微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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最終章

163 空を見る

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 巡る季節がひたひたと
 終わりの時を
 告げにくる




 執務室の窓に腰かけ、空を見ていた。
 突然、腕を掴まれた。
 「何?」と振り返り、背後に立ちすくんでいた銀狐を見あげて微笑むと、彼はほっとしたように息を漏らした。

「飛び降りるかと思った」

 一瞬何のことか解らずきょとんとして、遅れて吹きだし、声を立てて笑った。
「僕が? なんで?」
 銀狐は申し訳なさそうに、肩をすくめる。

「僕には彼のような翼はないよ。この広い空に憧れるだけ」

 くすくすと笑う僕の横に、彼も腰をおろす。

「彼って? 銀ボタンくんのこと?」

 僕ははにかんで、ちょっと迷ってから頷いた。銀狐相手に今さら隠したって仕方がない。彼は僕の想いに気づいている。少し誤解はあるようだけど。

「彼って、鳥みたいだろ。大空を自由に羽ばたく鳥。きみたち皆そうだ、ともいえるけど。なんたって奨学生カラスだしね。その中でも彼は格別。自由で孤高の大鴉だよ」
「確かに」
 銀狐も僕と同じように広がる空に目を細め、柔らかくため息を吐き、にやりと笑った。
「あの子の奔放さは、まさしく野生だね」

 銀狐、寮長になってから、大鴉に手こずらされているのかな?

 思わずくすくすと笑ってしまったよ。



「彼はね、僕の聖域なんだよ。強くて、美しくて、自由で――。そんな不確かなものを体現してくれる何か。憧れずにはいられないよ。――生きていくには、そんな何かが必要だろ? 彼を見ていると、僕はまだ生きている。生きていたいと思っているって、実感できるんだ」

「……彼は生命力そのものだから」

 そう答えながら、銀狐から笑みが消えた。硬質な金色が僕を睨む。

「言っただろ? 僕は死にたいと思ったことだけは、一度もないんだ。でも、自分が確かに生きているって実感もない。だから死にたいとも思わないのかもしれないけど……」

 彼は、僕をこの汚濁に満ちた世界から天に結びつける一本の糸。聖なる糸。ほとばしる命の躍動と色彩に満ち、その美しい翼の羽ばたきで僕のモノクロの世界に突風を起こし、揺り動かす。

 僕もきみのように飛べたなら――。
 世界を俯瞰して見ることができたなら――。



「僕はずっと、きみたちのその黒いローブに憧れていたんだよ。僕もね、奨学生試験を受けたんだ。結果はこの通りだったけど。……でも、きみや彼を知って納得した。奨学生きみたちは僕なんかとはまるで違う」
「……違わないよ、何も」
「違うよ、何もかもが」

 なぜだか怒ったようにふくれっ面をしている銀狐に、僕は目を細めて微笑みかけた。



 本当に、すべてが信じられないほど、僕なんかとは異なっていた。

 だって、銀狐は、本当にあのラグビー部のキャプテンを放校にしたんだ。
 あの時の、あいつの精液のついたハンカチと、僕が破り捨てた小切手、医療棟で手当を受けていた時に撮った、僕の躰に残る痣の写真を証拠にして。僕は校長から簡単に事情を聞かれただけ。僕の名誉のためにこの事は伏せられたまま、警察にも通報しなかった。でも、あいつの家の弁護士がやってきた。僕はどうしても、こんな事を親に話すのは嫌だと言ったら、銀狐が弁護士を手配してくれ、僕の代理ですべての交渉を行ってくれた。

 これが、僕と同じ年齢の生徒のする事かと思ったら――。

 ため息を吐くしかない。
 僕はといえば、あいつがジョイントのことまでバラすのじゃないかと、そのことばかり気にしていたのだから。
 おまけに腕のいい弁護士のお陰で、僕にはかなりの金額の示談金が入るらしい。ラグビー部という有力顧客を失った穴埋めに、このお金を狼に渡せばいいかと、ぼんやりと考え、胸を撫でおろす始末で……。


「腕はもうだいぶいいの?」
「うん。もうそんなに痛まない」

 ふっと、銀狐の声に現実に引き戻される。
 怒ったような、そんな心配そうな瞳が僕を見つめていた。当事者の僕よりも彼の方がよほど傷ついているような、そんな顔で。

「もう平気だよ」

 僕はゆるりと微笑んだ。

 大したことじゃない。本当に、大したことじゃない。鳥の巣頭にさえ知られなければそれでいいんだ。

「ジョナスには、」
 僕は頭を振った。銀狐は不服そうに唇を尖らせる。
「あいつは放校になったんだし、もういいじゃないか」


 ここで会話は途切れた。他の役員たちがどやどやとやってきたから。僕も、銀狐も自分の席に戻った。
 ペンを取ろうとして、僕は自分の手が悴むほどに冷え切っていたことに気がついた。


 もう風は冷たい。緑はその深みを帯び、秋から冬へと駆け足に季節は巡っていた。





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