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最終章
169 林檎
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巡る季節に
薫る郷愁
その後、一週間も授業を休んでしまった。
こまごまと気のまわる副寮長が僕の世話をしてくれた。僕の毎日は、鳥の巣頭がいた頃と何も変わらない。誰かに世話をかけ甘えている間に、いつの間にか月日だけがすぎている。僕はぼんやりとその場に留まったまま――。
銀狐が見舞いにきてくれた。
怒っているようなきつい金の瞳で僕を睨めつけ、膨れっ面をしている。彼のこの怒り顔を見ると嬉しくなって、思わずにっこりしてしまったよ。
「本当、迷惑。きみがいないと、僕は毎日不味い紅茶を飲まされなくちゃならないんだよ!」
ぶつぶつ文句を言いながら銀狐はベッド脇に椅子をよせて腰かけ、ローブのポケットから林檎と、アーミーナイフを取りだした。
「きみ、器用だね」
彼の掌の上で瞬く間にくし型にされていく林檎に見とれ、僕は感嘆の声をあげる。その拳の半分もないような小さな林檎を、わざわざ細かく一口大にしてくれている彼の気遣いが嬉しかった。本当のところ、僕は喉が痛い訳でも、口が開けられない訳でもないのだが――。
「はい、どうぞ。これくらいは食べられるんだろ?」
医療棟でストレス性の胃炎と診断された僕は、ここ数日まともな食事を取っていない。胃が痛くて食べられないのだ。だから日に一回、食事代わりの点滴を打ってもらっている。本当はこうして寝ている必要はないのだけれど、ふらついてとても授業にでていられる状態ではなく、仕方なくベッドの中にいる。
紅茶用のソーサーの上に並べられた林檎をひとつ摘まんだ。しゃりっと固い音をたて、甘酸っぱい味が口内に広がる。
「もうそんな季節なんだね、忘れていたよ」
十月は林檎の収穫の季節だ。おそらくこれは、窓から見えるあの林の、入り口辺りに植わっている林檎の樹の実に違いない。
銀狐は口をへの字に曲げたまま、くいっと眉根をあげた。
「きみの体調が戻ったら、あのパブに銀ボタンくんのアップルパイを食べに行こう」
「アップルパイ?」
「アップルデーの催しの一環で期間限定スイーツ。きみ、そういうの好きだろう?」
膨れっ面で素っ気なく、急にそんなことを言いだすから、僕はまた笑ってしまった。
「笑うなよ。きみがストレスで寝こむなんて、僕はジョナスに顔向けできないんだ」
拗ねたようにそっぽを向いた彼がおかしくて、僕は涙を滲ませて笑ってしまった。でも、本気で彼を怒らせてしまうのは嫌だったので、掌で口許を覆って必死に堪えたよ。
「きみのせいじゃないじゃないか。それにしても、僕を食べ物で釣ろうとするなんてね」
くすくす笑いながら、僕はもう一つ林檎を摘まんだ。いつもの寮の食事のデザートで当然のようにだされ、談話室に切れることなく置かれている小さな林檎。同じ林檎のはずなのに、これは傷んでいた胃に優しく染みる。躰が喜んでいるのが自分でも分かる。
「ありがとう」
シャリシャリと音を立てながら、僕は彼にお礼を言った。
「お礼に、美味しい紅茶を淹れてあげるよ」
そう言ってベッドから出ようとすると、彼はまた渋い顔をして首を横に振った。
「今はいい。僕がするよ。満足に食事できていないんだろ? 急に動き回ったら貧血を起こすよ」
銀狐はベッドと応接セットを仕切る衝立の向こうへ消えた。手慣れた様子でてきぱきと湯を沸かし、お茶の準備を始めているらしい。そんな音が聞こえてくる。
僕は呆れて吐息を漏らした。いつだって彼は、すべてにおいて手際がいいのだ。
「起きられるならこっちへ――。ああ、いいよ、まだ顔色が悪い」
湯気の立つティーカップの一方を椅子の座面に置くと、銀狐は、自分は立ったままもう一方のティーカップを口に運んだ。僕は慌ててソーサーごと持ち上げて、「座って」と彼を見あげた。
「林檎、もっと食べる?」
右手にカップを持ったまま、彼の差し出した左手にはまた一つ林檎がのっている。
「きみ、ローブのポケットにいったい、いくつ林檎を隠し持っているの?」
僕は笑いながら彼に訊ねた。銀狐はにっと笑って僕の膝にその林檎を置いた。そして真顔になってじっと僕を見つめた。
「きみのストレスの原因は、あのポスター?」
「ポスターって?」
小首を傾げてみせた僕に、銀狐はわずかに眉根を寄せる。
しまった、と思っている?
小さく吐息を漏らし、彼はローブの下の内ポケットからスマートフォンを取りだし操作してから、僕に画面を向けた。
「これ、ソールスベリー先輩の会社の新しいポスター」
「去年話題になった写真だね」
僕は銀狐の渋面に合点がいって、くすりと笑った。
その小さな画面の中の画像は、去年のクリスマスの、大鴉と天使くんの写真だった。
『You can fly (飛べるよ) 』
というコピーの下に、黒いキャスケットを被り、黒いジャケットの片羽の天使くん。彼は頭上を驚いたように眺めている。そしてその横には、天使くんの手を取って走るカーキ色のコートを着た大鴉がいる。何かから逃げている、というよりも自由を求めて未来に向かって――。といった雰囲気で、僕のお気に入りの一枚とまったく同じ。僕の画像ホルダーにもいまだに大切に保存してある。
「かっこいいよね」
でも、ポスターに加工されたこの画像の方が、僕のよりも画質が綺麗だ。それにこのコピーも、翼を持つ彼らにぴったりだ。僕も後で検索してこの画像を保存しておこう、と、にやにやしながら見ていると、横でくっくっと、笑われた。
「きみって、本当、分からないよ」
銀狐は僕に呆れているのか、安心しているのか良く分からない。けれど目を細めておかしそうに笑っている。
「だから言ったろう? 僕は彼に惹かれているけれど、それはきみの思っているような好きとは違うんだって」
「そうみたいだね。――それじゃあ、きみのストレスの原因は何?」
真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、もう笑みを湛えてはいなかった。僕は応えられずに睫毛を伏せ、ぎこちなく彼の淹れてくれた紅茶を口に運んだ。
薫る郷愁
その後、一週間も授業を休んでしまった。
こまごまと気のまわる副寮長が僕の世話をしてくれた。僕の毎日は、鳥の巣頭がいた頃と何も変わらない。誰かに世話をかけ甘えている間に、いつの間にか月日だけがすぎている。僕はぼんやりとその場に留まったまま――。
銀狐が見舞いにきてくれた。
怒っているようなきつい金の瞳で僕を睨めつけ、膨れっ面をしている。彼のこの怒り顔を見ると嬉しくなって、思わずにっこりしてしまったよ。
「本当、迷惑。きみがいないと、僕は毎日不味い紅茶を飲まされなくちゃならないんだよ!」
ぶつぶつ文句を言いながら銀狐はベッド脇に椅子をよせて腰かけ、ローブのポケットから林檎と、アーミーナイフを取りだした。
「きみ、器用だね」
彼の掌の上で瞬く間にくし型にされていく林檎に見とれ、僕は感嘆の声をあげる。その拳の半分もないような小さな林檎を、わざわざ細かく一口大にしてくれている彼の気遣いが嬉しかった。本当のところ、僕は喉が痛い訳でも、口が開けられない訳でもないのだが――。
「はい、どうぞ。これくらいは食べられるんだろ?」
医療棟でストレス性の胃炎と診断された僕は、ここ数日まともな食事を取っていない。胃が痛くて食べられないのだ。だから日に一回、食事代わりの点滴を打ってもらっている。本当はこうして寝ている必要はないのだけれど、ふらついてとても授業にでていられる状態ではなく、仕方なくベッドの中にいる。
紅茶用のソーサーの上に並べられた林檎をひとつ摘まんだ。しゃりっと固い音をたて、甘酸っぱい味が口内に広がる。
「もうそんな季節なんだね、忘れていたよ」
十月は林檎の収穫の季節だ。おそらくこれは、窓から見えるあの林の、入り口辺りに植わっている林檎の樹の実に違いない。
銀狐は口をへの字に曲げたまま、くいっと眉根をあげた。
「きみの体調が戻ったら、あのパブに銀ボタンくんのアップルパイを食べに行こう」
「アップルパイ?」
「アップルデーの催しの一環で期間限定スイーツ。きみ、そういうの好きだろう?」
膨れっ面で素っ気なく、急にそんなことを言いだすから、僕はまた笑ってしまった。
「笑うなよ。きみがストレスで寝こむなんて、僕はジョナスに顔向けできないんだ」
拗ねたようにそっぽを向いた彼がおかしくて、僕は涙を滲ませて笑ってしまった。でも、本気で彼を怒らせてしまうのは嫌だったので、掌で口許を覆って必死に堪えたよ。
「きみのせいじゃないじゃないか。それにしても、僕を食べ物で釣ろうとするなんてね」
くすくす笑いながら、僕はもう一つ林檎を摘まんだ。いつもの寮の食事のデザートで当然のようにだされ、談話室に切れることなく置かれている小さな林檎。同じ林檎のはずなのに、これは傷んでいた胃に優しく染みる。躰が喜んでいるのが自分でも分かる。
「ありがとう」
シャリシャリと音を立てながら、僕は彼にお礼を言った。
「お礼に、美味しい紅茶を淹れてあげるよ」
そう言ってベッドから出ようとすると、彼はまた渋い顔をして首を横に振った。
「今はいい。僕がするよ。満足に食事できていないんだろ? 急に動き回ったら貧血を起こすよ」
銀狐はベッドと応接セットを仕切る衝立の向こうへ消えた。手慣れた様子でてきぱきと湯を沸かし、お茶の準備を始めているらしい。そんな音が聞こえてくる。
僕は呆れて吐息を漏らした。いつだって彼は、すべてにおいて手際がいいのだ。
「起きられるならこっちへ――。ああ、いいよ、まだ顔色が悪い」
湯気の立つティーカップの一方を椅子の座面に置くと、銀狐は、自分は立ったままもう一方のティーカップを口に運んだ。僕は慌ててソーサーごと持ち上げて、「座って」と彼を見あげた。
「林檎、もっと食べる?」
右手にカップを持ったまま、彼の差し出した左手にはまた一つ林檎がのっている。
「きみ、ローブのポケットにいったい、いくつ林檎を隠し持っているの?」
僕は笑いながら彼に訊ねた。銀狐はにっと笑って僕の膝にその林檎を置いた。そして真顔になってじっと僕を見つめた。
「きみのストレスの原因は、あのポスター?」
「ポスターって?」
小首を傾げてみせた僕に、銀狐はわずかに眉根を寄せる。
しまった、と思っている?
小さく吐息を漏らし、彼はローブの下の内ポケットからスマートフォンを取りだし操作してから、僕に画面を向けた。
「これ、ソールスベリー先輩の会社の新しいポスター」
「去年話題になった写真だね」
僕は銀狐の渋面に合点がいって、くすりと笑った。
その小さな画面の中の画像は、去年のクリスマスの、大鴉と天使くんの写真だった。
『You can fly (飛べるよ) 』
というコピーの下に、黒いキャスケットを被り、黒いジャケットの片羽の天使くん。彼は頭上を驚いたように眺めている。そしてその横には、天使くんの手を取って走るカーキ色のコートを着た大鴉がいる。何かから逃げている、というよりも自由を求めて未来に向かって――。といった雰囲気で、僕のお気に入りの一枚とまったく同じ。僕の画像ホルダーにもいまだに大切に保存してある。
「かっこいいよね」
でも、ポスターに加工されたこの画像の方が、僕のよりも画質が綺麗だ。それにこのコピーも、翼を持つ彼らにぴったりだ。僕も後で検索してこの画像を保存しておこう、と、にやにやしながら見ていると、横でくっくっと、笑われた。
「きみって、本当、分からないよ」
銀狐は僕に呆れているのか、安心しているのか良く分からない。けれど目を細めておかしそうに笑っている。
「だから言ったろう? 僕は彼に惹かれているけれど、それはきみの思っているような好きとは違うんだって」
「そうみたいだね。――それじゃあ、きみのストレスの原因は何?」
真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、もう笑みを湛えてはいなかった。僕は応えられずに睫毛を伏せ、ぎこちなく彼の淹れてくれた紅茶を口に運んだ。
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