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最終章
168 噂話
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舞い散る木の葉が
風の軌跡を
教えてくれる
ハーフタームの間、鳥の巣頭は大学へ、僕はこの部屋か図書館ですごした。夕食を一緒にとり、フラットに泊まって、あいつは朝方寮に戻る。その繰り返しの九日間なんて、あっという間だ。
こいつがいる間は、なにもかも忘れてやたらと笑っていた気がする。何がおかしかったのかなんて覚えていない。僕が笑うとこいつが嬉しそうな顔をする、だから笑っていた。
朝、パタンとドアが閉まり、鳥の巣頭は大学に戻る。
僕は息を継いで、ベッドに身を投げだす。虚脱感で頭がぼやけている。
広い窓から鈍色の空が侵食し、この部屋の空気にまで重苦しい灰色を映す。
僕はなぜここにいるのだろう? いまだにここにいるのだろう?
あいつの横に――。
この一年をぶじにやりすごしたところで、僕は本当にあの狼から解放されるのだろうか? 梟みたいに彼に借金があるわけじゃない。負債があるわけじゃないんだ。何度そう自分に言い聞かせたところで、胸に燻り続ける不安は拭い去れない。そもそも、なぜ僕がこんなにも彼を恐れ、怯え、もう忘れ去ってしまいたいジョイントをこの手に握り続けなければならないのか、そこからして理解できない。
自分自身のことでさえこの理不尽さに納得できていないのに、その上、僕の大切な大鴉をあの狼の供物に捧げるなんて! 出来るはずがないじゃないか!
それなのに――。
天井から下がるペンダントライトの、温かなオレンジ色の光をぼんやり見つめていた。
もし、彼の言うことを聞かなかったら――。
光は、闇に流れるヘッドライトに形を変える。
その明かりに照らされ浮かびあがるのは、惨めな僕の姿じゃない。
あの、僕の目の前で命を散らした奨学生の姿なのだ。
ひるがえる黒いローブ。ブレーキの音。悲鳴。道に横たわる奨学生は、銀狐の顔をしている。
あるいは鳥の巣頭の錆色の巻き毛……。
そんな幻が僕を苛む。
あいつの温もりの残るこのベッドの上で。ラベンダー色を、沁みだした鮮やかな赤が侵食し、視界を染めあげる。
僕の選ぶべき選択肢は?
誰か、僕に、教えてくれ。
その噂話を聞いたのは、学校が始まってしばらくしてからのことだった。
ベンツとロールスロイスが事故に遭ったら、どちらがより安全か?
そんな話題で盛りあがる賑やかな声が、生徒会執務室前の廊下にまで響いていた。
それなのに僕が入室したら、皆の会話が急に途切れた。僕は、ちょっと小首を傾げてぎこちなく微笑んだ。
「邪魔しちゃったのかな?」
開いたドアから聞こえていた会話は、大した話には思えなかったのに。
僕の寮の副寮長が立ちあがり、棚に置かれた空きボトルを掴んで僕に微笑みかけた。
「先輩、お茶用の水が切れてしまって。水汲みを手伝っていただけますか?」
「かまわないよ」
いたたまれなさに、二つ返事で頷いた。棟の端にある給湯室まで行くと、彼は水道水をボトルに移しながら、憮然とした僕に同情するように上目遣いで見つめて、深く吐息を漏らした。
「まだお聞きになられていないのですね?」
「何を?」
きゅっと蛇口を捻り、水を止める。
「あの退学したラグビー部の元キャプテン、乗っていた自家用車が高速道路で煽られてトラブルになったらしくて、対向車に正面衝突したんですよ。乗っていたのがゴーストだったんでね、軽傷ですんだらしいんですがね。で、ぶつかった相手がベンツで。それであんな話をしていたんです。天罰ですよ。……ざまあみろだ!」
二本目のボトルに水を注ぎ入れる音が、ざあざあと、やけに大きく耳に響いた。
「先輩? どうされました?」
副寮長の指先が頬に触れる。ふらりと、躰が揺れた。狭い給湯室の食器棚に背中がぶつかり、大きく音を立てる。
「大丈夫ですか?」
――可哀想に……。もっと早く私に言えば良かったのに。
狼のあの大きな口がにたりと笑う。
「気持ち悪い」
僕は口を押さえ、すぐ隣にあるトイレに駆けこんで嘔吐した。もうこれまで何度吐いたか判らないほどだから、ちゃんと便器で吐いた。洗面台では、詰まらせてしまうからね。後始末が大変なんだ。
背中を副寮長が擦ってくれている。
――きみだって、このまま舐められたままじゃまずいだろう?
舐められるとか、舐められないとか意味が解らない……。わざとあの男の家の車を煽って事故に繋げ、どれほどの賠償金をたかるつもりなんだ? きっと、そんな事故なんて食いつくためのきっかけにすぎなくて。恐らく、いや、確実に、脅しをかけるのは僕のことだ。あの男が、七万ポンドなんて破格の小切手を切るから――。
――まぁ、考えておくさ。
考えた結果がこれか……。
よろめきながら立ちあがった。副寮長が背中を支えてくれていた。
「口、すすぎたい」
洗面台に設置された鏡に映る僕は、押し潰された幽霊のように、影のように、幽く悲愴な顔をしていた。
風の軌跡を
教えてくれる
ハーフタームの間、鳥の巣頭は大学へ、僕はこの部屋か図書館ですごした。夕食を一緒にとり、フラットに泊まって、あいつは朝方寮に戻る。その繰り返しの九日間なんて、あっという間だ。
こいつがいる間は、なにもかも忘れてやたらと笑っていた気がする。何がおかしかったのかなんて覚えていない。僕が笑うとこいつが嬉しそうな顔をする、だから笑っていた。
朝、パタンとドアが閉まり、鳥の巣頭は大学に戻る。
僕は息を継いで、ベッドに身を投げだす。虚脱感で頭がぼやけている。
広い窓から鈍色の空が侵食し、この部屋の空気にまで重苦しい灰色を映す。
僕はなぜここにいるのだろう? いまだにここにいるのだろう?
あいつの横に――。
この一年をぶじにやりすごしたところで、僕は本当にあの狼から解放されるのだろうか? 梟みたいに彼に借金があるわけじゃない。負債があるわけじゃないんだ。何度そう自分に言い聞かせたところで、胸に燻り続ける不安は拭い去れない。そもそも、なぜ僕がこんなにも彼を恐れ、怯え、もう忘れ去ってしまいたいジョイントをこの手に握り続けなければならないのか、そこからして理解できない。
自分自身のことでさえこの理不尽さに納得できていないのに、その上、僕の大切な大鴉をあの狼の供物に捧げるなんて! 出来るはずがないじゃないか!
それなのに――。
天井から下がるペンダントライトの、温かなオレンジ色の光をぼんやり見つめていた。
もし、彼の言うことを聞かなかったら――。
光は、闇に流れるヘッドライトに形を変える。
その明かりに照らされ浮かびあがるのは、惨めな僕の姿じゃない。
あの、僕の目の前で命を散らした奨学生の姿なのだ。
ひるがえる黒いローブ。ブレーキの音。悲鳴。道に横たわる奨学生は、銀狐の顔をしている。
あるいは鳥の巣頭の錆色の巻き毛……。
そんな幻が僕を苛む。
あいつの温もりの残るこのベッドの上で。ラベンダー色を、沁みだした鮮やかな赤が侵食し、視界を染めあげる。
僕の選ぶべき選択肢は?
誰か、僕に、教えてくれ。
その噂話を聞いたのは、学校が始まってしばらくしてからのことだった。
ベンツとロールスロイスが事故に遭ったら、どちらがより安全か?
そんな話題で盛りあがる賑やかな声が、生徒会執務室前の廊下にまで響いていた。
それなのに僕が入室したら、皆の会話が急に途切れた。僕は、ちょっと小首を傾げてぎこちなく微笑んだ。
「邪魔しちゃったのかな?」
開いたドアから聞こえていた会話は、大した話には思えなかったのに。
僕の寮の副寮長が立ちあがり、棚に置かれた空きボトルを掴んで僕に微笑みかけた。
「先輩、お茶用の水が切れてしまって。水汲みを手伝っていただけますか?」
「かまわないよ」
いたたまれなさに、二つ返事で頷いた。棟の端にある給湯室まで行くと、彼は水道水をボトルに移しながら、憮然とした僕に同情するように上目遣いで見つめて、深く吐息を漏らした。
「まだお聞きになられていないのですね?」
「何を?」
きゅっと蛇口を捻り、水を止める。
「あの退学したラグビー部の元キャプテン、乗っていた自家用車が高速道路で煽られてトラブルになったらしくて、対向車に正面衝突したんですよ。乗っていたのがゴーストだったんでね、軽傷ですんだらしいんですがね。で、ぶつかった相手がベンツで。それであんな話をしていたんです。天罰ですよ。……ざまあみろだ!」
二本目のボトルに水を注ぎ入れる音が、ざあざあと、やけに大きく耳に響いた。
「先輩? どうされました?」
副寮長の指先が頬に触れる。ふらりと、躰が揺れた。狭い給湯室の食器棚に背中がぶつかり、大きく音を立てる。
「大丈夫ですか?」
――可哀想に……。もっと早く私に言えば良かったのに。
狼のあの大きな口がにたりと笑う。
「気持ち悪い」
僕は口を押さえ、すぐ隣にあるトイレに駆けこんで嘔吐した。もうこれまで何度吐いたか判らないほどだから、ちゃんと便器で吐いた。洗面台では、詰まらせてしまうからね。後始末が大変なんだ。
背中を副寮長が擦ってくれている。
――きみだって、このまま舐められたままじゃまずいだろう?
舐められるとか、舐められないとか意味が解らない……。わざとあの男の家の車を煽って事故に繋げ、どれほどの賠償金をたかるつもりなんだ? きっと、そんな事故なんて食いつくためのきっかけにすぎなくて。恐らく、いや、確実に、脅しをかけるのは僕のことだ。あの男が、七万ポンドなんて破格の小切手を切るから――。
――まぁ、考えておくさ。
考えた結果がこれか……。
よろめきながら立ちあがった。副寮長が背中を支えてくれていた。
「口、すすぎたい」
洗面台に設置された鏡に映る僕は、押し潰された幽霊のように、影のように、幽く悲愴な顔をしていた。
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