微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

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 闇が囁く
 沈黙の声は
 さやけき影の
 うねる水面
 


 死んでしまいたい、と、初めて思った。

 窓枠にもたれて、闇を泳ぐテムズ川を見つめていた。ひきこまれそうな艶やかな漆黒が安寧の色を湛える、僕を誘う甘美な幻惑。

 ここからあの川に身を投げて消えてしまえば、楽になるよ。
 そんな囁きが耳をくすぐる。

 でも、現実はそう甘くない。ここから飛び降りたところで、僕の躰は地面に叩きつけられるだけだ。遺体が汚くなるのは嫌だ。鳥の巣頭が悲しむから。川に飛び込んでも同じ。水にふやけてぶくぶくになった躰であいつとさよならなんて、冗談じゃない。それに、僕が死んでいなくなったところで、狼が大鴉を諦めるはずがない。僕は、僕が引き起こしたことの責任を取らなければならない。

 僕のせいで、大鴉は、狼に目をつけられることになったのだから……!

 事の発端は何だったのだろう?
 安易に大鴉のことを狼に告げたから? それとももっと前、梟に彼のレポートを見せたことが原因なのだろうか?
 どちらにせよ、きっかけは僕。その事実だけは変わらない。

 狼は、彼の情報を集めてこいと言ったけれど、そんな事をしてどうしようというのだろう? 大鴉を脅して、また投資レポートを書かせるつもりなのだろうか? あの大鴉が、他人の言うことなんて聞く訳がないのに。

 彼が投資サークルを閉鎖した時、サークル継続の嘆願書が生徒会に出されて大変だった。サークル顧問の経済学の先生や、校長先生にまでお願いして大鴉を説得していただいたけれど、無駄だった。彼がいきなりサークルを辞めたことで、投資ブームに沸いていた校内は騒然となっていた。それと前後して彼の受けた冷遇は、詐欺事件のせいだけではなく、この時の彼の冷淡な対応も一因じゃなかったのか、と僕は思う。

 彼はお金を稼ぐためにあのサークルを作ったのではない。レポートを書くデータ収集のためだ。だから、いくら頼まれたってもう投資助言は一切しないって噂なのに――。ここまでつらつらと考えていて、僕ははたと思考が止まった。

 たしか銀狐と鳥の巣頭は、大鴉は友人の小遣い稼ぎを手伝ってあげていて、その手数料だけで大金持ちだって、言っていなかったっけ?

 皆がいっている話と違う――。

 なんだか頭がこんがらがってきて、もう何もかも放りだしてしまいたい。

 いったいどうすればいいのだろう? 嘘も本当も分からない彼の噂話を狼に伝えればいいのだろうか? そんな事で彼は満足するのだろうか?

 答えなんて分かりはしない! 僕は狼ではないのだから!

 彼の思考も、欲望も、僕とはかけ離れていて想像することすら難しい。

 どうすればいいのだ? どうすれば?



 窓から離れベッドに俯せると、枕に顔を埋めてむせび泣いた。

 もうこうして泣いていたって、「どうしたの、マシュー?」と、声をかけてくれるあいつはいない。僕の髪を優しく梳いてくれるあいつの手も。「大丈夫だよ」と、抱きしめてくれる腕もない。

 いまだにあいつの香りの残る寮長室は、以前の僕の部屋よりも広い。寮生が相談事を持ちこむための簡易応接セットも置いてある。部屋でお茶を沸かすことだって許可されている。以前の自分の部屋と変わらないくらい馴染んだ部屋なのに。あいつはいない。

 鳥の巣頭のいないこの部屋で、この一年をすごすなんて!





 どれほどぐずぐずと泣き伏していたのだろう……。

 ドアをノックする音に、仕方なく顔をあげた。
「どうぞ」
 のろのろと立ちあがり、掌で涙を拭う。
「寮長、点呼の前に少しお話が、」
 部屋に入って来た副寮長は、暗がりにぼんやりと立っていた僕を見て息を呑んだ。
「大丈夫ですか?」

 僕はそんな酷い顔をしているのだろうか?

「電気を点けて、座って待っていて」
 部屋の隅の洗面台の鏡を覗きこむ。青白い生気のない顔が虚ろに僕を見つめている。


 冷水で顔を洗い、髪に櫛を入れている間に、副寮長は、僕の為にお茶を淹れてくれていた。

「ありがとう、美味しいよ」
 ソファーに座ってお礼を言うと、彼はほっとしたように白い歯をみせた。
「僕で良かったらなんでもおっしゃって下さい。話を聞くくらい、いつだってしますから」

 僕はちょっと微笑んで頷いた。
 今優しい言葉をかけられると、それだけで泣いてしまいそうだ。

 そんな僕の心を見透かしたように、副寮長は向かいのソファーから、僕の横に席を移した。
「なんでも言いつけて下さい。なんだってしますから」
 僕の膝に、ゆっくりと手を這わす。狂おしく僕を見つめる瞳は、鳥の巣頭の瞳を思わせる。
 あいつに逢いたくて、僕は瞼を瞬かせ、吐息を漏らした。

「寮長――」

 伸ばされた腕が僕の肩に回された時、時計のアラームが鳴った。

「行こうか、点呼の時間だ。話はまた明日にでも聞くよ」

 僕は深くため息をついて立ちあがった。


 もうじき、ハーフタームだ。鳥の巣頭に逢える。僕は寮長としてちゃんとやれていると報告して、あいつを安心させなければ。それから生徒会のことも。話したいことが山ほどある。

 あいつが喜んでくれる話を、たくさんできるように――。

 部屋をでて、もう後ろを振り返ることもなかった。副寮長は、僕から数歩遅れて、いつも通りの点呼の記録をつけていた。





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