタンを捉まえて、早く先輩を抱きたいよ!」
「フェイラーも可愛いけど、やっぱり先輩だね、あの色気!」
「あの声だけで、イってたもんな」
 ふざけたよがり声に、相方の嬉し気な笑い声が重なる。

「おい! ちょっといいか?」
 ノックの音に、パイプ椅子をガタガタと引く音が響いた。
「はい! 今、行きます!」

 それきり控え室は静まり返った。



 この狭い暗闇の中から、僕は声を出すことも、ぬけだすことも、できなかった――。




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