微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
164 / 200
最終章

163 空を見る

しおりを挟む
 巡る季節がひたひたと
 終わりの時を
 告げにくる




 執務室の窓に腰かけ、空を見ていた。
 突然、腕を掴まれた。
 「何?」と振り返り、背後に立ちすくんでいた銀狐を見あげて微笑むと、彼はほっとしたように息を漏らした。

「飛び降りるかと思った」

 一瞬何のことか解らずきょとんとして、遅れて吹きだし、声を立てて笑った。
「僕が? なんで?」
 銀狐は申し訳なさそうに、肩をすくめる。

「僕には彼のような翼はないよ。この広い空に憧れるだけ」

 くすくすと笑う僕の横に、彼も腰をおろす。

「彼って? 銀ボタンくんのこと?」

 僕ははにかんで、ちょっと迷ってから頷いた。銀狐相手に今さら隠したって仕方がない。彼は僕の想いに気づいている。少し誤解はあるようだけど。

「彼って、鳥みたいだろ。大空を自由に羽ばたく鳥。きみたち皆そうだ、ともいえるけど。なんたって奨学生カラスだしね。その中でも彼は格別。自由で孤高の大鴉だよ」
「確かに」
 銀狐も僕と同じように広がる空に目を細め、柔らかくため息を吐き、にやりと笑った。
「あの子の奔放さは、まさしく野生だね」

 銀狐、寮長になってから、大鴉に手こずらされているのかな?

 思わずくすくすと笑ってしまったよ。



「彼はね、僕の聖域なんだよ。強くて、美しくて、自由で――。そんな不確かなものを体現してくれる何か。憧れずにはいられないよ。――生きていくには、そんな何かが必要だろ? 彼を見ていると、僕はまだ生きている。生きていたいと思っているって、実感できるんだ」

「……彼は生命力そのものだから」

 そう答えながら、銀狐から笑みが消えた。硬質な金色が僕を睨む。

「言っただろ? 僕は死にたいと思ったことだけは、一度もないんだ。でも、自分が確かに生きているって実感もない。だから死にたいとも思わないのかもしれないけど……」

 彼は、僕をこの汚濁に満ちた世界から天に結びつける一本の糸。聖なる糸。ほとばしる命の躍動と色彩に満ち、その美しい翼の羽ばたきで僕のモノクロの世界に突風を起こし、揺り動かす。

 僕もきみのように飛べたなら――。
 世界を俯瞰して見ることができたなら――。



「僕はずっと、きみたちのその黒いローブに憧れていたんだよ。僕もね、奨学生試験を受けたんだ。結果はこの通りだったけど。……でも、きみや彼を知って納得した。奨学生きみたちは僕なんかとはまるで違う」
「……違わないよ、何も」
「違うよ、何もかもが」

 なぜだか怒ったようにふくれっ面をしている銀狐に、僕は目を細めて微笑みかけた。



 本当に、すべてが信じられないほど、僕なんかとは異なっていた。

 だって、銀狐は、本当にあのラグビー部のキャプテンを放校にしたんだ。
 あの時の、あいつの精液のついたハンカチと、僕が破り捨てた小切手、医療棟で手当を受けていた時に撮った、僕の躰に残る痣の写真を証拠にして。僕は校長から簡単に事情を聞かれただけ。僕の名誉のためにこの事は伏せられたまま、警察にも通報しなかった。でも、あいつの家の弁護士がやってきた。僕はどうしても、こんな事を親に話すのは嫌だと言ったら、銀狐が弁護士を手配してくれ、僕の代理ですべての交渉を行ってくれた。

 これが、僕と同じ年齢の生徒のする事かと思ったら――。

 ため息を吐くしかない。
 僕はといえば、あいつがジョイントのことまでバラすのじゃないかと、そのことばかり気にしていたのだから。
 おまけに腕のいい弁護士のお陰で、僕にはかなりの金額の示談金が入るらしい。ラグビー部という有力顧客を失った穴埋めに、このお金を狼に渡せばいいかと、ぼんやりと考え、胸を撫でおろす始末で……。


「腕はもうだいぶいいの?」
「うん。もうそんなに痛まない」

 ふっと、銀狐の声に現実に引き戻される。
 怒ったような、そんな心配そうな瞳が僕を見つめていた。当事者の僕よりも彼の方がよほど傷ついているような、そんな顔で。

「もう平気だよ」

 僕はゆるりと微笑んだ。

 大したことじゃない。本当に、大したことじゃない。鳥の巣頭にさえ知られなければそれでいいんだ。

「ジョナスには、」
 僕は頭を振った。銀狐は不服そうに唇を尖らせる。
「あいつは放校になったんだし、もういいじゃないか」


 ここで会話は途切れた。他の役員たちがどやどやとやってきたから。僕も、銀狐も自分の席に戻った。
 ペンを取ろうとして、僕は自分の手が悴むほどに冷え切っていたことに気がついた。


 もう風は冷たい。緑はその深みを帯び、秋から冬へと駆け足に季節は巡っていた。





しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

青少年病棟

BL
性に関する診察・治療を行う病院。 小学生から高校生まで、性に関する悩みを抱えた様々な青少年に対して、外来での診察・治療及び、入院での治療を行なっています。 ※性的描写あり。 ※患者・医師ともに全員男性です。 ※主人公の患者は中学一年生設定。 ※結末未定。できるだけリクエスト等には対応してい期待と考えているため、ぜひコメントお願いします。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

ヤンデレBL作品集

みるきぃ
BL
主にヤンデレ攻めを中心としたBL作品集となっています。

ヤンデレだらけの短編集

BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。 全8話。1日1話更新(20時)。 □ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡 □ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生 □アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫 □ラベンダー:希死念慮不良とおバカ □デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。 かなり昔に書いたもので芸風(?)が違うのですが、楽しんでいただければ嬉しいです!

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...