微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

167 休暇

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 変わるもの
 変わらないもの
 一枚ひとひらの葉の裏表


「本当に僕のフラットで良かったの?」
 ハーフタームに迎えにきてくれた鳥の巣頭は、運転しながらちらちらと僕に視線をくれる。
「うん、家に帰るよりきみのところに居たい。きみがいない間でも、その方が落ちついて勉強できると思うんだ」

 鳥の巣頭の左手が伸びてきて、僕の手を握ってくれた。

 ほんの一週間ほど前に入学式を終え、ぶじオックスフォード大学生になった鳥の巣頭は、大学の学寮に居を移している。もちろん僕の休暇中も、鳥の巣頭は大学の授業がある。でも一緒に過ごしたい。だからこいつは、あのフラットを借りたままにしてくれている。僕のために。

 本当のことを言うと、大学生になったこいつのところへ行くのは怖かった。今までとは違う。こいつはもう、新しい世界で生きている。僕のいない世界で。僕は、変わっていくこいつを見るのが怖い。いつまでも澱んだ過去に囚われたまま、そしてさらに重い鎖に繋がれて足を踏みだす事さえできない僕とは違う。

 僕の吐いた深いため息に、こいつは掌を握りしめる指先に力を込めた。

「マシュー、」
「何?」
「着いたらすぐに、愛し合いたい」
「せっかちだね」

 僕はくすくす笑って、こいつの手の甲に唇を押しあてた。そして、絡み
あう指にそってゆっくりと舌を這わせる。

「拷問されているみたいだ」
 鳥の巣頭は、笑いながらわずかに身を捩る。
「もっとキスしようか?」
 僕は指先に軽く歯をあてる。
「駄目だよ。舞いあがって運転できなくなってしまう」
「それはそれでスリリングだよ」
「駄目」

 目線はずっと真っ直ぐ前を見つめて、大真面目にそんなことを言う。そのくせ、こいつの手は僕の手を握りしめたまま。笑ってしまったよ。慎重で、生真面目なこいつを揶揄うのは、やはりやめにしておこう。
 僕の笑い声を聞いて、こいつも嬉しそうに、ほっとしたように微笑んだ。
 やっぱり、鳥の巣頭は鳥の巣頭だ。不安げな瞳で僕を見ていたあの頃と変わらない。

 ――こいつは僕を信じていない。だから不安で仕方がないんだ。

「きみが好きだよ」

 何度も繰り返されたこいつのこの言葉が、ずっと虚ろな僕の中で反響するだけだったように、僕の言う「好きだよ」を鳥の巣頭は信じていない。
 依存だとか、愛だとか、こいつの言う小難しい理屈なんてどうだっていい。理屈っぽいこいつは、頭で僕を愛そうとする。僕を理解して丸ごと自分のものにしなければ気がすまないんだ。

 そんなこと、できるわけがないのに……。

「マシュー、」
「ん?」
「やっぱり、キスして」
「駄目」

 唇を尖らせて不満そうに横目で僕を睨んだこいつに、僕はにっこりと笑ってみせた。

「安全第一だろ?」





 着いたらすぐにでも、と言ったくせに、フラットの部屋に入ってこいつが一番にしたのは、湯を沸かしてお茶を淹れることだった。
 別に、いいけどね。

 僕たちは窓際のテーブルにつき、向かいあわせでお茶を飲んだ。窓の外の街路樹も、公園の樹々も、すっかりまとう色を変え、残り少ない黄金色の葉をはらはらと舞い散らせ、いくつもの、剥きだしの腕のような枝を冷気にさらしている。

「すっかり寒くなったね」
「うん」

 鳥の巣頭の淹れたお茶は香りが今ひとつだ。今はこいつよりも僕の方が、お茶を淹れるのは上手くなったんじゃないかと思う。

「腕は、もう良くなったの?」

 ――やっぱり、知っていたのか。
 僕は言わなかったのに。

「次は僕がお茶を淹れてあげるよ」
 微笑んで、ひらひらと痛めていた腕を振ってみせた。
「きみが淹れてくれるお茶が一番美味しいって、生徒会の連中が言っていたよ」
 鳥の巣頭は、ほっとしたように顔をほころばしている。

 それはそうだろう。僕に割り当てられる役務は、代筆と清書、それにお茶汲みぐらいだったもの。年から年中そればかりしていれば、そりゃ、上手くなるってものさ。
 でも、そんな嫌味を言いたい訳じゃないから、僕は薄い紅茶をこくりと飲みくだし、ゆるりと微笑んだ。

「マシュー、」
「ん?」

 こいつはカチャンとカップを置いて立ちあがり、ラベンダー色のベッドに腰かけた。

「来て」

 両腕を思い切り広げて伸ばす。笑っているのに、泣いているみたいな顔をして。
 僕は伸しかかるように、こいつの胸に顔を埋めた。

「辛かったね」
 囁く声が、耳を掠る。
「平気だよ」
 僕を抱きしめる腕に力が増し、痛い。
「腕を緩めて。服を脱げない」
「このままで」

 鳥の巣頭は僕を抱きかかえたまま、じっと動かなかった。

 だからこいつには言うなと言ったのに。
 辛いのは、こいつ。僕じゃない。
 僕は全然平気なのに、こいつの方がずっとショックを受けるから……。


「愛してるよ、マシュー。どんなことがあったって、それだけは変わらない」

 先のことなんて、判らないじゃないか。変わらない心なんて、ある訳がない。――そう、ずっと、思っていたのに。

「約束して、マシュー。僕がきみを想っていることを、いつだって忘れないって」
「知ってるよ」

 解ってるよ。
 だって、きみは馬鹿だもの。
 何度も、何度でも、きみを裏切り続ける僕を、それでもきみは好きだと言う。

 きみは、本当に、大馬鹿者だよ。




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